現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展 作品解説(後編)
秋丸知貴(本展企画者・美術評論家)
(特に記述のない場合、写真撮影は全て成田貴亨)
The Terminal KYOTO
第二会場のThe Terminal KYOTOは、戦前の1932(昭和7)年に建てられた総二階の京町家である。間口約9メートル、奥行約50メートルの典型的な「鰻の寝床」であり、地下には二つの防空壕も有している。元々は呉服商の店舗兼住居であったが、現在は改装されてギャラリーになっている。
所在する岩戸山町は、京都市の中心部に位置し、市内最大の繁華街である四条通にほど近く、祇園祭の際には前の通りに山鉾の岩戸山が建つ。ここでは、本来祇園祭が八坂神社の祭礼であり、疫病の流行を鎮めるために始まった御霊会を起源とすることと、岩戸山町が天照大御神の岩戸隠れの伝説に由来する山鉾町であることを付言しておこう。
「Skyline」
勝又公仁彦《100150》2002年
勝又公仁彦《100600》2004年
勝又公仁彦《101010》2004年
「CITIES ON THE MOVE」
勝又公仁彦《#20160502Ng-HoMTL MG6033-3》2016年
勝又公仁彦《#20160502Ng-HoMTL MG5964-3》2016年
勝又公仁彦《#20120511Nt-Md YKL IMG8811-4》2012年
勝又公仁彦《#20120501 Sb-Hc YML IMG2296》2012年
勝又公仁彦《#20160502Ng-HoMTL MG5963-2》2016年
勝又公仁彦《#20120511Nt-Md YKL IMG8851-4》2012年
勝又公仁彦《Panning of Days -Syncretism/Palimpseste-3Days in 14years》2008-21年
街路から玄関を抜けて土間に入ると、勝又公仁彦の現代的な都市生活を表象する写真連作が出迎える。「Skyline」は、望遠的に俯瞰された都市景観であり、画面一杯に広がる天空の下に僅かに高層建築群の稜線が示される。画面を圧倒的に占める大空は、人間の営みの健気な小ささを表すと共に東洋水墨画の大自然表象としての余白に通じている。「CITIES ON THE MOVE」は、高速移動中の車窓風景を長時間露光したもので、セザンヌやドガやフォーヴィズムを想起させる。「Panning of Days――Syncretism/Palimpseste」は都市風景と夜桜を多重露光したもので、西洋的な三連祭壇画と共に日本的な三枚続きの大判浮世絵を連想させる。
鎌田東二《大島のオーソレミヨ(気仙沼市大島亀山)》2014年
上り口の右壁面には、鎌田東二の写真《大島のオーソレミヨ(気仙沼市大島亀山)》(2014年)が掛けられている。また、脇には鎌田の短歌「天割れて 地もまた割れて 橋掛かり/永遠(とわ)に忘れじ 霊(たま)の音信(おとづれ)」も添えられている。この作品の舞台となった宮城県の大島も東日本大震災の激甚災害地の一つであり、霧霞む亀山の山頂で背後の成木と重ね合わされた無残な裂木の幹枝は、救済を翼求するようにも生命を讃歌するようにも見える。
左 岡田修二《自然学概論4》2021年
中 岡田修二《自然学概論3》2021年
右 岡田修二《立花47》2021年
続く展示室では、岡田修二の新連作《自然学概論4》(2021年)、《自然学概論3》(2021年)、《立花47》(2021年)が展示されている。岡田の巨大油彩画の画題は長らく「枯木」のパブリック・イメージが強かったが、近年世界で頻発する様々な災禍を経て色鮮やかな花卉が画面に登場してきたことは、岡田が時代の雰囲気に鋭敏な電通のアートディレクターの出身である点でも注目に値する。特に、従来追求してきた「自然学」を冠する「自然学概論」と共に、新テーマとして日本の伝統的な文化や美意識を表す「生花」が選ばれていることは、時代がより前向きで地に足の着いた癒しを希求していることを反映しているだろう。
近藤高弘《白磁大壺――カタチサキ》2019年
その右隣りに隣接する坪庭には、近藤高弘の《白磁大壺――カタチサキ》(2019年)が展示されている。近年近藤は美術作品としての白磁壺の制作に取り組んでおり、特にこのひび割れた壺の様態には実用品(=工芸)からオブジェ(=美術)への転換が含意されている。その焼成過程で偶然に生じた歪みと割目は、近代西洋美術の原則が人為による自然の一方的整形であるのに対し、それとは異なり人為と自然を一期一会的に協奏させるものであり[i]、その意味で人間と自然を同類同等と見なす日本の伝統的自然観の表象が意図されている。
左 入江早耶《超疫病退散 赤面金剛困籠奈 ver.》2021年
中 入江早耶《超疫病退散 青面金剛困籠奈 ver.》2021年
右 入江早耶《超家内安全》2021年
入江沙耶《薬魔地蔵ダスト》2021年
続く喫茶用の手前の和室では、入江早耶の作品として、三方の壁に《超疫病退散 赤面金剛困籠奈 ver.》(2021年)、《超疫病退散 青面金剛困籠奈 ver.》(2021年)、《超家内安全》(2021年)、机に《薬魔地蔵ダスト》(2021年)が展示されている。これらはいずれも日用品を模したある種のポップ・アートであり、民間レベルでの厄除信仰を通じたアートによる「世界の再聖化」(M・バーマン)の一例である。
成田克彦《SUMI》1968年
続く喫茶用の奥の和室では、地板に成田克彦の《SUMI》(1968年)が飾られている。この木炭は、人間の生存に欠かせない火を含意すると共に、近代技術の特徴である「有機的自然の限界からの解放」(W・ゾンバルト)をもたらす蒸気機関も暗示している。その延長上に、火力、電力、原子力に支えられた現代の便利で脆弱な都市生活がある。
関根伸夫《空相――思ふツボ》1973年
その同じ地板の右隣りには、関根伸夫の《空相――思ふツボ》(1973年)が展示されている。これは、壺という工芸形式を模した観念芸術(コンセプチュアル・アート)であり、日本の伝統的な両義性尊重の心性の下に、もの派が触覚的実在性一辺倒ではなく視覚的観念性も時に混在させていたことを示す作品である。実際に、彫文の「コレは又何かと見れば思ふツボ」には五・七・五調の日本の伝統的な詩歌形式が採用されている。
池坊由紀《巡り――いのちが生まれる》2021年
近藤高弘《白磁壺――カタチサキ》2021年
その右隣りの床の間には、池坊由紀の《巡り――いのちが生まれる》が、近藤高弘のひび割れた《白磁壺――カタチサキ》(2021年)を花器に用いて飾られている。これもまた、個人完結よりも連歌的協働を貴ぶ日本の伝統的感受性の一つの現代美術的実例である。また、この割れた花器に生けられた枯葉は、川端康成が『美しい日本の私』(1969年)で引用した『池坊専応口伝』の一節「破甕に古枝を拾ひ立て」を想起させる。ここで表象されているのは、河合隼雄に倣えば、人為を尊ぶ西洋的な「完成美」ではなく大自然に習う日本的な「完全美」であろう。なお、この池坊のいけばなと近藤の割れた白磁壺の組み合わせは、既出の岡田の大型油彩画《立花47》と隣接する近藤の割れた《白磁大壺――カタチサキ》の組み合わせとも反復的に呼応している。
大舩真言《UTSUSHI》2021年
(写真撮影:田邊真理)
大舩真言《Reflection field――Ibuki yama》2021年
(写真撮影:田邊真理)
その右隣りの縁側から奥庭にかけて、大舩真言の《UTSUSHI》(2021年)と《Reflection field――Ibuki yama》(2021年)が展示されている。前者の作品は、大舩が大麻の茎の繊維を自らの手で一本一本細かく裂き軒下に吊るしたもので、穢れを祓う御幣のように風にそよいで揺らいでいる。この作品は、『古事記』において、天岩戸に隠れた太陽女神の天照大御神を呼び戻すために、麻布が八咫鏡と八尺瓊勾玉と共に木枝に懸けて捧げられたという伝説に因んでいる。また、後者の作品は、大舩が伊吹山で採取した自然石に白い岩絵具を塗布して霊妙に荘厳したもので、前者の「幣帛」が呼び込んだ一筋の太陽光線を受けて照り輝いているようにも見える。この無垢な純白のインスタレーションには、混迷の時代を切り拓く黎明と再生のメッセージが込められている。
大舩真言《上・空・下 / up – kū (there) – down》2021年
(写真撮影:田邊真理)
二階では、坪庭に面した廊下に大舩真言の《上・空・下》(2021年)が展示されている。これは、大舩が苧麻の茎の繊維を自らの手で縒り合わせた一本の糸を天井から地面まで垂らした作品であり、天地に無限に績み伸びうる観念を含意している。また、その糸の中央から下には繊細に光り輝く白銀色の岩絵具が塗布され、所々小さく水滴状に付着しているように見える。糸を水溜りに垂らすと、重力に逆らい繊維の中を液体が吸い上げられていく様子を思い出して欲しい。この何気ない場所にさり気なく溶け込んでいる小品は、実際には私達が日々の雑事の中でつい見落としがちなそうした大宇宙の物理的摂理とダイナミズムを静謐に表象している。
左 松井紫朗《Long Transmission》2018年
中 松井紫朗《Window-yellow》2021年
右 松井紫朗《Window-green》2021年
松井紫朗《Slip-per》2001年
その右隣りの和室の床の間には、松井紫朗の《Long Transmission》(2018年)、《Window-yellow》(2021年)、《Window-green》(2021年)が飾られ、躙り口から畳にかけては《Slip-per》(2001年)が展示されている。純和風の室内と、電話を象徴する伝声管、合成着色された窓、シリコンラバーのスリッパは、和風と洋風、前近代と近代が混在する現代日本の日常生活をユーモラスに象徴している。
左 小清水漸 無題《『えひめ雑誌』創刊号表紙原画》1988年
右 小清水漸 無題《『えひめ雑誌』第2号表紙原画》1988年
その右隣りの和室の床の間には、小清水漸が1988年に自身の出身地が発行する『えひめ雑誌』の創刊号と第二号のために描いた表紙原画が飾られている。当時小清水が寄せた下記の解説文章から、ここで切り抜かれ相互に入れ替えられている模様には、個体を超えて継承されるDNAの含意があることが分かる。
今月号の表紙の絵と、先月号(創刊号)の表紙の絵と、二つ並べて見て下さい。二つの絵の間に共通項が有るのが判りますか。
円形の部分を相互に入れ換えてあります。
複数の絵を同時に作って、それぞれの一部分を切り抜いて、相互に入れ換えるという手法を、僕はしばしば用います。そうすることでそれまで無関係に存在した複数の絵の間に、重要な関係が生まれます。しかし同時に、それぞれが独立した一枚ずつの絵であり続けることに、変わりは無いのです。
僕は、自分の子供が生まれた時、不思議な気分の高揚を感じました。一言でいうと、こんな感じです。僕が死んでも、生まれて来た子が僕の生を引き継いで生きていくのだという実感です。その時僕は、とても充足した気分で、自分の死を肯定することが出来ました。
親子というものは、妙な関係です。同じDNAに支配されながら、別々の生を生きるのです。
――小清水漸『えひめ雑誌』1988年10月10日号
小清水漸《表面から表面へ――オイルパステル2021》2021年
また、小清水の《表面から表面へ――オイルパステル2021》(2021年)は、オイルパステルを一本ずつ一枚ごとに様々な形に塗り潰したもので、1971年から開始された他の「表面から表面へ」連作と同様に、人為を超えて自然が一定不変であることを表現している。
小清水漸《垂線》1969/2012年
その隣接する吹き抜けで、約5メートルの高さの天井から吊り下げられているのが、小清水漸の《垂線》(1969/2012年)である。小清水は、関根の《位相-大地》の制作協力時に彫刻科出身として盛り固める巨大な土塊を垂直に保つことを担当した。その時の身体的記憶が、《位相-大地》後の小清水の最初の取り組みであり、重力による垂直線という観念の実在化であるこの作品に反映していよう。この作品は、《位相-大地》と並ぶもの派のもう一つの原点である[ii]。
関根伸夫《石をつる》1975年
その吹き抜けに隣接する廊下には、関根伸夫のリトグラフ《石をつる》(1975年)が飾られている。この作品は、釘に掛けた紐で石を吊るという普通は行わないトリッキーな行為により、石という素材の触感や重量感を自ずと内面で感得させる作品である。
吉田克朗《不明》1977年
この関根の版画作品に対面して、廊下の反対側の壁には吉田克朗の絵画《不明》(1977年)が展示されている。この肉筆作品は、上着の腕部分を木炭とアクリルを用いて擦り出(フロッタージュ)したもので、やはり絵画平面における立体的触覚性を追求している。この作品は奥庭に面した二階廊下に掛けられており、まるでこの建物で生活を営む人物がその眼下を眺め降ろしているように錯覚されるように意図して展示されている。
大西宏志《Mumyou》2021年
大西宏志の《Mumyou》(2021年)は、明かりの無い地下防空壕の中で規則的な振動音が繰り返されるサウンド・インスタレーションである。暗闇に階段で降りていく防空壕を子宮に見立てて胎内の脈打つ鼓動を想起させると共に、その太平洋戦争中に空襲防災用に作られたという由来が大地震や大事故等の破局(カタストロフ)を連想させずにはおかない。なお、仏教用語における「無明」とは真理に冥くエゴや煩悩に囚われている有様の謂である。
近藤高弘《HOTARU》2011年
近藤高弘の《HOTARU》(2011年)もまた、もう一つの地下防空壕の中でウランガラスとクラッシュガラスを後背照射して緑色発光させたインスタレーションである。その幻想的で人の心を妖しく欹(そばだ)てる蛍光色は、天然の蛍が生息する清水への郷愁と共に、私達の電化製品による日常生活が原子力発電による薄氷の上に成立していることを暗示しているようにも見える。そして、併せてやはりこの防空壕が空襲防災用に設置されたという由来と、地上に展示されている同じ近藤の白磁壺と大白磁壺が小破大破していることにより、私達の現代的都会生活の利便性が脆弱さをも内包させていることを黙示しているように思われる。
おわりに
近代西洋の自然支配型文明が、科学技術の暴走や自然環境の破壊を巻き起こしている現在、大自然への畏敬と共存共栄を重視してきた日本の伝統的自然観はその一つの中和剤としての価値がある。また、そうした日本の伝統的自然観に基づく様々な感受性も、改めて広い視野から公平に再評価される意義がある。その観点から、現代日本美術に今日もなお継承されている従来軽視されてきた作品内外の渾融的性格を示す、鼓常良のいう「無框性(無限界性)」や大西克礼のいう「パントノミー」は、普遍的な多元的価値観の尊重という意味でも改めて肯定的に評価すべきである。
いずれにしても、本展は、もの派には様々な日本の伝統的感受性が反映しており、その美意識や問題意識は当代最前線の現代日本美術にも通底的に共通していることを示すものである。それらはまた、同時代への共感の下に意識的のみならず無意識的なものとして創造的に賦活されたときに、最も美的かつ自然に――あたかも伝統的な歴史的・文化的遺産に溶け込むように――発揮されることを提示したところに、本展の現代美術の展覧会としてのアクチュアルな意義があると言えるだろう。
[i] 近藤高弘「モノと感覚価値──工芸と美術へのアプローチ」『モノ学・感覚価値研究』第1号、モノ学・感覚価値研究会、2006 年、48-49頁。
[ii] 秋丸知貴「現代日本美術における土着性――もの派・小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ――モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に」『比較文明』第35号、比較文明学会、2019年、169-190頁。
【関連記事】
現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展 作品解説(前編)第1会場:両足院 秋丸知貴評
企画趣旨「『悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~』展について」秋丸知貴評
生命の息吹を育む芸術「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」三木学評
悲しみを癒す生命の根源に触れる「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」三木学評