ユリウス・マイアー=グレーフェ「芸術の越境者」伊藤賢一朗評

ユリウス・マイアー=グレーフェ(1867-1935)というドイツの美術批評家を知っているだろうか?

随分と月日が過ぎてしまったが、ベルリンのLiteraturhaus Berlinで開催された彼の展覧会(ユリウス・マイアー=グレーフェ「芸術の越境者」2017年6月10日-7月16日)をレヴューしたい。

この展覧会は、マイアー=グレーフェの生誕 150 周年を記念したもので、文学館という場所で開催されたことからもわかるように、美術(作品)の展覧会ではなく、美術批評家についての展覧会であった。先立って2015年3月にマイアー=グレーフェの没後80周年を捉えてベルリンのマックス・リーバーマンハウスで行われたシンポジウムが発端となり、またその成果として出版された同名の研究書『Grenzgänger der Künste』と連動した企画でもある。

※画像はすべて筆者による撮影

この展覧会の主人公であるマイアー=グレーフェについては、若干説明が必要だろう。

彼は、『現代美術発展史』(1904)という著作によってフランス前衛芸術を中心とする西洋近代美術史観の形成に最も寄与した人物の一人である。彼が美術批評家として活動した時期は19世紀末から20世紀初頭のほぼ20年間で、クレメント・グリンバーグらのアメリカのモダニズム批評が興隆する以前に、イギリスのロジャー・フライやクライヴ・ベルとともにヨーロッパの初期モダニズムの形成(特にフォーマリズムの先駆として)に大きな影響力をもっていた。ゴッホの評伝を世界で最初に書いた人でもあり、エル・グレコをモダンアートの先駆者として美術史に突如登場させることになった発端も彼の著作だ。この時代のヨーロッパのカルチャー・シーンの中心人物の一人であった。

しかしながら、今日の日本で、このような美術批評家、マイアー=グレーフェについてよく知る人は少ないだろう。実は、彼の生きた晩年にあたる大正、昭和初期の日本では、例えば、高村光太郎が『白樺』に『現代美術発展史』のルノワールについての一節を翻訳し、『白樺』派の新進画家、山脇信徳と「絵画の約束」論争を引き起こした詩人(医学者でもあった)で美術批評家の木下杢太郎が深く影響を受け(木下はマイアー=グレーフェに依拠して論を張り、山脇サイドに立った白樺派陣営も基本的にマイアー=グレーフェに依拠していた)、さらに画家で文筆家であった木村荘八も『現代美術発展史』の後期印象派の画家たちを中心に翻訳し自身の本として出版している。また、その頃日本に滞在したイギリスの陶芸家、バーナード・リーチも柳宗悦ら民藝運動の推進者たちに『現代美術発展史』を紹介している。単行本として、マネ、セザンヌについてのモノグラフ、ゴッホの評伝が翻訳出版されている。戦前の日本では、マイアー=グレーフェはかなり影響力を持っていたのである。

いっぽうで、70年代初頭に、マイアー=グレーフェに関する唯一のモノグラフを書いているアメリカの美術批評家、ケンワース・モフェットは、グリンバーグの弟子の一人であり、ハーバード大学の大学院でロザリンド・クラウスやマイケル・フリードらと美術史の同窓である。モフェットの著作はもともと彼の博士論文であり、巻末には膨大なマイアー=グレーフェのビブリオグラフィーが載せられている。もちろん、モフェットが在学中の研究対象にマイアー=グレーフェを選択したのも、グリンバーグの美術批評に強い影響を受けていたからである。

モフェットのマイアー=グレーフェに関する叙述は、当然にしてフォーマリズムのバイアスが強いのだが、マイアー=グレーフェの美術批評家としてのキャリアを19世紀末のアール・ヌーヴォーへの傾倒とそれへの失望を起点に説明し、この美術批評家の始まりを、その時代の新しい装飾運動へのエンゲージメントと雑誌編集やギャラリー活動の実践から捉えており、まったくもって興味深い。後に『現代美術発展史』で展開されるマイアー=グレーフェの美術を見る眼がいったいどこから鍛えられたのかがうかがわれるからである(彼はまさに同時代の装飾運動にのめり込むことで装飾の表面を間近に見た後に、マネやセザンヌの絵画の表面に「平面芸術(Flächen Kunst)」というタームとともに「装飾」を見た)。

 

前置きが長くなったが、「芸術の越境者」展は、モフェットのモノグラフとも重なるようにマイアー=グレーフェのキャリアとアートライティングの輪郭を資料とともに辿るものだった。クラッシックな建物の階段を上がると、真っ先に「見ることを学ぶことがすべてだ(Sehen lernen ist alles)」という彼のフレーズに出会う。マイアー=グレーフェはベルリン大学で美術史を学んでいるが、非常に多くの美術品を実際に見ることで絵画や彫刻を純粋に感覚的に見るという眼を養った。この視覚に最も力点をおく美術へのアプローチの仕方は、ヨーロッパの20世紀への転換期において、「見ることの新しい学校(Neue Schule des Sehens)」として19世紀美術の見方に対する圧倒的な規範(カノン)となった。

展示は、彼が20代の頃にベルリンでスト​リンドベリなどのボヘミアンたちと交流した頃の小説や、彼が企画したムンクの初個展のための冊子から始まり、彼が設立と編集を担ったユーゲント・シュティールの総合芸術雑誌『PAN』(日本の明治末期に木下杢太郎や石井柏亭ら、文士や芸術家が会合した「パンの会」の名称はこの雑誌に由来する)、そして彼がその保守的な雑誌の関係者たちの反対を押し切って誌面に挿入したロートレックのリトグラフ《マルセル・ランデール》も展示されていた(彼はこのおかげで『PAN』の編集権を失い、ベルリンを去る)。

そして、彼が経営したパリのギャラリー「メゾン・モデルヌ」の資料、彼の美術批評家としてのエスタブリッシュメントとなる大型の三巻本『現代美術発展史』がそれらに続く。『現代美術発展史』は、19世紀末から書き始めたテキスト「美術を媒介するものの過去と今日」(世紀末ドイツの雑誌『インゼル』に発表された)を土台に、「現代絵画の四つの柱」としてマネ、ルノワール、ドガ、セザンヌを発展の頂点に添え、あたかも現代美術のための家を比喩するかのように構造化されているのだが、本全体としては、彼が現代の英雄として称賛する個々の芸術家とその周辺の芸術家たちについて書かれたテキストのパッチワークのようでもある。それゆえに、この大著の叙述の一貫性の無さや細かな史実の誤りを指摘する見方もあるが、作品の主題ではなく、絵画そのもの、色彩の扱い、色調、調和、コントラストについての詳細な記述は、ある意味、テキストで絵画を抱きしめるような愛情に満ちた行為なのである。それらの彼の言葉は決してシンプルなものでなく、読者に作品を近づけようとする情熱と洗練、活気に溢れている。それらにはストレートにはほとんど翻訳不可能なものもあり、只々眼から感じ取られる熱い感覚をみずからの言葉に変換した結果の、分厚いフレーズの塊だと言えるかもしれない。しかし、それらは記述自体が詩のような直感的な言葉の表現とは異なり、キャッチーな言葉を用いつつも芸術作品の魂と本質を書き手みずからが統一的に理解しようともがき、最後には作品を正当化するための思考の跡なのである。同時代のホーフマンスタールやヘルマン・ヘッセなどの作家の引用テキストも展示され、それらによると彼らはマイアー=グレーフェのテキストを高くリスペクトしていたことがうかがわれる。

話は前後するが、『現代美術発展史』刊行前の19世紀末、マイアー=グレーフェは、日本美術をヨーロッパに広めることに寄与した美術商、ジークフリート・ビングのパリのギャラリー「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」で展示やプロモーションのアートディレクターとして働いていた。彼自身もギャラリー「メゾン・モデルヌ」を開設し、若い工芸作家の制作を支援し作品を販売した。展示では、ベルギーのデザイナー、アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドがデザインした室内の写真資料や、ケースには実用的な商品として実際に販売されたヴァン・ド・ヴェルドの陶器やメタルワークが展示され、仮設壁には同様にヴァン・ド・ヴェルドの色鮮やかな壁紙が復元されていた。このギャラリーがパリのプチ・シャン通り82番地に存在したことを示すアール・ヌーヴォーのオリジナルポスターがひと際目を見張った。

このギャラリー活動と呼応して彼が編集した雑誌『装飾芸術』も展示されていた。マイアー=グレーフェは、この雑誌を独仏バイリンガルで編集し、世紀末ヨーロッパ中の新しいアートの状況をレポートするために数年間で無数の芸術家と工芸家のアトリエやギャラリーを訪ねたが、こうした活動が同時代の芸術動向に対する広範な知識と鋭敏な感覚を培うことにつながっていく。

『現代美術発展史』以降、彼は彼にとっての現代絵画のための活動に集中する。今日では非常にポピュラーになったフランス印象派を中心とする絵画は、当時のドイツでは評判が悪く、それほど重要な価値は認められてなかった。まさにこれらの価値の認められていない芸術作品の理解のために、彼は新しい美術の見方を切り開きドイツ公衆を感化させたのだが、「ベックリンの場合は、ドイツの場合」という、ドイツの英雄画家とドイツの文化状況に対する痛烈な批判、ドイツ美術よりもフランス美術を優先するという彼のスタンスには、間もなくナショナリスティックな非難が集中することになる。彼の意図は、当時のドイツ美術をフランスの新しい美術のトレンドへと開放することだった。1906年にベルリン国立美術館で開催された「ドイツ美術の100年」展において、マイアー=グレーフェは実務的なキュレーションを担い、フランスの新しい美術を見る眼で、フリードリヒやメンツェルなどのそれまで注目を集めることのなかったドイツの芸術家の作品を前面に押し出すことで、センセーションを巻き起こした。

「芸術の越境者」展の会場後半には、ゴッホ、マネ、ロートレック、マレース、ベックリンなどの絵画をマイアー=グレーフェが現代の我々に語りかけるためのレクチャー・ホールが設置されていた。彼のテキストと対応した絵画作品の画像が壁に投影された空間で、来場者は椅子に座りながら朗読によるその言葉を聞くことができた。我々はふつう、作品というオブジェに向かい合い、純粋に、あるいは展覧会場で用意された紙や音声のガイドとともに美術を鑑賞するものである。しかし、この展示がユニークな点は、批評家のテキストを作品と同時に鑑賞することにある。批評家のテキストを作品の解説としてではなく、むしろ、批評家のテキストを鑑賞するために作品を補助的な要素として見るよう促されるような、不思議な感覚をもたらしてくれるインスタレーションであった。またこのレクチャー・ホールの手前には、いくつもの音楽用語を用いて絵画の色彩感覚を伝えるというマイアー=グレーフェの特徴ある叙述を、現代アーティスト、モーリッツ・ヴェアマンが他の作家と共同して視覚化したメディアアートのインスタレーションが展示されていたことを追記しておく。

この展覧会には、ポスターや工芸品を除き、オリジナルの美術作品は展示されていない。もちろん、彼が叙述した多くの美術作品は、今日ではその市場価値が増大したことによる莫大な評価額のため、多くの作品を集めることは難しく、プロジェクションや複製プリントが展示を補完していた。ところが、この複製という手段は、芸術の本質をより多くの人々へと媒介可能にするという点で、マイアー=グレーフェにとっては重要なテーマであったようだ。展覧会の最後には、彼が美術愛好家をコミュニティー化するために1917年に設立した「マレース・ゲゼルシャフト」のポートフォリオと彼のテキストの一部が展示されていた。彼の英雄の一人、ハンス・フォン・マレースに捧げられたこれらのポートフォリオ集には、オールド・マスターの水彩画、パステル、ドローイングなどの高品質の複製のほか、マックス・ベックマンなど同時代作家によるリトグラフや、イラスト入りのドストエフスキーやノヴァリスなどの文学テキストも含まれていた。

「マレース・ゲゼルシャフト」の編集における彼の芸術家の選択は、『現代美術発展史』の叙述同様に、時系列的な一貫性を無視する傾向があり、むしろ楕円をいくつも描くように彼が直観的に認識した美学的類似性を優先するものだった。彼が『現代美術発展史』以前から思考していた「芸術の媒介」とは、現在の美的な関心に対して、彼の眼で見て実際に感じ取った過去の美術を任意に結び付けていく執筆スタイルと、まさにパラレルに企てられたオンゴーイング・キュレーションであったのだ。地味な展覧会ではあるものの、今後の日本において、マイアー=グレーフェの批評実践への関心が少しでも高まることを期待したい。

 

 

 

評者: (ITO Kenichiro)

初期モダニズムの美術批評研究、今日のアート・セオリー、キュレーション・セオリーから分野横断的なアート・カタリスト的活動に関心を寄せる。
学習院大学文学部哲学科美学美術史専攻卒業。同年、株式会社 資生堂入社。インターメディウム研究所アート・セオリー専攻修了。資生堂企業文化部へ配属後、資生堂企業資料館、資生堂ギャラリーの学芸員を経て、現在、資生堂アートハウス勤務。

His interests range from early modernist art criticism research, today's art theory, curatorial theory to cross-disciplinary art catalyst activities.
He graduated from Gakushuin University with a degree in Aesthetics and Art History, Faculty of Letters. He joined Shiseido Co., Ltd. Completed Inter-medium Institute Art Theory major. After assigned to Shiseido Corporate Culture Department, he worked as a curator at the Shiseido Corporate Museum and the Shiseido Gallery, and currently works at the Shiseido Art House.

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