反復と変奏による感覚のオーケストレーション
野原万里絵ドローイング展
「雑景のパターン」
2022年9月29日~10月23日
会場:千鳥文化ホール
ドローイングが一つの自立したジャンルになったのはいつ頃のことだろうか?絵画や彫刻と言った伝統的な形式は、モダニズムの還元主義の果てに解体され、今日でさまざまな素材を駆使するインスタレーションが現代アートの主流となっている。また、鑑賞者との関係性も重視されるようになり、展示することで完結しない作品も多い。さまざまな意義申し立てを重視するものなら、フォームすら重要ではない場合もある。そのような状況においても、もっとも原初的なアートの形式ともいえるドローイングはますます重要なメディアとなっている。それは昔ながらの「素描」にとどまらず、コンセプチュアルな作品の構想図であったり、プロジェクトの計画であったり、イメージの段階から現実のものとなる最初の図であるからだ。それ以上は既製品である場合も多いので、作家の着想をもっとも色濃く反映するものとして再び光が当たっているのである。
現代アートの潮流がより現実の事象に対する調査とコンセプチュアルなアプローチが増える中で、思考のフェーズが長くなり、なかなか制作に移行されないケースも多いだろう。ただし、アーティストにとって、調査や思考と制作は分離されたものではない。考えながらつくる、つくりながら考えるといったことが日常的に行われるからだ。
野原万里絵はそのような「手の思考」を重視する画家、アーティストである。モレスキン製のノートを愛用し、日々のアイディアや気になった形態などをドローイングとして描き続けている。それは思考によって手が止まることを恐れているからでもある。しかしよく考えれば、それは当たり前のことだろう。ピアニストが1日レッスンしなければ手が動かなくなる、アスリートは1日練習を怠れば体が動かなくなる、というのはよく聞く話である。画家の手は思考と切り離すことはできないのだ。
いっぽうで、野原は多くの人々と協働する絵画やインスタレーションなどを制作している。多くのワークショップを行い、感覚の異なる人々の力を借りて下地を制作し、図となる自身のドローインを組み合せて、自身と他者の感覚の融合を試みている。それは絵画制作の新しい方法論といえるだろう。しかし、あくまでその元となるのは野原の日々のドローイングだ。
今回、野原は自身がドローイングを描き続けているノートをもとに、63点ものドローイング作品を一堂に集めて展示した。それらは2021年から2022年の約1年間に描かれた、まさに日記のような作品群でもある。会場となった大阪市の北加賀屋にある千鳥文化ホールの四面には、小さなサイズから中くらいのサイズまで、さまざまなアスペクト比の額が所狭しと展示されている。
それらのドローイングは、モダニズムの絵画のように目線に合わせて等距離に置かれたり、水平に展示されているわけではない。高さやも幅もバラバラに並べられている。白い壁面がドローイングによって構成されており、全体として大きな絵画空間をなしているといってよいだろう。それらのドローイングは、アクリル絵具やインクで描かれているが、基本的に黒1色であり、楽譜のようにも見えてくる。
さまざまな形態を持つドローイングの中には、象形文字のようなものがあり、そこには音楽を聞いて描いたものもあるという。以前、野原は音楽から色が見える共感覚(色聴共感覚)があることを告白しているが、もしかして野原には黒いドローイングに色が伴っているのかもしれない。
ただし、ほとんどは具体的なモチーフがそのまま描かれているわけではなく、かといって心象を表しているというわけでもない。文字以前の文字であるし、感情の前の感覚と現象の風景といってもいいかもしれない。それらは強い喜びや悲しみ、痛みを伴うものではないので、もし野原が描かなければ忘れ去られてしまうものかもしれない。
例えば、九段会館の改築に伴うコミッションワークの際に通ったという皇居の堀に浮かぶ葉からインスピレーションを受けたという一群のドローイングは、池に浮かぶ葉のような形態が円の中に寄ったり、離れたりするような形態を生んでいる。それはそのまま堀に浮かぶ葉を描いているわけではなく、その現象を感じた野原が、その感覚をもとに平面という法則の中で形にしているということになる。また、青森の石を描いたドローイングのシリーズなどは、幾つかの石を描きながら平面の中でのバランスを考えて構成されている。隣り合う石は同じ大きさのように見えるが、石によっては拡大したり、縮小したり、平面的な操作が行われている。あるいは、そのような外部の風景とは関係なく、野原が定めた描画のルールに沿って、画面が埋められたり、余白が生まれている作品もある。すなわち、ドローイングによる平面の可能性の追求にもなっている。
また、詳しく観察すると、外部の風景と野原の感覚の中で、1つの小さな形が生まれ、系統樹のように分岐し、発展していくといった、感覚の拡張や成長がそこに見て取れる。そこには、インクや紙、額といった画材の選択や試行錯誤もある。同じように見えて、それは少しずつ異なり、変奏されている。まるでミニマル・ミュージックのように、小さな反復と変奏を繰り返し、大きなオーケストレーションを生んでいる。
そして私たちは、ドローイングの空間の中で、そこに費やされた時間と感覚の変容を追想するのである。そして、言葉にならない感覚の集積をのぞきながら、自分の中にある小さな感覚を発見することになる。私たちは、過多で、刺激的で、劇的な情報に包まれ、そのような小さな感覚が麻痺している。また、協働性が叫ばれ、協調して何かをしなければならないという強迫観念の中で生きている。しかし、そのような小さな、連続的で、個人的で、日常的な経験と探求こそが、自分の中の創造性を発展させる方法であることを、野原の試みは雄弁に物語っているのだ。