「物質分化」展@N&Aアートサイト 伊藤賢一朗評

複合的なマテリアルの混成から豊かな意味が引き出され、鑑賞者を幾つものレヴェルで作品との深いコミュニケーションへと誘い出す

展覧会名:「物質分化」

会期:2022年3月5日(土)―2022年3月17日(木)

開館時間:月〜土 10:00-17:00

休館日:日曜

会場:N&Aアートサイト(〒153-0051 東京都目黒区上目黒1丁目11-6)

入場料:無料

出展作家:保良 雄、アンヌ=シャルロット・イヴェール

キュレーション:宮坂 直樹

グラフィックデザイン:八木 幤二郎

主催:エイベックス・ビジネス・ディベロップメント株式会社、エヌ・アンド・エー株式会社、D/C/F/A

詳細URL:https://meetyourart.jp/pages/competition20210902

 

宮坂 直樹がキュレーションした「物質分化」展が東京中目黒にあるN&A アートサイトにて開催されていた。現代アートの発展を担う若手キュレーターの発掘と育成を目的とした「ネクスト・キュレーターズ・コンペティション 2021」の第三弾として企画された展覧会である。コンペティションでは、約20名の応募のなかから板橋 令子、島影 圭佑、宮坂 直樹の3名の受賞者が選出され、今年1月から各々の展覧会が開催された。宮坂の展示はそれらの最後となる。

宮坂以外の「ネクスト・キュレーターズ・コンペティション 2021」の展覧会は、「女性」や「自然」という切り口から世界の構成要素とそれらの複雑な関係性を捉えることをテーマとしたもの(板橋 令子による「Mother nature -アートに観る、女性や自然と文化の相互作用-」第一弾)、デザインリサーチや社会学の方法を用いて個別の現実に寄り添い、複雑な課題を模索するもの(島影 圭佑による「”現実”の自給自足展」第二弾)と、いずれも現代アートのキュレーションにおける今日的なテーマや方法論が明らかに意識されていると思われる意欲的な企画である。

「物質分化」展のキュレーターである宮坂 直樹は、ル・コルビュジエ財団特別研究員(2019〜20)などの経歴を持ち、パリやブリュッセル、東京や大阪などで個展を開催してきたアーティストである。同時にこれまで、東京や京都でキュレーションも行ってきた。このことからも、アーティストの制作の視点が展示制作というキュレーションにも深く結びついていることが予想される。本展は、アーティストの保良 雄とアンヌ=シャルロット・イヴェールの二人によるグループ展である。主催者の情報によれば、二人のアーティストの間、あるいは各々の作品間で成立する最小限の要素がどのような効果をもたらすのか、そこに生じる相互作用を引き出そうという意図を持った展覧会だという。

Photo : Aya Kawachi

会場を一見すると、アーティストが各々二つのインスタレーションを設置し、互いに空間をシェアしている。それ以外は、アーティストの作品タイトルとそのマテリアル名が列記された英語のウォール・テキストと、保良 雄によるサウンドが空間全体に静かに響いていた。いたってシンプルな展示構成である。鑑賞者は、最小限の情報としてウォール・テキストを頼りに、簡素なマテリアルの混成が生みだす複数のインスタレーションの間を行き来することになる。あるいは、情報と作品のはざま、作品を構成するマテリアル間の意味に想像を強いられるような展覧会であった。

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Photo : Aya Kawachi

さて、二人のアーティストの作品には、どういった関係性が見出せるのだろうか。各々の作品を見ていこう。

保良 雄は、人間、テクノロジーと、さまざまな自然物とを同列で捉え、そこに互いの存在が複雑に絡まり合うアクターとしての要素を認める。二つのインスタレーションのうち、会場の入り口に近いスペースには、楕円状に黒い土が撒かれており、その楕円の片側には大理石を薄くくり貫いた容器が載っている。一見プラスチック容器のようにも見えるが、経年による変化を思わせる自然な歪みが微妙に彫りだされている。容器のなかには、岩塩の粉が敷き詰められ、スペースの天井から生糸がその容器の上部ぎりぎりに釣り下がっている。おそらく、プログラミングで制御されているのだろうか、天井からは海水の液体が生糸の一方の側をつたわって、容器のなかの岩塩に雫を落としている。時間の経過とともに、海水の重みが生糸のぶら下がる弧のバランスを変えながら岩塩の上に水滴による穴をあけていく。

 

Photo : Aya Kawachi

会場奥のスペースにあるもう一つの作品は、長方形に削りだされた木材が両端を岩塩に支えられ、さらに木材の片側に近い位置に暗い褐色の岩塩が載せられている。岩塩には、もう一方の作品と同様に天井から海水が生糸の一方の側をつたわって、岩塩の上に雫を落とし、水滴はさらに岩塩と混ざって褐色の液体を木材から床にまで垂らしている。時間の経過とともに褐色の海水が木材の割れ目に浸透すると同時に床に水たまりとなって面を広げていく。

唯一の情報であるウォール・テキストには、作品を構成するマテリアルについて、海水(千葉)、岩塩(パキスタン、ネパール)、杉(千葉)、土(千葉)、生糸(フランス)、二進数で制御されるマシン(自然の音 石巻)、ポンプ、スピーカー、大理石と記されている。採集地が記載された自然界のマテリアルと人間の技術を介した人工物が混在している。保良の作品は、こうしたマテリアルの混成から、それぞれの存在要素が時間の経過とともに作用し合い、姿を変容させていく現象がみごとに物象化されている。

Photo : Aya Kawachi

作品タイトル《Fruiting body》の意味は、「子実体」である。子実体とは、胞子を生み出す多細胞の構造体、担子菌類のことである。いわゆるキノコを指すが、自然界のなかで、落ち葉や木を分解して無機物に還元し、多くの植物類の根と共生して植物類の生命を支え合う存在を意味する。作品はもちろん、タイトルが示す担子菌類の姿を彷彿させるものではないが、自然界の要素の有機的なアクターどうしの複雑な縺れ合いと、それらの共存の様子がテーマとして見て取れる。マテリアルどうしの混成は、こうした自然界の作用を表しているように思われる。

もうひとりのアーティスト、アンヌ=シャルロット・イヴェールは、人工物によるマテリアルを用いて有機体のような連続性を持つインスタレーションを展開する。マテリアルがスカルプチャーとして建築の既存の物質に働きかけることで、空間におけるマテリアルの容態の変化を明示する。ウォール・テキストによると、構成するマテリアルは、プレキシガラス、ステンレススチール、酸である。イヴェールの作品は、こうしたマテリアルによるモジュールがスカルプチャーのコンポーネントとなり、モジュール化の原理を応用した組合せが空間の知覚に動きを感じさせるリズムを与えている。

作品の細部を見ていくと、ステンレススチールの接合部によって分節を与えられたチューブが建築内部の天井や梁、床に支えられて建築のマテリアル面に接触している。チューブのなかには酸の液体が入っており、酸が建築を構成する元もとのマテリアルに直に反応して―天井とは黄色、梁とは緑、床とはオレンジと―液体の色を変え、チューブの透明なプレキシガラスに表情を与え視覚的な魅力をもたらしている。こうしたマテリアルによるスカルプチャーは、空間における垂直線と水平線の動きを規定し、建築空間内の既存の視覚的な関係性を見直し、さらには建築から及ぼされる新たな制約を受け入れている。

Photo : Aya Kawachi

作品タイトル《Cephalopod Behaviour》の意味は、頭足類のふるまい。頭足類とは、体は胴・頭・足に分かれていて、足も多数に分かれている、イカ、タコ、オウムガイといった頭足綱に属する軟体動物の総称である。タイトルはさしずめ、こうした多数に分岐する体を持った生物の佇まいといったところだろうか。イヴェールの作品は、人工的なプレキシガラスのチューブが既存の建築内部に寄生していき、酸の効果による化学的変化を媒介として建築と新たに持ち込まれたマテリアルとの作用関係を可視化し、空間に新たな形態を出現させていく実験のようである。作品タイトルが暗示する自然界の生物とは裏腹に、繊細なスカルプチャーには、建築とマテリアルとの間の静的な緊張感が充溢している。

展覧会では、二人のアーティストによるインスタレーションが物理的に交わったり、互いに介入し合ったりすることはなく、個々の作品がホワイトキューヴの空間をシェアしている。そこに見出せる関係性は、むしろ相反するものどうしの関係性だ。見る者にとって、保良の作品は、自然物のマテリアルの混成によって縺れ合う作用の可視化が時間の経過のなかで変化への想像を促すのに対し、イヴェールの作品では、人工物のマテリアルの化学的変化の可視化が建築(空間)の既存のマテリアルと新たなマテリアルとの実験的な戯れを意識させる。また、保良の作品は、水滴の滴りという自然現象のなかにある動きとマテリアル自身の自然な変化を内包しているのに対し、イヴェールの作品は人工的なものであって動きをともなうものではない。各々の作品は自律した存在を保ちつつ、空間全体において幾つものレイヤーでコントラストを描いている。

Photo : Aya Kawachi

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こうしたインスタレーションの展開では、各々の作品はともに複数のマテリアル間の関係性を切り結び、マテリアル自身の変容をも生じさせる相互作用を内包している。この相互作用は、個々の作品のなかで完結し、作品における個々の純粋なマテリアルへの興味を惹きつけるだけでなく、それらの間で縺れ合う作用の複雑な意味を見る側に気づかせるのである。これらのインスタレーションにおける異質なマテリアルどうしの関係性は、「アクター・ネットワーク理論の〈ネットワーク〉であり、常にアクターの動きに応じて新たなつながりに従事する過程にある、アクター間のダイナミックな相互接続のセット」[1]であると見て取れよう。ハイブリッドなマテリアルの混成は、「安定した構造のセットとは程遠く、おそらく、常に動き、増殖し、枝分かれしていく生物という観点」[2]から理解することができる。異質なマテリアルの複合物が生みだすインスタレーションには、それらのマテリアル間に見出される複数の作用に注意するならば、二人のアーティストの作品タイトルにも共通した有機的な生命の存在が浮かび上がってくる。さらには、保良のサウンドが自然物と人工物が織りなす展示空間全体へと浸透し、鑑賞者の身体感覚を二人のアーティストのハイブリッドな混成物に馴染ませ、マテリアルのオブジェクトへと鑑賞者の知覚を促す役目をおびていたと思われるのは、特筆すべき効果だ。

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ところで、本展のキュレーター、宮坂 直樹は冒頭にも触れたが、アーティストである。見る側の視線や視野に基づく知覚による認識方法から捉えられる空間概念や構成や、知覚にともなわれる身体的感覚を考察し、再解釈する作品を中心に制作してきた。宮坂はまた、作品を制作するとともに他のアーティストによる作品もキュレーションしてきた。宮坂にとって、キュレーティングとは何を意味するのだろうか。

キュレーティングとは、近年のキュレーション・セオリーによれば、「テクニック、方法を含むキュレトリアル分野における行動様式であり、その技能がアートと文化を公開することを目指すものである」。[3] 表現という点では、「主題、オブジェクト、場所と情報の編集物を統合すると同時に、それらの相互関係を確定する。この点に関して、明らかにラテン語の言葉〈curare〉の意味する〈世話すること〉、〈維持すること〉の原義を越えて、ますます媒介的側面を現出するために広範囲に可能性のある活動を包含する」[4]ようになった。要は、キュレーティングによってもたらされる展示と、展示を通じて提示される作品との境界が曖昧となり、そこから派生する意味、コンテクストやアクティヴィティが多くの創造的可能性をもつようになったのが今日のアート状況であろう。キュレーティングという行為は、今やいっそう複雑になった現代アートの制作と同様に、「編集されるものを生成状態に置く自己-反省的なプロセス志向」[5]を併せもつのである。宮坂はおそらく、キュレーティングの新たな可能性を見据えつつ、作品の制作行為の一側面を重ねているのだろう。宮坂にとってキュレーティングとは、自身の制作に向き合うための「自己-反省的なプロセス」を補完し合うもののように思える。

キュレーティングのプロセスとは、展覧会のための媒介物として複数のオブジェクトからコンテクストやストーリーを引き出し、鑑賞者を認知へと導く回路をデザインしていくようなものだ。それは、アーティストがオリジナルのマテリアルと対峙し、それらを主観的、美学的、社会的、政治的なフィルターを通じて複合的な編集物へと作品を物象化していくことと重なる。その意味で、今回の展覧会「物質分化」は、宮坂にとってふだんの制作ともパラレルに、鑑賞者を多元的な知覚へと誘うための媒介物を他者のアーティストのマテリアルの混成物の間に準備しようとする、まさに制作行為の一部だと言えたのではないだろうか。

Photo : Aya Kawachi

本展の展示では、通常ハンドアウトやウォール・テキストにあるような展覧会として導き出されたストーリーやコンセプトの説明は無い。ウォール・テキストには、作品タイトルと作品マテリアルのみ表記があり、そこには、鑑賞者の注意を作品のマテリアルのほうへと、それも作品の内にある複数のマテリアル間の関係性のほうへと促す(観照へと促すような)強い没入感が感じられた。それは、保良とイヴェールの作品がともにマテリアルへの求心性が高く、個々の作品が独立した強度を達成したインスタレーションであるからこそ成り立つものなのであろう。そのためか、展示空間のなかで二人の作品が互いに相反し合い、心地よいコントラストを感じさせたのは絶妙であった。ただ、それらの作品間の独立性と相反性が功を奏した反面、二人の作品どうしが相互に干渉し合い、意味や作用を媒介しあうような空間全体の効果のようなものがあまり見えてこなかったようにも思う。美的な媒介作用を通して、何かがある領域から別の領域に再配置されるときに常に働きかけてくるような意味の再提示や翻訳を促すアクター間の密接な相互依存性のようなものである。それは欲を言えば、作品の存在する空間自体が今日のハイブリッドで複雑なもののメタファーとして知覚されるような作品間のダイナミズムといえるものかもしれない。しかしながら、展覧会「物質分化」は、複合的なマテリアルの混成から豊かな意味が引き出され、鑑賞者を幾つものレヴェルで作品との深いコミュニケーションへと誘い出すことのできる稀有な展示であるように思う。背後に極めて今日的なテーマを感じさせるのも秀逸であった。

[1] Line Marie Thorsen, “Aesthetics of Concern: Art in the Wake of the Triple Disaster of North­Eastern Japan and Hurricane Katrina,” 2013, https://copas.uni-regensburg.de/article/view/196/224

[2] Ibid.

[3] Beatrice von Bismarck, ‘Curating Curator,’ in Kunst oder Leben: Ästhetik und Biopolitik, Art or Life: Aesthetics and Biopolitics : curated by_vienna, 2012, Verlag für Moderne Kunst, 2012, pp.34-44.

[4] Ibid.

[5] Ibid.

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評者: (ITO Kenichiro)

初期モダニズムの美術批評研究、今日のアート・セオリー、キュレーション・セオリーから分野横断的なアート・カタリスト的活動に関心を寄せる。
学習院大学文学部哲学科美学美術史専攻卒業。同年、株式会社 資生堂入社。インターメディウム研究所アート・セオリー専攻修了。資生堂企業文化部配属後、資生堂企業資料館、資生堂アートハウス、現在、資生堂ギャラリーキュレーター。

His interests range from early modernist art criticism research, today's art theory, curatorial theory to cross-disciplinary art catalyst activities.
He graduated from Gakushuin University with a degree in Aesthetics and Art History, Faculty of Letters. He joined Shiseido Co., Ltd. Completed Inter-medium Institute Art Theory major. After assigned to Shiseido Corporate Culture Department, he worked as a curator at the Shiseido Corporate Museum and the Shiseido Art House, and currently the Shiseido Gallery.

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