失われたパリ時代の作品から晩年まで幅広い創作活動を網羅
「展覧会 岡本太郎」
会期:2022年7月23日(土)~10月2日(日)
会場:大阪中之島美術館 4階展示室
先日、満を持して「展覧会 岡本太郎」が開催され、内覧会を見に行った。岡本太郎に関する展覧会は、2000年後以降も数多く行われてきたと思うが、1930年代のパリ時代から、《太陽の塔》(1970)《明日の神話》(1968 – 1969)以降の画業まで網羅しており、全キャリアの作品や資料をここまで集めた回顧展ははじめではないだろうか。特に先日、発表された岡本太郎作と推定されているパリ時代の貴重な作品3点から、晩年の作品がまとまって見られたのは画期的なことだ。
岡本太郎の評価が高まったのは、特にここ20年のことだろうと思う。最近では、岡本太郎の人気は、一般の人々にまで及んでおり、著名人でもファンが多い。それも深い人生哲学に惹かれる人々が多いのだ。ただ、長年、美術業界から無視に近い扱いを受けてきた。70年代~80年代は、バラエティ番組などのテレビ出演などが多く、変な芸術家の扱いを受けており、美術業界で取り上げられることはほとんどなかった。90年代になると病いを患い、1996年に没している。90年代は、具体(美術協会)が世界的な再評価を獲得した時期でもあり、具体の吉原治良と共に、戦後の前衛芸術を牽引した岡本太郎の評価がされてこなかったのは極めて不当だったといえるだろう。
マルチな活動をした岡本太郎の創作活動が再評価され始めたのは、太郎の没後、特に2000年代以降のことになるが、ひとえに太郎の秘書、養女であり、公私のパートナーであった岡本敏子、その甥である平野暁臣氏の活動によるところが大きい。岡本敏子は、岡本太郎記念館で積極的に若い研究者や芸術家の講演を企画し、太郎の著作を編纂していった。敏子による著作『岡本太郎に乾杯』(新潮社、1997年)は、瑞々しい文体で生前の太郎の足跡を伝えており、名著といってよい。身近で見続けた敏子によるものであり、実像に近いだろう。
ただし、歯切れの良い文体はどこか太郎にも通じるものがある。それもそのはず、太郎の戦後の膨大な著作は、太郎の発言を口述筆記したものであり、断定調の文章の間は、おそらく、かなりの部分、敏子が埋めて流れるような文章に仕上げたに違いない。つまり、少なくとも、太郎の戦後の著作の半分は、敏子によるものなのだ。長く人生を共にしたからなのか、あるいは、演技も入っていたのかわからないが、生前の敏子の身振りも太郎を彷彿させるものだった。そのことは、太郎をテーマにした著作『赤い太陽と黒いカニ』(中央公論新社、2003年)を著した、美術評論家の椹木野衣も指摘している。
出版社に勤務し、文学的素養のあった敏子は、個人としても才能があったとも思うが、そのすべてを太郎に捧げ、太郎のエバンジェリストとなった。個人名で執筆した小説『奇跡』(集英社、2003年)も、丹下健三と太郎をミックスしたような建築家との恋を描いているが、太郎と敏子との関係を想起させるものだった。脚色はしているが、ある程度は事実が入っているのだろう。
そして、敏子の功績で一番大きいものと言えば、岡本太郎記念館の創設と、2003年に発見された《明日の神話》の修復事業だろう。メキシコのホテルの壁画として描かれたが、ホテルは完成せず長らく行方不明になっていた。《太陽の塔》の構想とまさに同時期に制作されたもので、広義の彫刻の集大成であり、代表作が《太陽の塔》であるとすれば、絵画の集大成であり、代表作は《明日の神話》といっても過言ではないだろう。敏子は、渋谷駅構内で設置されることを見ずに2005年に没したが、太郎による敏子への最後の贈り物だったともいえる。
その後、《明日の神話》の修復を完成させ、渋谷駅構内に設置することを実現し、今日の太郎の美術業界、大衆への認知を不動のものにしたのは、平野暁臣氏といってよい。平野は、太郎が創設し現代芸術研究所の代表取締役であり、岡本太郎記念館の館長であるが、もともと展示プロデューサーとして、多くの博覧会に携わっている。現代芸術研究所は、1954年に太郎が創設したものであるが、法人格をもっていなかった。それが株式会社化したのは、大阪万博と深い関係がある。
1967年、大阪万博のテーマ展示プロデューサーに就任した際、日本万国博覧会より受託するために、法人格の組織が不可欠になった。そして、現代芸術研究所を株式会社化したのだが、テーマ展示のための多額の資金の運用や経理処理を太郎ができるわけではないので、それを差配するため、岡本敏子の実弟である平野繁臣が担当することになったのだ。繁臣は、大同生命に勤めていたが、太郎と万博協会の依頼を受けて、会社を辞め、現代芸術研究所の法人化とテーマ館の建設に尽力した。その後、万博の経験をもとに多くの展示をプロデュースし、一般社団法人日本イベントプロデュース協会の会長にも就任するなど活躍した。その息子が、暁臣であり、幼少期に、《太陽の塔》の建設や万博を体験し、岡本太郎、敏子、平野繁臣の薫陶を受けて育った。
敏子没後は、敏子の遺志を受け継ぎ、岡本太郎記念館の館長に就任し、敏子以上に岡本太郎の本を著し、万国博覧会の専門家として、大阪万博に関する書籍も多数刊行している。2018年には、《太陽の塔》の中にある、ボロボロになっていた「生命の樹」などの塔内再生事業をプロデューサーとして指揮し、塔内を公開に導いた。そのかいもあって、岡本太郎という存在は、芸術家としてだけではなく、生き方の指針となるような存在として、多くの人々に浸透することになった。
しかし、芸術家としての岡本太郎の評価は、まだまだ低いといえるだろう。たしかに、国内においては、その足跡がさまざまな視点で位置付けられるようになったが、国際的には、具体やもの派、草間彌生らの評価に比べて不十分だろう。その理由はいくつか考えられる。戦後、多くの芸術家がアメリカに移住したため、フランスからアメリカの現代美術の中心が移った。太郎は、アメリカにも呼ばれていたが、共産主義者と関係があると疑われ、入国が許されなかった。また、当時の太郎の作風であったシュールレアリスムから抽象表現主義にシーンが移っていったなどもあるかもしれない。しかし、太郎はシュールレアリスムから抽象表現主義、ポップアートを網羅する、重要な作家として位置付けられた可能性はあるだろう。
実は、具体が世界化するきっかけをつくったのは太郎でもある。サム・フランシス、ジュルジュ・マチュウ、カレル・アペルなど、戦後の前衛芸術を紹介した「世界・今日の美術展」を共催し、その成功を見て、アンフォルメルの理論的支柱であったミシェル・タピエが来日した際、吉原治良に請われて紹介したのは他でもない太郎である。その後、吉原とタピエは連携し、アンフォルメルの潮流として、ヨーロッパにおいて具体の活動を広めた。しかし、タピエは、絵画主体に考えていたため、ハプニング的要素が多分にあった具体の創作活動が矮小化してしまった面はある。いずれにせよ、具体の活動が1990年代に再評価されたのも、タピエと連携して、50年代後半から海外での展覧会を含めて国際的なアピールをしていたからでもあるので、それは戦前から国際的なネットワークを持っていた太郎の恩恵といえる。
もう一つの理由として、太郎が絵画を売らなかったという点も挙げられるだろう。太郎は一部の富裕層だけが作品を購入して、民衆が見られなくなることを嫌った。芸術は民衆のためにある、という信念は《太陽の塔》や《明日の神話》、数々のパブリックアートや書籍、プロダクトに貫かれていくことになるが、革命後のメキシコの壁画運動にも通じるような太郎の信念がどこで養われたのかはわからない。戦前においては、藤田嗣治もメキシコで見た壁画運動に感化されて、壁画の創作に取り組んでいるが、太郎はメキシコに直接、触れるのは、《明日の神話》の制作依頼を受けて現地を取材してからのことだ。いずれにせよ、戦後の海外での展覧会が限られ、さらに、絵画が流通しなかったため、世界的な市場の中で価値づけられなかったということだろう。ただし、太郎はそのような美術史的評価や、国際市場での評価を得ようと思ってなかったし、芸術を1つの実践的な思想として捉えていたので、それでよかったのかもしれない。
「岡本太郎展」と展覧会から「個」を抜いた先駆者も太郎のようだが、「展覧会 岡本太郎」ある種の目玉があるとすれば、先日発見されたという30年代の作品3点が公開されていたことだ。パリ時代に描いていた作品は1点残っていないとされており、1934年に制作された《空間》は戦後の1954年に、1935年に制作された《コントルポアン》は1954年に、1936年に制作された《痛ましき腕》は1949年に再制作されたものだ。確定したわけではないが発見された絵画は、1934年以前に制作されたものと考えられ、抽象絵画を描いていた頃にあたる。
また、1937年にフランスで刊行された画集『OKAMOTO』(G.L.M.社、1937年)から、作品を原寸大で拡大し、壁面にプリントで展示しており、パリ時代の作風の変遷がうかがえる。特に《痛ましき腕》のモチーフになった巨大なリボンは、《リボンを結んだ絵画》(1936)をはじめ、数多く描かれており、初期において重要なモチーフだったのは間違いない。1937年に描かれ、1949年に再制作、1983年にグッケンハイム美術館に寄贈された《露店》でも、深紅のリボンを着け、うつむいたまま笛を吹いている女性が描かれ、その前の露店にもリボンが並んでいる。リボンは、戦後にはすっかり消えてしまったが、30年代の太郎の創作を知る上でも重要なモチーフであることは間違いない。
《太陽の塔》《明日の神話》以降も、太郎の創作意欲はまったく衰えていない。極彩色ともいえる配色と、メタリックな光沢のある表現、ぎょろりとした目など、抽象とも具象ともいえない、独特な生命感のある絵画は、呪術的ともいえるし、世界の民族的な表現が太郎の中で昇華されているようにも見える。何に近いと言われば、むしろグラフィティに通じるように思える。ジャン=ミシェル・バスキア、キース・ヘリング、バンクシーなど、グラフィティ出身のアーティストも数多いが、太郎が現在生きていたら、巨大なグラフティの壁画に挑戦していたかもしれない。大衆に向けて制作をしていた、太郎の方向性と合致する。
いずれにせよ、岡本太郎の今日の再評価は、岡本敏子、平野暁臣氏の貢献が大きいが、《明日の神話》のように、今回も残っていないと思われていたパリ時代の作品が発見されるなど、死してなお意思を持っているのではないかと思えるくらいで、さすがとしか言いようがない。
1929年、ロンドン軍縮会議の取材で、朝日新聞の特派員で、漫画家であった父の一平の仕事について、小説家、歌人であったかの子と太郎でヨーロッパに行き、そのまま太郎はパリで絵の修行をすることになる。その際、一平は、東京美術学校の同級生ですでにパリで名声を得ていた藤田嗣治に、太郎を預けることを考えていたようだ。藤田は1931年には、世界恐慌の余波で資金もなくなり、エコール・ド・パリの外国人たちも離散したこともあり、南米に向けて旅に出る。太郎が藤田とパリで交流をもったのはわずかな時間に過ぎない。むしろ、藤田の影響は、吉原治良の方が大きかったかもしれない。太郎が渡欧する直前の1929年、帰国していた藤田に絵を見てもらったが他人の影響があることを指摘され、以降、作風をガラリと変える。吉原は「人の真似をするな。今までにないものをつくれ」と具体のメンバーに指導したと言われるが、それも藤田の影響だろう。
1920年代の藤田と、1930年代の太郎。日本人同士でなれ合いをせず、パリに溶け込んで創作を行ったという点で似ている部分は多いが、藤田が東京美術学校で油画だけではなく、日本画の技術を習得し、西洋画の伝統の中に日本画の技法を持ち込むことがきたことに対して、太郎はわずか1年で退学して、パリに渡ったため、日本の文化の知識や日本の伝統技術をほとんど知らなった。初期に抽象的表現に向かわざるを得なかったのは、文化的背景の少なさもあったことだろう。さらに、現地と馴染み、生活の場を共にしたり、マルセル・モースに民族学を学ぶんだのも、人間理解や文化理解が乏しいと自覚したからだろう。そのこともあって、太郎の日本研究は、戦後に爆発する。沖縄や縄文などの発見は、パリ時代の経験なくしてなかっただろう。
岡本一平、岡本かの子という偉大な両親と離れ、藤田のような先駆者の後ろ盾もない、岡本敏子、平野繁臣、平野暁臣と言ったよき理解者であり支援者もいない中で、まさに孤独にたえながら創作をしていた30年代の太郎は、だからこそ魅力的であるし、今回発見された作品の、まだ頼りなげな線と形の中に、太郎の葛藤が垣間見られるようでもある。岡本太郎が、岡本太郎としてなる前の、一人の異邦人の青年の表現から、すべては始まったのである。
本展は、孤独の中でもがく太郎から始まり、今日の「岡本太郎」を形成してく大きな物語が垣間見られた。本展を見てまた影響を受ける人々も出てくるに違いない。この先もまだ何か見つかる予感がするのは気のせいではないだろう。
藤田、太郎、吉原を結ぶ線は、後に大阪万博で再び結実する。それについてもいずれ記したいと考えている。
参考文献