具体美術協会ともの派のミッシングリンク①「森内敬子展 @LADS GALLERY」秋丸知貴評

具体美術協会ともの派のミッシングリンク①

森内敬子展 @LADS GALLERY

秋丸知貴

2021.6.8(火)~6.18(金)

12:00~19:00(月曜休廊・最終日17:00まで)

LADS GALLERY http://ladsgallery.com/

 

大阪市のLADS GALLERYで、「森内敬子展」を観た。森内敬子(1943-)は、「具体美術協会のラスト・メンバー」と呼ばれる現代美術の女性作家である。本稿は、「具体美術協会ともの派のミッシングリンク」という観点からこの個展を評したい。

2010年代に入り、欧米で戦後日本美術――特に「具体美術協会」と「もの派」――の本格的な回顧展が立て続けに開かれ、大きく注目されたことは記憶に新しい。例えば、2013年には、米ニューヨークのグッゲンハイム美術館で、「具体――素晴らしい遊び場(Gutai:Splendid Playground)」展が開催されている。また、その前年の2012年には、米ロサンジェルスのブラム・アンド・ポー・ギャラリーで、「太陽へのレクイエム――もの派の芸術(Requiem for the Sun: The Art of Mono-ha)」展も開催されている。

まずは、長らく国際的なアート・シーンから軽視されてきた戦後日本美術に大きなスポットライトが当たったことを喜びたい。ただ、問題は、戦後日本美術の代表的動向として取り上げられた、1954年から1972年まで続いた具体美術協会と、1968年に始まり1970年前後にピークを迎えるもの派をつなぐ文脈がよく分からず、表層的な作風の懸隔から両者がまるで無関係な個別の打ち上げ花火のように見えてしまうことである。このままでは、まるで具体美術協会は同時代の欧米のアンフォルメルや抽象表現主義のただの「亜種」のように、またもの派は同じく欧米のミニマル・アートのただの「物真似」のように思われかねない。

須田国太郎は「我が油絵はいずこに往くか」(1947年)で、欧米の最先端の動向のその度ごとの模倣に傾きがちな近代日本洋画の歴史について、内的な継続的発展性のない「切花的芸術[i]」と慨嘆した。同じ事情は、戦後日本美術についても当てはまるのだろうか? そうではないことを証明するのが、本稿の目的の一つである。

 

森内敬子《河図》2021年

 

もちろん、これまでも、官展から新傾向として分離した在野の「二科会」の中でも最も前衛的作家が集まった戦前の「九室会」が、戦後の具体美術協会ともの派の淵源であることは知られている。つまり、共に九室会に所属した、吉原治良(1905-1972)が具体美術協会を設立し、また斎藤義重(1904-2001)が多摩美術大学で教えた学生達からもの派が誕生したことはよく知られている通りである。

今、私達が知りたいのはその両者をつなぐ確かな文脈である。それさえ明らかになれば、戦後日本美術は戦後欧米美術のただの単発的追従などではなく、より確かな独自の価値と魅力を持つものとして立ち現れるはずなのである。正に、その両者の接点となるキー・パーソンの一人が森内敬子である。以下は、2021年6月13日に在廊していた森内本人に筆者が直接インタヴューした内容に基づいている。

1962(昭和37)年に、大阪市老松町のみえ画廊で開かれていた当時19歳の森内敬子の二人展に、吉原治良夫妻と白髪一雄(1924-2008)と元永定正(1922-2011)が訪れる。そして、初対面のその場で、吉原は森内に具体美術協会に入ることを慫慂する。

当時、大阪樟蔭女子大学国文科に通っていた森内は、同大学教授で書家の炭山南木(1895-1979)の内弟子になる話があったり、一陽会の洋画家・野間仁根(1901-1979)から目を掛けられたりするなど、当時の大阪では女子学生ながら注目されていた存在であった。しかし、当時の森内はまだ保守的環境にいたため、前衛集団であった具体美術協会の存在を知らず、既に野間の娘が在籍するフランスの版画工房アトリエ17への留学を決めて当地の部屋まで仮契約していた状況だったので、その旨を吉原に伝えてその場では具体美術協会への入会はひとまず断ったという。

それでも、吉原は森内に「パリに行くのだったらニューヨークに行ってください」と強く勧め、その後熱心に森内の父親の説得に当たる。結果的に、翌1963年に森内は吉原に師事し、1965年3月に21歳で単身ニューヨークに渡米することになる(なお、森内が正式に具体美術協会に最後の会員として加入したのは帰国後の1968年である)。

森内がニューヨークで借りた住居兼アトリエが入っていたビルの階上には、抽象表現主義の画家アド・ラインハート(1913-1969)が居住していた。そのことから、このアトリエは当時ニューヨークのアート・シーンの最前線に隣接していたことが伺われる。

この森内のアトリエに、1965(昭和40)年12月に、米国内を巡回中の「新しい日本の絵画と彫刻」展のために渡米していた斎藤義重が、磯辺行久(1936-)に連れられて尋ねてくる。何でも、斎藤は磯辺の住居に宿泊する予定だったのだけれども急遽磯辺の都合が悪くなったので、森内の住居の一室を宿泊所として貸して欲しいとのことであった。突然の申し出に戸惑いつつも、森内は斎藤が師吉原の旧友で身元の確かな国際的芸術家であり、異国の地で数少ない同胞が困っていることを見過ごせずその申し出を了承する。

 

森内敬子《Lu・縷の先頭》2021年

 

翌日、散歩に出た斎藤は帰ってくると森内に次のように語ったという。「今日、僕はワシントン・スクエア公園に行きました。女の人も男の人も、ジーパンがすごく格好良いと思いました。しかし、日本人が同じことをしてもダメだと思いました。ジーパンをはいても、似合わない。」その時の森内の印象では、それはアートでも何でも、欧米で流行っているものを恰好だけ真似てもダメで、日本人としてのあり方を考えなければならないという意味であり、その点で吉原が常日頃から求めているものとの共通性を感じたという。

また、それから10日間以上不思議な共同生活を送る中で、斎藤は自分の考えを森内に色々と語っている。ある時は、「敬子ちゃんは若いのにニューヨークに新しい風を感じるために来ているのは立派ですよ」と言われたという。

さらに、森内がはっきりと覚えているのは斎藤との次のようなやり取りである。「僕はね、吉原君が羨ましいと思っているんだ。」「何で?」「やはり、作家は皆を渦の中に入れて活動を起こさないとダメなんだよ。独りよがりはダメなんだよ。それが真の美術の姿なんだ。だから、吉原君が羨ましい。僕も、日本に帰ったら若い人達を教えるつもりです。」

これらの斎藤が森内に語った言葉は、親子以上に年齢差があり、直接的な利害関係がなく、芸術家として同じ志を持ち、そして海外での偶然の寄寓というある意味で純化された状況における、通常の社会的しがらみから解放された斎藤の一人の人間としての素朴な本心の発露であったと推測される。その発言の意味するところは、次のように解釈できるだろう。

 

森内敬子《龍の巣》2021年

 

周知の通り、斎藤は1920(大正9)年の16歳の時にロシア未来派の展覧会を見たことに衝撃を受け、村山知義や柳瀬正夢等の構成主義の影響を受けつつ戦前から前衛的な芸術活動に取り組んだ作家である。

戦中戦後の多大な苦難を乗り越え、1954(昭和29)年に大病を患い深刻な生活破綻を経験した後、ようやく1957(昭和32)年の53歳の時に、第4回日本国際美術展でK氏賞を、今日の新人57年展で新人賞を連続受賞して、「五十三歳の新人あらわる」と脚光を浴び始める。

続く1958(昭和33)年に日本の現代美術の中心である東京画廊で初個展を開催し、ヨーロッパを巡回する現代日本絵画展に出品し、1959(昭和34)年には国際美術評論家連盟賞を受賞すると共に、第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品している。

また、1960(昭和35)年に第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品し、グッゲンハイム国際美術展で優秀賞を受賞し、1961(昭和36)年に第6回サンパウロ・ビエンナーレで国際絵画賞を受賞し、1964(昭和39)年には再び第32回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品するなど、破竹の勢いで世界的な評価を獲得していく。

この間、希少な日本の前衛美術のトップランナーとして国際的な最前線で活躍する中で、斎藤は九室会の仲間であった吉原が1954(昭和29)年に具体美術協会を結成し、「皆を渦の中に入れて活動を起こ」していることは当然知っていた。実際に、具体美術協会は、1957(昭和32)年以来、「アンフォルメル」の指導者であったフランスの美術評論家ミシェル・タピエ(1909-1987)と国際的に連携し、1958(昭和33)年の第6回具体美術展のアメリカ巡回を始め海外で精力的にグループ活動を展開していた。それらの成果を見聞きするたびに、理解者の少ない前衛美術の世界で孤軍奮闘している斎藤は、具体美術協会を時間的にも空間的にも発展的広がりを持つ堅実な運動体として「羨まし」く思っていたに違いない。

 

森内敬子《因と縁》2021年

 

だからこそ、ようやく経済的に安定し、個人作家としてますます創作意欲が旺盛になっていたはずの1964年に、自分自身の制作時間が大幅に減ることを覚悟の上で、未来ある若者達に自らが切り拓いた国際的な前衛美術の道を伝えるために多摩美術大学の教授就任を受諾したのだと推測される。

斎藤が、戦前のパリに代わり、戦後急速に国際的なアート・シーンの中枢となり始めていたニューヨークで、師吉原への強い信頼により単身渡米して世界水準の「新しい風」に直接触れている22歳の森内と邂逅したのは、ちょうどその翌年の1965(昭和40)年のことであった。

今ではその困難さを想像することは難しいが、敗戦からまだ20年しか経っていない当時、若い女性が独りで元敵国の首都ニューヨークで生活することには言語を絶する苦労が伴ったはずである。恐らく斎藤は、目の前の吉原と森内の先鋭的で自由な師弟関係の中に、これから自分が本格的に多摩美術大学で森内と同世代の「若者を教え」ていくに際しての一つのモデルを見たはずである。少なくとも、その個々の才能を的確に見抜いて伸ばすと共に、一番重要な問題に直接取り組ませるスタイルに、何らかの親和性を感じていたことは間違いないだろう。

実際に、多摩美術大学における斎藤の一番弟子といえるもの派の中心作家・関根伸夫(1942-2019)は、斎藤の講義スタイルについて、「彼が強調したのは、ためらいなく直接自分の興味にかかわること」であり、「現在、興味をもっていることから始めなさい」と繰り返すものだったと回想している[ii]

「学生を教えることにかけて斎藤義重ほど巧みで才のある人を僕は知らない。彼の教授法は『引けば押し、押せば引く』式の対話法であり、変幻自在で的確であり、強烈にわれわれ自身に作用して、変化させてしまうのである。彼の指導は、学生の作品を評価評論する性質のものでなく、その人がなにを希求しているのか、どういう可能性があるのか、を具体的作品の検討や対話を通して、その人自身に理解させてしまうという方法である。それは他の人には真似のできないマン・ツー・マン的な対話法である。したがって、彼には一定の方法論や教授法はないし、われわれになにかを強制するものではない[iii]。」

 

森内敬子《龍の巣》2021年

 

ここで重要なことは、吉原も斎藤も、共に単に欧米に追従するのではなく、同じ土俵で国際的な最新動向を吸収しつつ、常にあくまでも「日本人としてのあり方」を追求していた問題である。結果的に、そうした二人が撒いた種から生まれた具体美術協会ともの派が共に、無数にある戦後日本美術の中でも現在特に日本を代表する動向として世界的に評価されていることは決して偶然ではないだろう。ここに、私達は具体美術協会ともの派を結ぶ現代日本美術史の独自の文脈の一つを見出すことができる。

さらに、こうした両者の人間関係を基にした美術史的考察に加え、両者の作品傾向における本質的通底性の美学的考察が必要であるが、それは近日中に稿を改めて論じる予定である。少しだけ、それを本展の出品作に関連させて説明しておこう。

 

森内敬子《ブラックホールとブラックホールの衝突》2021年

 

最新作の「河図」シリーズ(2021年)は、古今東西に見られる魔力を持つとされる「魔法陣」を現代日本的に解釈した作品群である。また、《ブラックホールとブラックホールの衝突》(2021年)は、森内が実見した平安時代の《藤原道長金銅経筒》(仁和寺蔵)の世界観をスティーヴン・ホーキングの現代宇宙論を基に再解釈した作品である。

これらはいずれも、異常に厚く盛り固められた絵具という素材自体の持つ呪力的な存在感や、金箔や銀箔が持つ超常的な神秘性が如実に表象されている点で、ある種の「護符」としての意味合いを有する作品だといえる。

こうした単なる人為的コンセプトを超えて素材の触覚的実在性を表現し、さらにそれを通じて大自然的=大宇宙的な感覚を提示するところに、私達は古代から連綿と続くある種の日本的な感受性を読み取ることができるのではないだろうか?

なお、帰国後も森内と斎藤の交流は長く続き、斎藤が亡くなるまでお互いに「おじいちゃん」「敬子ちゃん」と呼ぶ仲だったという。森内が「具体美術協会のラスト・メンバー」として、師吉原に常にリスペクトの念を抱いていることは当然である。それと同時に、インタヴューの終わり際に、森内が「現在の斎藤先生の評価はあまりにも低すぎる」と発言したことが筆者にはとても印象的であった。

(写真提供(全):LADS GALLERY)

[i] 須田國太郎『近代絵画とレアリスム』中央公論美術出版、1963年、111頁。

[ii] 関根伸夫『風景の指輪』図書新聞、2006年、46頁。

[iii] 同前、44頁。

 

【関連論稿】

具体美術協会ともの派のミッシングリンク②「森内敬子展 Re:Sparkle☆☆ @六々堂」秋丸知貴評 – アート&ブックを絵解きするeTOKI

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評者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto(虚白院 内)、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2020年4月から2023年3月まで上智大学グリーフケア研究所特別研究員。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。上智大学、滋賀医科大学、京都芸術大学、京都ノートルダム女子大学で、非常勤講師を務める。現在、鹿児島県霧島アートの森学芸員。

(『週刊読書人』WEBでも書評を掲載中 https://dokushojin.com/)

http://tomokiakimaru.web.fc2.com/

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