【展覧会概要】
名称:スーラージュと森田子龍
会期:2024年3月16日[土]-5月19日[日]
休館:月曜日
※ただし4月29日[月・祝]、5月6日[月・振休]は開館、4月30日[火]、5月7日[火]は休館
開館:10:00~18:00(入場は閉館30分前まで)
会場:兵庫県立美術館 企画展示室
フランスのアヴェロン県と兵庫県との20年をこえる友好提携を記念し、「フランス現代絵画の巨匠・ピエール・スーラ―ジュ(1919~2022)」と「兵庫県出身の世界的書家・森田子龍(1912~1918)」の初めての二人展がはじまった。スーラ―ジュ美術館の全面的な協力により開催される本展では、二人の作品50点に加え書籍や日記などの資料から芸術家の出会いを考察するものとなっている。
フランスの国民的な画家として人気を誇るスーラージュは、1919年にフランス南西部アヴェロン県ロデーズに生まれる。若い頃に抽象絵画に触れた影響を受け、画業の最初期から晩年にいたるまで一貫して抽象を追求、独自の作風を確立していく。特に「黒」を専門とし、「黒が発する光」を追求し続ける彼の作品は独自の美学を表現している。その黒い画面は「動く黒」とも「窓のない壁」とも評される。2014年故郷ロデーズにその名を冠した美術館が開館。また、2019年から2020年までパリのルーヴル美術館で個展を開催。生前にルーヴル美術館で個展が開かれたのはシャガールやパブロ・ピカソに続き、史上3人目となる。また、生前最後の日本での展覧会は、2017年、ペロタン東京での個展であった。
世界的に知られる前衛書家として活躍した森田は、1912年兵庫県豊岡市生まれ。雑誌編集者としての側面もあり、師の上田桑鳩のもとで1939年頃から『書道芸術』、戦後1948年からは『書の美』の編集に携わる。1951年に創刊した『墨美』は1981年に301号で終刊するまで、「書芸術雑誌」として幅広い内容を取り上げる。従来の書壇の因襲的な思考や手法を刷新し、禅僧の墨跡や前衛書の研究を紹介した。子龍が編集した書雑誌『墨美』は国内だけでなく欧米にも大きな影響を与える。1953年にはサロン・ド・オクトーブルに招待出品され、海外へ初出品となった。1958年にはカーネギー国際美術展に出品し、1959年と1961年には第5回と第6回のサンパウロ・ビエンナーレに出品している。
戦後間もない頃、欧米の抽象画と日本の前衛の書は国境とジャンルをこえ、時代の共通性を表していた。森田が編集していた雑誌『墨美』(1951年6月創刊)では、1950年代に欧米の抽象絵画を積極的に紹介していた。
スーラ―ジュと森田の2人の交流の始まりは、その『墨美』がきっかけだった。『墨美』第26号(1953年8月)には座談会「書と抽象絵画・座談会」の詳細が載っている。座談会には画家の須田剋太、中村真、吉原治良、書家の大澤雅休、森田子龍、有田光甫らが参加し、ピエール・スーラ―ジュは話題の中心を占めた。『墨美』にはスーラ―ジュから提供された作品写真が10点掲載示されている。
森田は「白黒の仲間」と呼んだモノクロームの作品を描く画家たちとの絆に喜びを見出し、励ましになっていると語っている。スーラ―ジュは1958年に初来日した際、森田らと直接意見を交わしている。そして、森田が1963年にはヨーロッパ歴訪の折、パリでスーラ―ジュ夫妻と再会を果たしている。
スーラ―ジュにとって国境やナショナリズムを越えた交流「白黒の仲間」はどのようなものであったのか。それは1984年、東京の西武美術館で個展を開催した際、『美術手帖』の対談記事の中で次のように語っている。
“自分はすでに一九五〇年に、三十ぐらいで抽象を発表していますけれども、そのもっと前から、十八ぐらいからいろいろ描いていたんです。子どものときは樹木、それも冬の樹木で葉のないやつをよく描いていました。そうすると、一つの空間の中に抽象的な形が出てくるわけです。それにひじょうにひかれて、しょっちゅう描いていたわけです。東洋の書道を見たときも同じような感覚を受けて、それに基づいて自分のテクニックができてきたわけです。(中略)昔から日本の美術に興味を持っていたし、好きでもあったけれども、それとはまったく別のところでやっていて、日本に来てみたら、同じことをやっているという・・・・。したがって、それは影響とか関係ではなくて、出会いだというふうに自分は解釈します。”
そして、担当学芸員の鈴木慈子氏は次のように前述している。
“それは、ただ隣同士に作品が並ぶといった、通り一遍の国際交流ではなく、深部に響くインパクトであった。森田とスーラージュ双方にとって、自らの表現について考えを深めるきっかけであり、影響関係ではなく「出会い」というべきものであった。”
スーラージュと森田子龍 展覧会公式図録 P25-P26
「東西にかける虹―森田子龍とピエール・スーラ―ジュ」 鈴木慈子(本展 担当学芸員)
ほかにも、スーラ―ジュはパリで開催された日本絵画の展覧会のカタログや、奈良・東大寺の大仏殿の豪華本数冊、東京国立博物館図録、雑誌『墨人』や『墨美』などかなりの号を所有しており日本の伝統美術に惹かれていた様子がうかがえる。(※1)
いっぽう、森田のほうでも、最初に対面を果たした1958年から30年以上が経った1992年、スーラージュが第4回高松宮殿下記念世界文化賞(絵画都門)に選ばれたとき、その受賞を祝し、森田は次のような言葉を残している。
「“いのちの躍動”が外に出て形を結んだもの、それが作品だという私の書観を彼なら心からわかってくれるに違いないと私は思っている。今のところ、彼と私の作品の上での形にあらわれた違いは、文字を書くか書かないか、平たい刷毛を使うか、円い筆を使うか、その違いだけのような気がする」
スーラージュと森田子龍 展覧会公式図録 P22
「東西にかける虹―森田子龍とピエール・スーラ―ジュ」 鈴木慈子(本展 担当学芸員)
今回、スーラージュ美術館から出品される17点のうち16点は、日本初公開の作品である。中にはスーラ―ジュがこよなく愛したクルミ染料技法を使った作品も含まれる。スーラ―ジュは家具職人や靴屋など職人が多く住むロデーズという街で子ども時代を過ごす。クルミ染料を発見したのは、父親が自動車修理工場を構えていたコンバレル通りの高級家具師の仕事場だった。クルミ染料(ウォルナッツオイルステイン)は、木目を残したまま着色できる油性ステイン塗料で、木材に染み込んで着色するため、濡れたようなツヤが魅力で、高級感やあたたかみのある仕上がりになる。次のテキストは、クルミ染料についてスーラ―ジュが語った言葉である。
「クルミ染料は暗く暖かみのある色調を持っている。原初のカとでもいうべきもので、私は気に入っている。この染料を使えばおのずから透明、不透明が得られ、美しい響きが鳴りわたる。ありふれた安価な画材だが、そこがまた好みだった。」
ピエール・スーラージュ、2021年
スーラージュと森田子龍 展覧会公式図録 P12
スーラ―ジュの紙ペインティング ブノワ・ドゥクロン(スーラ―ジュ美術館館長)
1951年、前年のパリで開催されたサロン・ド・メ出品作から選ばれた若手作家の作品30点が、日本で展示された。これは毎日新聞社主催で開催された「日仏美術交換 現代フランス美術展 サロン・ド・メェ日本展」で、東京の高島屋を皮切りに、大阪、福岡、名古屋、札幌を巡回し話題を呼んだ。ここで、初めてスーラ―ジュの実作品が展示された。それが下記の作品《絵画 200✕150cm 1950年4月14日》だ。今回、実に約70年ぶりの再来日となった。
いっぽう、森田子龍の展覧会が、兵庫県神戸市で開催されるのは約30年振り。約30点の作品が、兵庫県立美術館に一堂に会することとなる。
森田子龍は「漆金」という独自の技法を開発する。この技法は、黒いケント紙にアルミ粉を混ぜたボンドで文字を書き、その上から表具屋が人工の漆を施すことで、書が金色に輝く効果を生み出す。海外に作品を展示する際に、痛みやすい紙ではなく、より頑丈なものを目指したものである。
結果的に、森田が見せる勢いある運筆の特色が際立つものなった。また、筆の動きや止め、回転などの動きが見えて筆跡が明確になることで、見るものに作品を読みこませる効果も期待できる。
展示会場ではピエール・スーラ―ジュと森田子龍の作品は空間ごとに分けられているが、交互に二人の作品を見ることができる。それはまるで対話のようであり、出会いから70年を経てもなお、第三者を通じて二人の交流が引き継がれているように思えてならない。
(※1)参考資料
スーラージュと森田子龍 展覧会公式図録 P16
スーラ―ジュの紙ペインティング ブノワ・ドクロン(スーラ―ジュ美術館 館長)