伝統的かつ専門性の高い日本画をたのしく紐解く「コレクション展 日本画ことはじめ」関連イベント ワークショップ参加レポート

展覧会概要
名称:コレクション展 日本画ことはじめ
会期:2024年1月13日(土)〜2月18日(日)
会場:西宮市大谷記念美術館
ワークショップ「日本画を見る」
日時:2024年2月10日(土)
会場:西宮市大谷記念美術館、緑爽庵
講師:日本画家・山下和也

西宮市大谷記念美術館の館蔵品である日本画を中心に、作品が描かれた時代背景や作家同士の関係性に着目した「コレクション展 日本画ことはじめ」が開催された(2024年1月13日~2月18日)。大正時代から戦前にかけて描かれた作品が中心となる同館のコレクションは作者も題材も多種多様である。しかし本展には、作品が描かれた時代背景や作家同士の交友関係などの観点から見ることで、重要な関係性や共通事項、それらの背景も含め、作品に注目するだけでは見えない日本画の魅力が見えてくるのではないかという意図がある。コレクションの新たな見方の提案ともいえよう。
そして、開催期間中に日本画家の山下和也氏を講師(以下、山下講師とする)に迎え、ワークショップ「日本画を見る」がイベントとして催された。ワークショップでは、実際に制作活動をしている作家目線の作品解釈や着眼点、また本展覧会・ワークショップ担当学芸員の作花麻帆氏(以下、作花氏とする)の話なども随所に盛り込まれ、日本画を見る時のポイントや面白さ、作品の背景にある時代背景や人間模様など新たな視点を得ることができた。その内容を以下のレポートで共有したい。

阪神間モダニズムを体現した西宮大谷記念美術館と都会の中の魅力的な池泉回遊式庭園

東洋のマンチェスターといわれ大きな経済力に支えられて豊かな伝統文化を想像してきた大阪と、世界の窓口としてエキゾチックな異国文化が根付いた神戸。この2つの都市の間で明治末期から昭和前期にかけて、伝統とハイカラが共存する芸術文化や建築や生活様式が花開く。それはのちに「阪神間モダニズム」と呼ばれるものとなる。その担い手の多くはこの地域の古くからの有力者や、この地へ移住してきた実業家・文化人をはじめとする住人たちであった。昭和の実業家・大谷竹次郎もその一人であり、大谷氏が収集した近代絵画のコレクションと土地・邸宅の寄贈を受け1972年に開館したのが西宮市大谷記念美術館である。

現在の美術館本館は増改築され、1991年にオープン。見事な池泉回遊式庭園は昭和の関西を代表する造園家・荒木芳邦の作庭。枯山水や園路などにふんだんに使われている赤石や奇石などの庭石は、大谷竹次郎氏が収集したもので、近代・昭和の豪邸の趣が感じられる。一方で、さまざまな植栽によって四季が感じられる癒しのある自然風景が一年中演出されており、ロビーの全面ガラス張りの大開口部から見渡せるこの美しい庭園風景は美術館の大きな特徴のひとつになっている。その庭園の一角にある和室「緑爽庵」は一般公開されておらず、入室は何らかのイベントなど限られた貴重な機会にしか叶わない。今回のワークショップはその「緑爽庵」で開催された。

西宮市大谷記念美術館 ロビーから眺める池泉回遊式庭園

日本画で使われる絵具とさまざまな道具、日本画を支える職人の存在

ワークショップ会場となる「緑爽庵」に入ると、コの字型に並べられた机の上に筆や紙、膠(にかわ)、染料、さまざまな種類の道具が整然と並べられていた。日本画の特徴の一つである画材についての話からワークショップは始まった。以下はその説明の要約である。

[日本画の絵具の特徴]

  • 日本画の絵具は主に膠と混ぜて使用する
  • 日本画の絵具には鉱物を砕き砂状にした “岩絵具”、貝殻を砕いた“胡粉”、天然の土や木の樹液など、自然物を原料とする絵具と化学的な技術で製造された絵具(新岩絵具など)がある
  • 岩絵具は同じ原料でも粒子が大きいと鮮やかに、細かいと淡い色に見える
  • 白の絵具でも胡粉(牡蠣、蛤貝など)、鉛白(鉛)、白土(土)、岩胡粉(大理石)、水晶末(水晶)など、様々な原料があり、色味や風合いだけでなく使用方法にも違いがある

[他の画材について]

  • 膠は動物性で牛・うさぎ・鹿などを原材料とし、種類や抽出方法によって粘土や接着力が変化
  • 紙は原料、製法、厚みなどによっても特徴が変わる。その特徴により絵具の発色、運筆の滑らかさやにじみなど、表現にさまざまな影響を与える画材であり、紙選びも重要
  • 紙は和紙だけでなく、中国産の紙や韓国の伝統的な紙工芸の韓紙(はんじ)など多岐に渡る種類がある
  • 絵絹は基本的に透けるため、最終的に紙で裏打されている。描く前後の手間はかかるが絵具の発色も良く描きやすい
  • 筆や刷毛は用途ごとに種類が豊富にある。絵具の彩色用だけではなく、にじみ止め用や糊や水のみに使う表具用の刷毛などさまざまに使い分けられ、毛の種類や量も用途によって変化する
  • 日本画は彩色用、運筆(線描)用、のほか胡粉用、金泥用など絵具の種類によっても筆が使い分けられる。
  • 書の筆は線による造形が中心のため、運筆、線描に特化しているが、日本画の画材店とは線描用の筆でも扱う商品が異なっている。筆に求めている特徴に違いがある。

筆、膠、紙、岩絵具など多種多様な日本画材。これでもほんの一部。画材は全て山下講師の私物品

日本画材を使用する奥深さを次のように山下講師は説明した。
「例えば、この紙の良さを生かすためには、まずその紙の特徴を知ることが必要となる。紙のにじみ具合を理解し、にじむ紙にあえてにじませずに描くことで出てくるあじわいもある。いろんな画材の特徴を理解して組合せ、それらを最大限に活かし、表現へと結びつけるための修練やこだわりがある。特に今回の展覧会で展示されている近代の日本画家の作品はその事を強く感じることが出来る」。

実物を見ながら日本画材についての講義を聞くと分かりやすく、制作の様子も想像がしやすくなる。思いのほか手間がかかることや、筆や和紙や膠など日本画を支える職人の方々の存在を改めて実感できた。

日本画の画材について説明をする山下講師

床の間にかけられた日本画を愛でる

いよいよ、実践編である。場所を座卓から「床の間」の前に移動する。
床の間には一幅の掛け軸。掛け軸とはさまざまな書や絵画を巻物のように表装して床の間に掛けて鑑賞できるようにしたもので、日本の室内装飾として重要な役割を果たしてきた。その掛け軸には鳥が二羽、花が二輪、樹木または草らしきもの、サイン、落款が描かれている。ここからいったい何をどのように見ていけばいいのだろうか。日本画鑑賞のルールがあるわけではないが、日本画を見るときのポイントを押さえておくと鑑賞するときの手助けにきっとなるはずだ。

本展覧会・ワークショップ担当学芸員の作花氏からの質問を手掛かりに、皆で鳥の羽の模様や赤い目の色などから鳥の種類は五位鷺(ごいさぎ)、花の種類は芙蓉であり、草木の状態から季節は初夏だろうと推測。学生時代に芙蓉の花を描いた経験がある山下講師は、「作家は無意識に描くことはしない。描かれているものはすべて描くことで何かを表現しようとする意図が込められている」と話す。その観点から作品に着目した点は以下の内容になる。

  • 花とつぼみの色と状態に着目。ある芙蓉の花は時間の経過によって赤く変化する。花の種類は「酔芙蓉」と判明
  • 花は時間の経過とともに開閉する。つぼみの大きさや花の開きぐらいから時間は午前中と推測
  • 日中は日に当たり葉がだんだんと弱っていく。まだ葉っぱは元気なので、時間帯は多分朝
  • 春柳の葉は若く短く色も薄い、夏の柳の葉は大きくしだれる。葉の形状などからみて季節は春から初夏
  • 画面上に斜めの線あり。花弁が風に吹かれてないから小雨と見る。雨は恵みの象徴である
  • 中国語の「路」と「鷺」は音が同じ「ルー」。吉祥の意味がある
  • 芙蓉の「芙」は「富」、「蓉」は栄える「荣」と音が同じ。生命力も強く縁起のいい花
  • モチーフを見るとおめでたいものが多く、縁起の良い画題

緑爽庵の床の間にて永田春水の作品の説明の場面

上記以外にも、作者である永田春水は丹念な写生に基づく花鳥画を得意としたこと、その師弟関係や茨木県出身であることが紹介される。また、技術的な点では、墨で描写した五位鷺の羽の上から青い岩絵具(群青)を塗る事によって深い色味やグラデーションが生じること、染料系絵具は水彩絵具のように扱えて塗りやすいが、岩絵具(特に粒子が大きいもの)は粒子を置くように塗らなければならないことなど、絵具の性質の違いを理解し使い分ける必要があるそうだ。そして洋画とは大きく異なり、日本画は大和絵など日本の伝統的な技法を引き継いだものであることや独自の描きかたがあることについての説明があった。季節・時間・天候など画面の中の状況やモチーフに託された吉祥に由来する文化、そして作者の意図や世界観など、一幅の掛け軸に描かれたことを手掛かりにここまで紐解くことができるのである。

いよいよ、「コレクション展 日本画ことはじめ」の会場へ、さらなる実践の場へと移動する。

「コレクション展 日本画ことはじめ」 展示室にて

狩野晴真《蓬莱山図》(1846-1862年) 展示室において大きな掛け軸を鑑賞する様子

1972年開館以来、初お目見えの掛け軸  ≪蓬莱山図≫  と今まで展示されてこなかった理由

日本画という言葉が生まれる以前の江戸時代に描かれた作品が展示されている第一章「蔵出し 大谷コレクション」。展示室に入って最初に鎮座するのが巨大な掛け軸・狩野晴真《蓬莱山図》(1846-1862)である。この作品は1972年の美術館開館以来、なんと今まで一度も展示されたことがない。その理由としては、開館当時は狩野晴真の研究があまり進んでおらずどのような作家なのか詳細が不明であったこと、また作品がかなりの大きさであった点などがあげられる。美術館開館52年目のまさしく蔵出しの機会を得てようやくお披露目された。2024年新年の開幕展覧会の1点目がこの狩野晴真《蓬莱山図》となる。いったいこれはどのような作品なのだろうか。

ここでも先と同様、描かれたモチーフを元に作品の絵解き・解説が行われた。以下要約・箇条書きとした。

[絵の内容について]

  • キーワードは鶴亀、松竹梅、不老不死、蓬莱山
  • 大きな霊獣である亀が伝説の霊山を支える構図
  • おめでたい吉祥画題が並ぶ。大きなお屋敷でお正月などの慶事に用いられたのではと推測

[画材について]

  • 大和絵の彩色技法が取り入れられ、近代以前の日本絵画のベーシックな技法が詰まっている
  • この絵では鉱物、染料、土性、金属など様々な異なる質感を持った画材が違和感なく調和している。
  • 水の部分が岩絵具、部分的に金泥、背景の雲霞にも金泥が使用されているなど画材を贅沢に使用

[表具について]

  • 金銀の糸で織り込まれた総金襴の裂地による掛け軸
  • 掛け軸は総合芸術。裂地は様々な織物、軸種は漆や象牙や金工や焼物を使用。絵の内容との取り合わせなど絵だけでなくぜひ注目してほしいところ
  • 絵も表具も様々な吉祥モチーフが組み合わされ構成されている。

[作者・狩野晴真について]

  • 署名がなく押印のみ、印の文字は “狩野晴真”
  • 名古屋の尾張藩の御用絵師は名を残さない仕事が多いが、晴真は例外
  • この作品《蓬莱山図》は一大絵師集団の狩野姓をもらってからの気合の入った作品と考えられる

この掛け軸の絵のモチーフとなる蓬莱山は、中国の伝説上で東方に存在する不老不死の霊山といわれ、玉と黄金の宮殿があるとされている。古来より吉祥の画題として多く用いられ、海上の霊山に松竹梅や鶴亀が添えられ、楼閣や仙人が配されることもある。また「蓬莱」は新年の季語としても使われる。

現在は国内において《蓬莱山図》の作者・狩野晴真の研究が進み、52年の月日を経て本展で初のお披露目となった。狩野晴真の作品は名古屋の徳川美術館やお寺などに多数収蔵されていることが現在判明している。今後の研究でさらに作品が見つかり色々なことがわかってくるだろうと学芸員の作花氏は話す。

狩野晴真 《蓬莱山図》 (1846-62)

狩野晴真 《蓬莱山図》(1846-62)部分  松竹梅、鶴亀、龍の紋様、絢爛豪華な総金襴掛け軸など細部が興味深い

 

他にも同じ展示室にある田能村直入と勝部如春斎の作品(下記)について、「この2つの作品が並ぶことによって対比で見えてくるものが面白い」とその理由を山下講師は次のように解説した。

一つ目の作品は京都南画壇の第一人者である田能村直入《歳寒三友図》(1860)。墨をベースに主に染料系の絵具で紙に彩色された作品で、松・竹・梅が全体を覆うように密に描かれている。次に狩野派の櫛橋正盈に師事した西宮に生まれた勝部如春斎《四季草花図》(1764-1784)は、金箔地に主に岩絵具を使用。葉の部分をよく見ると、角度や光の状況によって金箔の地が透けて葉が輝いて見える。金箔地に描くことを計算し、光の効果を活かしながら描いているであろうと推測ができる。また、草花の配置も画面の下方に集めて余白を大きく取り、実際に景色を眺めている状況に近い視点や体感となるように描かれている。当時は日本家屋などの畳の上に置かれたと想像すると、現実空間と地続きに絵が鑑賞され、絵と現実の空間がひとつにつながるような鑑賞体験があったのではないか。金を使った画面の面白さが存分に引き出され、また余白が非常にあるにも関わらず濃密な画面構成となっている。

この2つの作品を並列させたことで、中国由来の花鳥画と大和絵由来の花鳥画、画材の違いや掛け軸と屏風といった形式の違いなど、それぞれの特徴がさらに顕著になっている点が興味深い。

勝部如春斎 《四季草花図》 1764-1784年(左)、田能村直入 《歳寒三友図》 1860年(右)

会場風景 勝部如春斎 《四季草花図》 1764-1784年(左)、田能村直入 《歳寒三友図》 1860年(右)

作品の時代背景、画家たちのそれぞれの人生と交流関係から見えてくるもの

第2章「日本画を描く人々」では、(西洋の技法で描かれた洋画と区別するために)「日本画」という概念が生まれた明治以降の作品が中心となる。並べられた作品は一見関連性があるように見えないが、実は描いた作家同士が師弟関係や交流を持っているなどの関係性が深いものを並べて展示している。画家たちの関係性に着目することで作品やその背景を理解する手助けになることだろう。

ここで取り上げるのは、近代日本画の黎明期に開校間もない東京美術学校で共に学んだ生涯の友、横山大観と菱田春草である。二人は西洋の絵画に対抗しうる日本画を目指して切磋琢磨し、のちの日本画の新たな表現への道を切り開くことになる「無線彩色描法」を編み出す。これは日本の伝統絵画における重要な造形要素である線描を捨て、ほとんど色のぼかしの効果だけにより、ものの質感や大気中の湿度や光などを表現することを目指した技法である。しかし、当時の美術界では理解されることはなく、彼らは不遇の時代を過ごす。ついに春草は病を患い、大観がその療養費を稼ぐために奔走した。

下記の菱田春草《秋林遊鹿》(1909)について、山下講師は「一見伝統的な日本画に見えるが、装飾性と写実性の融合やクロムイエローなどの西洋顔料の使用といった実験的な取り組みが見られる」と他の春草の作品との比較から推測する。また、不朽の名作といわれる春草の代表作《落葉》(1909)もほぼ同時期に制作されているが、実はこの時期、春草は病により視力が低下していたのである。《秋林遊鹿》の鹿の繊細な毛並みを見る限り、絵描きとして目が見えない苦悩の中で描かれたものとはにわかに信じがたい筆致である。春草はこの作品を描いた2年後の37歳でほどなくこの世を去る。大観は晩年までその早すぎる死を悼んだという。

菱田春草 《秋林遊鹿》 1909年  拡大部分(右)

一方、横山大観の《若葉》(1914)は岩絵具の粒子感がありつつ絵面は非常に軽く、葉っぱの薄黄緑や黄色が特徴的である。伝統的な岩絵具である緑青(ろくしょう)の質感に似ているが、これは当時新しく開発された新岩絵具という岩絵具を模した絵具を使用している。新岩絵具は現在ではよく使われる画材であるが、当時は開発間もない最新の画材で使用すること自体が実験的であった。描き方もどこか洋画風で印象派のような点を重ねていく技法も見られ、日本画でありながら東洋と西洋のミックス感がある。そういった点からも、新たな表現のために当時の最新の画材や技法を貪欲に取り入れていたことがわかる。

横山大観 《若葉》 1914年  拡大部分(右)

菱田春草《秋林遊鹿》と横山大観の《若葉》は伝統的な日本画の絵具や技法よりも新たな画材や技法を駆使して描かれており、大観たちは西洋の絵画に対抗しうる日本画の在り方をさまざまな手法で模索していたのであろう。また近代日本における美術界の潮流や動向、生涯の心の友としての大観と春草の関係など、その背景を知るほどにさまざまな人間ドラマが見えてくる。そして作品に物語が加わることで、作家たちの生き様がそこに俄然立ち上がってくるのである。

会場風景  横山大観 《若葉》 1914年(手前左)、菱田春草 《秋林遊鹿》 1909年(奥右)

 

次に見るのは、動物を描く名手の西村五雲が描いた作品《冬暖》(1934)である。本展のチラシにも使用された猿の親子が身を寄せ合って暖を取っているこの作品には、先ほどの春草の鹿のような細密な毛描きや個々の猿を描き分ける輪郭線がない。猿の親子のひと塊をにじみとその上から描いた体毛を表す線のみで表しているのだ。猿たちの寒そうな様子、子猿が枝を噛んで遊んでいる姿や表情の愛らしさ、作者が捉えた繊細で鋭い観察力を絵の中に読み取れる面白さがある。五雲は動物を描くために犬猫はもちちん、さまざまな鳥や牛までも何でも飼っていた。京都市動物園にアシカを貸してほしいとお願いしたこともあるそうだ。無論断られ、アシカを描くために動物園に通い詰めたというエピソードもある。他にも特徴的なことは岩絵具をほとんど使用しておらず筆数も少ない点である。少ない筆致で描く省筆の技法は相当難しく、師匠である京都画壇の巨匠、竹内栖鳳の技を受け継いだ西村五雲の晩年期の実力あっての充実した作品といえよう。

このような画材や技術的観点からの作品の読み取りは、実際に日本画を描く側の目線がないとなかなか難しく、今回のワークショップ参加の醍醐味のひとつといえる。

西村五雲 《冬暖》 1934年

 

次に取り上げたのは京都市生まれの徳岡神泉。彼の作品《鯉》(1950頃)を見た人は、水の中にいる鯉の絵だと疑いなく思うはずである。しかし実際には、水は一切描かれていない。鯉の存在と塗りこめられた背景が絶妙なニュアンスを醸し出し、“水”を感じさせるのだ。作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りは、神泉が得意とするところである。象徴性と内面性にとんだ独自の境地に達した神泉の日本画は、戦後の日本画壇に大きな影響をもたらしたという。

徳岡神泉 《鯉》 1950年頃

山下講師は、神泉の友人である日本画家の小野竹喬の随筆「冬日帖」(求龍堂、1979年)(※1)に神泉に関する興味深い記述やエピソードがある、とその内容を紹介した。

 

“近年君は「何か形体のわからないものが描いてみたい」と漏らしてゐた。これは君の心象画からさらに抽象の中に突入しようとする志向であったやうである。”(p114)
“君の画境は写実を根幹としてゐた。心象的表現を発露しながらも、写実の実体から逸脱することはなかつた。したがって君の自然観は、常に普遍の庶民性につながると言へるかも知れない。高踏的画境を意識しながら、対象の自然感は、常に第三者の感じ得る客観的自然の形体をはづれていないのである。”

さらにピカソの展覧会が日本で開催されたときのエピソードへと続く。

“しかし或る日、君と私は或る展覧会でピカソの絵の前に立ってゐた。それはピカソのキュービズム時代の絵である。黒を主体とした色調の中に僅かに白と茶の交差する画面である。バイオリンのやうな形をしたものが中央にあるやうな気がするが、判然としない物体の表現である。(中略)二人はこの絵の前でしばらく動かなかった。少しずつ二人は話し合った。
こんな境地になれたらなあ……という詠嘆の声であつた。これは期せずして二人は同じことを考へてゐたのかも知れない。それは自分たちの現在置かれてゐる、写実という問題が大きくのしかかつてきてゐるのである。”(p116) 徳岡神泉 徳岡神泉兄の死を悼む(昭和47年8月)

小野竹喬・随筆「冬日帖」

 

鯉に無地の色面の余白といった画面は、ある意味で典型的な日本画的イメージを体現しているように見えるかもしれない。しかしその背後には、同時代的な心象的・抽象的な概念や造形思考が存在し、これが次なる日本画の潮流へと繋がっていくのだと思うと、作品を見る目がぐんと変化する、と山下講師は話す。

小野竹喬・随筆「冬日帖」(求龍堂、1979年) 小野竹喬 出版社:求龍堂 247ページ 発売日:1979/04/01

昭和の時代、新しい日本画の表現方法や在り方が模索されはじめる

第4章「新たな表現の追求」では、昭和時代の日本画の表現にさらなる広がりを感じることができ、第3章までの日本画とは少し様子が違うことが見て取れる。

西宮にゆかりの深い山下摩起は京都市立絵画専門学校で日本画を学んだ卒業後、油彩画の研究に着手。留学先のフランスで学び、フォヴィスムやキュビスムという新しい絵画運動に強い影響を受ける。帰国後は日本画を再び制作し、西洋絵画を取り入れた特殊な日本画に取り組んだ。下記の作品《雪》(1933)が、もし屏風に描かれていなければ、一目見てこれが日本画とは分からないかもしれない。そして驚くことに制作されたのは1933年、90年以上も前に描かれた作品には到底見えず、古臭さもまったく感じられない。

山下摩起 《雪》 1933年

そして、大阪で回顧展(2024年3月)が予定されている福田平八郎は忘れてはならない作家である。鋭い観察眼を基に対象の本質を捉え、対象がもつ雰囲気や美しさを抽出した表現が特徴で、色使いにおいては油彩画に影響を受けた鮮やかな色彩が見られる。デイヴィッド・ホックニーが1971年に来日した際、京都市美術館に足を運び、そこで福田平八郎の代表作《蓮》(1932)や《新雪》(1971)を見て、その明快な色彩と構図に圧倒され影響を受けたといわれる。

作品《竹》(1950頃)(※2)はクローズアップや連続する直線によるリズミカルな配列と、岩絵具を使っているにも関わらず、画面からあふれ出すような色彩の透明感と清々しさ軽やかさがある。また、《紅葉》(1950頃)(※3)に関しても、「写実を通して造形的・抽象的な視点で自然を愛でることができた人だったのでは」と山下講師は語る。

既出の神泉のエピソードで触れた小野竹喬は、「雲の画家」「空の画家」として知られ明るく澄んだ色彩によって情緒豊かな風景を描き、福田とも深い交流があった日本画家である。ぜひとも紹介したい福田平八郎とのこぼれ話がいくつかあると、先程の小野竹喬・随筆「冬日帖」を山下講師は再び開いて読みはじめた。

 

“いつだったか君は「小野さんゐますか」と訪れてきた。手には二枚の作品らしいものをさげてゐた。すぐ私の目の前にそれをたてかけた。庭石に水を含んだ雪が積もつてゐる横画面の作であつた。も一つの一枚を畳の上に置いた。それは絵ではなく写真であつた。いま君の持つてきた絵と同じ構図ではないか。「この写真を見てこの絵を描いてるのや」普通なら恥づかしいと思ふ気持の場合だけれども、君は平気であつた。その態度は、写真は自然の対象として取り扱つてゐるとしか思へない。「この写真の石ののぞいてゐるところが、僕の絵よりも濃いので、この写真のやうに、もつと強くしたらどやろ」「それは強い方がよいだらうけれど、そこだけ飛び出しはしないかなあ」私はつぶやくやうにいつた。君は「ふむう」といつたきりだつたが、結局君は私を相手にして自問自答してゐるのである。東京・兼素堂での展観では、この絵が光つた。私は君の傑作の一つだと思ふ。写真と同じ構図で描いたにしても、福田式に消化しつくされてゐて、美しいのである。絵とは面白いものだと思ふ。”(p126) 福田平八郎 福田平八郎兄をおもふ(昭和49年4月6日)

小野竹喬・随筆「冬日帖」

 

当時すでに作家としての地位も名誉も確立し、「写生狂」を自称していたという福田が、ある意味写真を見ながらそのまま写し描いていることにまず驚く。さらに小野によればその作品は傑作で、絵とは面白いものだと感心させているのである。もう一つは、福田平八廊の代表作のひとつ《新雪》に関するエピソードである。

 

”昭和二十三年日展第四回のときである。東京は戦災のあと、泊まりつけの宿は皆焼失してゐた。ある人のあつせんで、上野公園清水町近くの一角に料亭である一軒が宿もしてくれるといふので、審査に東上の京都組は皆そこに泊ることになつた。福田さんは「新雪」をまだ未完だと言つて、宿に持ち込んで仕上げにかかつた。私も未完なので宿に持ち込んだが、宴会場に使つてゐる大広間に、も一人未完作に筆を加えてゐる人がゐた。福田さんが大きな声で「小野さん、筆の切れたのないやろか」「さあ切れたの無いけど、新しいの先切つたらどうやろ」不図見ると福田さんは、細筆の先に胡粉をつけて、叩くやうにして描いてゐるのである。「濡らさなあかんか」「そら濡らさなあかん」このオーム返しの返事は、強い響きをもつて、私の耳にはね返つてきた。なる程濡らしては叩き、濡らしては叩くので、あの柔軟な表現の新雪ができ上がるのであつた。”(p128)福田平八郎 福田さんの思ひ出(昭和50年2月)

小野竹喬・随筆「冬日帖」

 

この文面から、絵具や画材の使い方、表現に対する粘り強さや強い思いが文章から非常に伝ってきたと山下講師は話す。もうすでに福田も小野も審査員の立場なのに、「完成が間に合わない!」とまるで卒業制作時のように最後まで画面に手を入れて描いている様子や二人のやりとり、このエピソードを随筆に描いてしまう竹喬も面白い。また作品を最後の最後までやり遂げる執念に頭がさがる。この話をワークショップでぜひ話たかったそうだ。展覧会で作品を見るだけではなかなかわからない、日本画壇の大御所二人の関係と人間臭さが感じられるエピソードである。

既成の日本画の枠を取り払い、独自の表現世界を切り開く作家あらわる

展覧会の締めくくりは、大阪市生まれの下村良之介(1923-1998)を取りあげた。戦後前衛日本画の中心的作家の一人として活動。ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展(1958)、中南米巡回日本現代絵画展(1960)などに出品して国際的評価を得た日本画家である。

下記の下村の作品《月明を翔く 庇》(1988)を見た参加者からは鳥、雲、恐竜、龍などに見えるとさまざまな意見があがった。しかも作品はこれまで見てきた日本画とは全く異なり、描くというよりは型押しか何かで画面に凹凸を付け抽象的な絵柄を浮き彫りにさせたように伺える。

担当学芸員の作花氏によると、《月明を翔く 庇》は大きな月を背景に鳥が翼を広げている姿で、そして画材は紙粘土を使っているのだと話す。下村は若い頃従軍中に自宅焼失により画材道具を一切失い、また戦後の物資不足の状況下で画材が手に入らずに苦心するが、制作する手は止めなかった。陶芸の土、学童用の墨汁、色チョークの粉、建築用のベンガラ、本来であれば日本画では使わないものも用いた。他にも掌や指を使い、釘でひっかくなど多種多様な方法を実験的に繰り返した。素材と向き合い続け、己の制作意欲の赴くままにまい進してきた。そのような経験が固定概念を打ち破り、下村の新しい作風を生み出したのだという。紙と墨や顔彩などの日本画の画材の特性を新たに捉えなおし、自由自在に作られたレリーフ状の絵画は、日本画に限らず他に例を見ない独自の表現に達している。

下村良之介という日本画家を知ることにより、日本画は筆や岩絵具などの画材を使用して描くという今までの既存のイメージが大きく覆された。

下村良之介 《月明を翔く 庇》 (1988年)

会場風景。3点とも下村良之介の作品、左《沙》(1974年)、中《月明を翔く 庇》 (1988年)、右《水辺屏風》(1972年)

新しい日本画、日本画と現代美術、東洋と西洋、その向こうへ

そして最後に、現代の日本画の一例として紹介されたのは山下講師の作品。基本的には日本画の伝統的な画材をベースに使用し新しい視点での解釈を模索しているのだという。

ご自身の作品を解説する山下講師と聞き入るワークショップ参加者

床の間には山下講師の作品シリーズ《Records(chant)》(2023) の1点が掛けられていた。作品は墨による点描の繰り返しで描かれたミニマルな抽象画に見える。参加者からは水面、海、風、リズム、心象画を描いているのではないかと異なる意見が出てくる。つまり何が描かれているか判然としないのだ。しかし、この作品には驚きがたくさん詰まっていた。そのうち大きな特徴3つを取り上げて説明を試みてみよう。

山下和也 最新作シリーズ《Records(chant)》(2023) を自ら解説。光の当たり具合、見る角度によって見え方が変化する

まず驚きの一つ目。モチーフとなっているのが、五線譜が現れる以前の方法で記された「ネウマ譜」と呼ばれるローマ・カトリック教会の宗教音楽グレゴリア聖歌の楽譜であること。しかも、この作品は元となる楽譜の一節を記譜しており、音楽に造詣がある人が見ればメロディが浮かぶのだとか。しかし、作者である山下講師自身は楽譜を読むことができないので、楽譜を見ても実際の音楽はわからないらしい。この状況を、同じものを見ても人によって同じようには見えていないことを再認識した経験と言う。ちなみにその楽譜は15世紀イタリアのもので、山下講師のコレクションだそうだ。

そして次に、この点描画は時間芸術作品であること。この無数の点描の作品には水墨画の技法や現象が新たに捉えなおされて使われている。また和紙にはにじみ止めが施されているので、点を描くと染み込まずに一時紙の上に水が留まる。その水が蒸発していくまでに滞在した時間の痕跡が和紙の上に僅かな墨の点として残されていく。その結果、水の滞在時間が可視化された状態で記録(record)され、その積み重ね(時間の痕跡)がいつしか絵画空間へと変遷を遂げていく。つまり絵として見ている無数の点の重なりは、水の循環現象の繰り返しという見えないもの(時間)が物質化/可視化され、記録されたものなのである。。

そして三つ目は、一枚の紙に見えるが実は和紙三枚からなる三層構造となっていること。上記で記した点描が異なる二枚の紙に描かれ、そのうち一枚はところどころ四角くネウマが切り抜かれている。裏打紙を合わせた三枚の紙が一体となっているため、切り抜かれていることは一見すると白い絵具で描かれたかのように錯覚するが、実際は二枚目の紙に描かれた点や紙の白が見えている状態である。そのことは正面ではなく横から見る事ではじめて認識できるほどだが、さらに距離や角度によって点描の濃淡や見え方が変化する独特の空間構造がつくられている。同じものでも同じようには見えない、もしくは見えているという思い込み。海の表情の変化や波のリズムなどを毎日眺める海辺の暮らしを通じて気づいたことがある、それを作品に落とし込みたかったのだと。

そして、使用している画材や技術は日本画の伝統的なものばかりだが、いわゆる以前の日本画の作品と違うのは何であろうか。「この作品ではわからないということ、同じように見えないということをはじめに受け入れています。また見る場所や状況によって作品の在り方が変化することを積極的に受け入れています。描くことと見ることの体験を通じて世界を捉えなおすこと、つながろうとすること、その手段が私にとって描くことです。何が新しいか古いのか、それは見た目なのか考え方なのか?見ることはわかることとわからないことの入口です。」と山下講師は話す。

この作品も和室に接して大きな池があるこの環境にあわせて選んだという。15時を過ぎる頃、池の水面が反射して欄間を通過する光が、床の間の壁と作品に静かに揺らいで共鳴しはじめた。

山下和也 《Records(chant)》(2023年)

あとがき ワークショップ「日本画を見る」に参加して

今回、ワークショップに参加することで西宮市大谷記念美術館の「コレクション展 日本画ことはじめ」をじっくりと堪能することができた。日本画という言葉が生まれる前、生まれた後、それから新しい日本画の表現方法が模索される激動期、そして現在の日本画家とざっと作品を見てきた。正直なところ、ワークショップに参加していなければ、絵具やそれ以外に使用されている筆や紙などの画材の豊富さをはじめ、展示されている作品や作家、日本画についてここまで知ることはなかったと思う。大まかではあるけれど日本画の変遷を辿れたこと、日本画壇の人間関係を垣間見れたこと、自分の中で日本画のイメージが大きくアップデートできたのは間違いない。伝統芸術と密接な関係にある日本画は専門性が高い分野でとっつきにくかったが、その奥深さと魅力に触れることができたのは素晴らしい体験だった。コレクションに対する新しい見方、楽しみ方として新たな視点を持たせてくれた本展とその企画に心から感謝したい。

 

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講師プロフィール 山下和也
講師の山下和也氏は、日本と中国の古典絵画の模写と文化財修復で培った技術と経験をベース に作品や絵画を制作。日本文化のみならず西洋などにも幅広い関心を持ちつつ、日本画や書画の材料・技法と 日本の歴史、文化、思想を踏まえながら、伝統芸術と現代芸術をリフレーミングすることを主眼に活動する作家。
Kazuya YAMASHITA  https://kazuyayamashita.com/
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(※1)小野竹喬・随筆「冬日帖」(求龍堂、1979年)

小野竹喬
出版社:求龍堂
247ページ
発売日:1979/04/01
https://x.gd/l2z0A (確認:2024年2月24日)

(※2)下記の西宮大谷記念美術館HPよりコレクション検索が可能。作品を見ることができる。
コレクション|西宮市大谷記念美術館  http://otanimuseum.jp/collection.html(確認:2024年2月24日)
(※3)下記の西宮大谷記念美術館HPよりコレクション検索が可能。作品を見ることができる。
コレクション|西宮市大谷記念美術館  http://otanimuseum.jp/collection.html(確認:2024年2月24日)

 

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評者: (KUROKI Aki)

兵庫県出身。大学卒業後、広告代理店で各種メディアプロモーション・イベントなどに携わった後、心理カウンセラーとしてロジャーズカウンセリング・アドラー心理学・交流分析のトレーナーを担当、その後神戸市発達障害者支援センターにて3年間カウンセラーとして従事。カウンセリング総件数8000件以上。2010年より、雑誌やWEBサイトでの取材記事執筆などを続ける中でかねてより深い興味をもっていた美術分野のライターとして活動にウェイトをおき、国内外の展覧会やアートフェア、コマーシャルギャラリーでの展示の取材の傍ら、ギャラリーツアーやアートアテンドサービス、講演・セミナーを通じて、より多くの人々がアートの世界に触れられる機会づくりに取り組み、アート関連産業の活性化の一部を担うべく活動。

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