「アウラ」概念を、世界で初めて解読!『アウラとは何か?――ヴァルター・ベンヤミンの哲学考』秋丸知貴評

ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を、世界で初めて解読!

(本稿は、amazonで公刊中の次の拙稿の日本語訳である。Tomoki Akimaru, What is Aura?: A Study on Walter Benjamin’s Philosophy, KDP, 2019.

アウラとは何か?

――ヴァルター・ベンヤミンの哲学考

秋丸 知貴

1.アウラと時間

ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念とは、一体何だろうか?

まず、ベンヤミンは「写真小史」(1931年)で、「アウラ」について次のように述べている。

アウラとは、一体何か? 空間と時間の織り成す一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。夏の真昼、寛ぎながら、地平に連なる山並を、あるいは見つめている者に影を落としている木の枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現れに関与するまで、目で追うこと――これが、この山並のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである[1]

また、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品(第二稿)」(1935‐36年)でも、「アウラ」について次のように再論している。

アウラとは、一体何か? 空間と時間の織り成す一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。夏の午後、寛ぎながら、地平に連なる山並を、あるいは寛いでいる者に影を落としている木の枝を、目で追うこと――これが、この山並のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである[2]

これらの記述から、「アウラ」とは、「空間」と「時間」に関わる「ある遠さの一回的な現れ」であることが分かる。また、この場合の「ある遠さ」とは、「どれほど近くにあろうとも」現れる以上、「空間」的距離ではなく「時間」的距離と解せる。

順を追って、考察しよう。まず、この「空間と時間の織り成す一つの奇妙な織物」という「ある遠さの一回的な現れ」としての「アウラ」は、物がその成立以来その存在する「空間」で蓄積してきた唯一無二の「時間」と解釈できる。なお、この場合の「物」には主体と客体の両方が含まれる。

また、「見つめている者に影を落としている木の枝」を「目で追うこと」が「この木の枝のアウラを呼吸すること」である以上、主体が客体の「アウラを呼吸する」時には、まず主体と客体が「いま・ここ」に共に存在すること、つまり同一の時間・空間上に直接的に現存することが前提と考えられる。そして、物の「アウラを呼吸すること」が「瞬間あるいは時間がそれらの現れに関与する」まで「目で追うこと」である以上、主体が客体の「アウラを呼吸する」際には、同一の「空間」上で、主体が、自ら蓄積してきた「時間」の延長上で、客体を、それがこれまで蓄積してきた「時間」を背景に知覚することが条件と想像される。

なお、この「目で追うこと」が「夏の午後」に「寛いでいる者」により行われていることから、その主体の客体に対する知覚は静態的で持続的と想定される。

2.アウラと相互作用

それでは、こうした蓄積的「時間」としての「アウラ」の内容は、具体的には一体どのようなものだろうか?

この問題について、ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(1939年)で次のように触れている。「アウラの経験は、人間関係によく見られる反応形式が、人間と無生物あるいは自然物との関係に転用されることに基づいている[3]」。

また、ベンヤミンは「セントラルパーク」(1939年)で、「アウラ」について次のように言及している。「アウラの概念を、人間同士の社会的経験が自然に投影されたものとして導き出すこと。つまり、まなざしが返される[4]」。

これらの描写から、「アウラの経験」は、「人間」と「人間」の関係における「反応形式」が概念上の基本であり、さらにそれは「人間」と「無生物」の関係にも転用されうることが分かる。そして、その「反応形式」には「まなざし」という視覚上の行為が関わっていると推測できる。

これに関連して、ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」で、視覚上の行為に関わる「アウラ」について次のように書いている。「見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、まなざしを開く。ある現れのアウラを経験するとは、その現れにまなざしを開く能力を付与することである[5]」。

また、ベンヤミンは同じ文章で次のように記している。「まなざしには、自分がまなざしを送るものからまなざしを返されたいという期待が内在する。この期待(これは、言葉の単純な意味におけるまなざしと同様に、思考における注意という志向的まなざしにも付随しうる)が応えられる所では、まなざしには充実したアウラの経験が与えられる[6]」。

これらの説明から、ベンヤミンの言う「まなざし」は、意識における志向的注意そのものを指すと解せる。従って、特に視覚の場合、「まなざし」とは、単に目に入ることではなく意識を集中して見ること、つまり、見つめること、注視、観察等を意味すると解釈できる。

ベンヤミンによれば、主体が客体に「まなざしを送る」時に客体が主体に「まなざしを返」すならば、主体は客体の「アウラ」を充実的に経験できる。ここで、客体が「見つめる者」になり、主体が「見つめられている者」になるならば、主体もまた客体に「まなざしを返す」ことになる。すなわち、ここでは、相互の注視により相互の注視が喚起され続ける相互反応が生じることになる。言い換えれば、これは、同一の時間・空間上に存在する主体と客体の間における、相互の作用(アクション)により相互の反作用(リアクション)が惹起され続ける相互作用(インタラクション)である。

例えば、ベンヤミン自身は「運命と性格」(1919年)で、主体と客体の相互作用について次のように記述している。「作用する人間と外的世界の間では、全てが相互作用であり、両者の作用圏は相互に重なっている[7]」。

そして、「アウラ」とは、この相互作用の結果として生じる物の変化と解せる。また、この変化の痕跡が時間的に蓄積された総体も「アウラ」と解釈できる。つまり、「アウラ」とは、物がその成立以来、持続的経験体として蓄積してきた固有の付加的変化全てと理解できる。そうであれば、「アウラの経験」(アウラを呼吸すること)とは、共に変化の時間的蓄積の総体に被われた主体と客体が、同一の時間・空間上で相互作用しつつ、その変化がさらに双方の変化の時間的蓄積の総体に更新され続ける経験と解釈できる。

事実、ベンヤミンは「1930年3月初旬のハシッシ」(1930年)で、「アウラ」について次のように説明している。「第一に、真のアウラはあらゆる物に現れる。人々が思い込んでいるように、特殊な物だけに現れるのではない。第二に、アウラは、そのアウラを持つ物の動きごとに徹底的かつ根本的に変化する。第三に、真のアウラは、通俗的神秘主義の書物が図解したり描写したりするようなピカピカした霊能的な魔法の発光とは全く考えられない。むしろ、目立つものが真のアウラである。つまり、装飾的なもの、物や存在が包まれるように固く縫い込められた装飾模様、それが真のアウラである[8]」。

こうした「アウラ」を生み出す相互作用は、「まなざし」を一種の比喩と捉えれば相手が無生物の場合でも成立しうる。実際に、ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」で、視覚以外の感覚がもたらす「アウラ」について次のように示唆している。「無意志的記憶に住まいつつある知覚対象の周りに集まろうとする諸表象を、この対象のアウラと呼ぶならば、その知覚対象にまつわるアウラは、ある使用対象に熟練として沈積する経験に正に対応する[9]」。

ここで、「ある使用対象に熟練として沈積する経験」が「アウラ」と対応するならば、当然「アウラ」を生み出す相互作用は視覚だけに限定されるとは考えられない。すなわち、この相互作用には、視覚のみならず触覚・聴覚・嗅覚・味覚の五感全てが関係すると想定できる。

これに関連して、ベンヤミンは「二度目のハシッシ吸引後の主症状」(1928年)で、「アウラ」について次のように伝えている。「ブロッホは、私の膝にそっと触ろうとした。その接触は、まだ指先が触れるずっと前から私には知覚され、私はそれを自分のアウラへの極めて不快な侵犯と感じていた[10]」。

それでは、こうした相互作用による変化の内実は、具体的には一体どのようなものだろうか?

それは、まず生物の場合には、主体が客体を見つめる時に客体が主体を見つめ返す等の情動的あるいは意識的反応の変化である。また、生物でも無生物でも、主体と客体が接触する時に双方に生じる物質的構造の変化も考えられる。そして、生物でも無生物でも、主体と客体が同一の時間・空間上に存在する際に、その相互関与に応じて双方に備わる歴史的証言性もこうした変化に含めうる。

現に、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、「アウラ」を次のように解説している。「ある物の真正性は、その物質的存続から歴史的証言性まで、根源から伝達された総体の本質である[11]」。

物は、同一の時間・空間上に存在する他の物と絶えず相互作用する。そして、その相互作用による変化はそれぞれの物に時間的蓄積として堆積していく。

もしその主体が生物であれば、客体に対する注意の度合いが高ければ高いほど相手に対する情動の密度も上昇する。また、もし両者が生物の場合、その相互作用はリアルタイム・コミュニケーションと呼びうる。これらの場合、相互に被る心理的あるいは物理的変化、すなわち「アウラ」もまた濃密に増加することになる。

3.アウラの凋落

以上のことから、「アウラ」とは、それぞれの物が被る変化及びその全蓄積と定義できる。

事実、ベンヤミンは『パサージュ論』で次のように表現している。「痕跡とアウラ。痕跡は、それを残したものがどれほど遠くにあろうとも、ある近さの現れである。アウラは、それを呼び起こすものがどれほど近くにあろうとも、ある遠さの現れである。痕跡においては、私達が物を捉える。アウラにおいては、物自身が私達を捕える[12]」。

また、主体が客体のアウラを経験する際の注意を伴う知覚は「アウラ的知覚」と形容できる。

実際に、ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」で次のように洞察している。「『知覚能力とは注意力』であると、ノヴァーリスは断じている。彼がそのように述べる知覚能力とは、アウラを知覚する能力に他ならない[13]」。

本来、アウラの生成は自然であり、アウラ的知覚も人間にとって自然である。伝統的に、長らく人類はアウラやアウラ的知覚に基づいて物理的にも心理的にも充実した生活を送ってきた。しかし、19世紀以降、科学技術が発達して主体と客体の関係に様々な方法で介入し始めると、自然なアウラ的知覚は干渉されるようになる。つまり、相互作用が減少すればアウラも減少する。さらに、五感の働きが衰えたり意識の集中が妨げられたりすると、アウラを知覚する能力も衰退する。その結果、アウラの経験の貧困、すなわちベンヤミンの言う「アウラの凋落[14]」が発生することになる。

例えば、蒸気鉄道では、線路と蒸気機関が作り出す機械運動による規則性やハイスピードによる動態的刹那性により、乗客と風景の関係は人工的で疎外的になる。そうした状況では、見ること以外の五感は減衰し、注意は散逸する。これにより、乗客と風景の相互作用は減退し、アウラもアウラ的知覚も凋落する[15]

また、写真では、観者と被写体の関係は断絶的で一方的な覗見になり、被写体の写像は表層的で見飽きたものになる。そうした状況では、五感は視覚だけに捨象され、持続的な意識集中は阻害される。これにより、観者と被写体の相互作用は喪失され、やはりアウラもアウラ的知覚も凋落する。

こうしたアウラの経験の欠損は、アウラ的知覚に慣れ親しんだ者にとっては「ショック[16]」と感受される。そうした反自然的知覚は、「脱アウラ的知覚」と形容できる。大抵の場合、古い世代はそうした不自然な知覚を貧寒なものとして毛嫌いする。しかしながら、ベンヤミンは、そうした新しい現実に適応する知覚を備えた新しい世代はそれらを魅力的なものと感受し始めると主張している。

例えば、蒸気鉄道では、乗客は短時間で遠距離を移動できる。また、写真では、観者は特定の時間と場所で撮られた被写体の写像をいつでも所有しどこへでも持ち運ぶことができる。さらに、写真の連続投影である映画では、五感は視覚(と聴覚)だけに抽象されるけれども、観者は様々な時間と空間を自由に編集した動画を楽しむことができる。これに加えて、ラジオでは、五感は聴覚だけに限定されるけれども、聴者はどれだけ遠く離れていても音声を聴くことができる。そして、電話では、話者はどれだけ遠く離れていてもお互いに対話することができる。これらの場合、誰でも自然な時間と空間の制約を超えて自由な活動が可能になる。

これらがもたらす新しい心性について、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で次のように要約している。「丁度、『物を近付けること』が現在の大衆の熱烈な関心事であるのと同様に、大衆はあらゆる所与の一回性をその複製の受容により克服しようとする傾向を示している[17]」。

ベンヤミンは、こうした新しい知覚の様態を評価し、人間の活動における可能性の拡大を賞讃している。いずれにしても、ベンヤミンの「アウラ」概念が近代における人間の知覚変容を分析するための道具として有用であることは間違いないだろう。

 

【註】引用は、全て既訳を参考にさせていただきつつ訳し直している。先人の業績に、心より感謝したい。

[1] Walter Benjamin, »Kleine Geschichte der Photographie« (1931), in Gesammelte Schriften, II (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 1989, S. 378. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、570頁。

[2] Walter Benjamin, »Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit [Zweite Fassung]« (1935-36), in Gesammelte Schriften, VII (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1989, S. 355. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、592頁。(以下、「複製技術時代の芸術作品」は全てこの第二版を用いる。)

[3] Walter Benjamin, »Über einige Motive bei Baudelaire« (1939), in Gesammelte Schriften, I (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, S. 646. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、470頁。

[4] Walter Benjamin, »Zentralpark« (1939), in Gesammelte Schriften, I (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, S. 670. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「セントラルパーク」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、381頁。

[5] Benjamin, »Über einige Motive bei Baudelaire«, S. 646-647. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」470頁。

[6] Ebd., S. 646. 邦訳、同前、470頁。

[7] Walter Benjamin, »Schicksal und Charakter« (1919), in Gesammelte Schriften, II (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 1989, S. 173. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「運命と性格」『ドイツ悲劇の根源(下)』浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、1999年、208頁。

[8] Walter Benjamin, Über Haschisch: Novellistisches, Berichte, Materialien, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1972, S. 107. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン『陶酔論』飯吉光夫訳、晶文社、1992年、143‐144頁。

[9] Benjamin, »Über einige Motive bei Baudelaire«, S. 644. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」467頁。

[10] Benjamin, Über Haschisch, S. 73. 邦訳、ベンヤミン『陶酔論』100頁。

[11] Benjamin, »Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit«, S. 353. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」589頁。

[12] Walter Benjamin, »Das Passagen-Werk«, in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, S. 560. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論(Ⅲ)』今村仁司・大貫敦子・高橋順一・塚原史・三島憲一・村岡晋一・山本尤・横張誠・與謝野文子訳、岩波書店、1994年、134頁。

[13] Benjamin, »Über einige Motive bei Baudelaire«, S. 646. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」470頁。

[14] Benjamin, »Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit«, S. 354. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」592頁。

[15] 鉄道乗車視覚の芸術表現への反映は、秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道』晃洋書房、2013年を参照。

[16] Benjamin, »Über einige Motive bei Baudelaire«, S. 653. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」480頁。

[17] Benjamin, »Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit«, S. 355. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」592‐593頁。

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評者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto(虚白院 内)、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2020年4月から2023年3月まで上智大学グリーフケア研究所特別研究員。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。上智大学、滋賀医科大学、京都芸術大学、京都ノートルダム女子大学で、非常勤講師を務める。現在、鹿児島県霧島アートの森学芸員。

(『週刊読書人』WEBでも書評を掲載中 https://dokushojin.com/)

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