
《Untitled》 展示風景(部分)
🔳展覧会概要
間泰宏 個展 「Kawaii」
会期:2020年4月4日(土)-4月19日(火)
会場:CITY GALLERY 2320
2020年4月、神戸の下町、長田に位置する先鋭的なアートスペース「city gallery 2320」で開催された間泰宏の個展「Kawaii」。この、世界で最もポピュラーな日本の美意識を冠したタイトルは、一見すると親しみやすく、屈託のないアート体験を約束するように響く。しかし、その実態は、鑑賞者の固定観念を静かに根底から覆す、極めて知的な試みであった。
本展は、「Kawaii」という言葉を入り口に、絵画が現代においていかにして鑑賞者自身の内面と深く結びつき、その幸福を映し出す装置となりうるかを見事に示した、重要な展覧会といえるだろう。

展示風景 左:《丁酉六月》 72.7cm × 91cm コットンキャンバス・アクリル絵の具 2019年、右:《戊戌六月》 72.7cm × 91cm コットンキャンバス・アクリル絵の具 2019年
「Kawaii」という名の、心地よい裏切り
会場の白壁を彩るのは、一点の曇りもない色彩で描かれたキャラクターと、楽園のような風景だ。2.5頭身の「しんぺーくん」をはじめとする愛らしいモチーフたちは、私たちに心温まる絵本のような物語の存在を予感させる。多くの鑑賞者は、まずその表層的な魅力に惹きつけられ、作品世界に没入しようとするだろう。
だが、その矢先、私たちは作家自身によって思考の停止を促される。ステートメントに記された「私の作品で、キャラクターに見えるものは全て記号です」という一文。それは、安易な物語的解釈に対する明確な拒絶であり、この展覧会の本質を理解するための鍵であった。
作家は、この状態をルールも筋書きもない「砂場」での遊びに喩える。そこでは、子どもが砂や道具という「記号」を使い、自らの想像力で無限の世界を創造していく。同様に、間の絵画もまた、完成された物語を提示するのではなく、鑑賞者一人ひとりが自らの物語を投影し、紡ぎ出すための、開かれたプラットフォームとして提示されているのだ。このコンセプトは、鑑賞者を単なる受け手から、作品を完成させる能動的な「プレイヤー」へと変貌させる。
8メートルの壁画が示す、絵画という「地図」
その思想を最も雄弁に物語っていたのが、壁一面を覆う約8メートルの大作《無題》(2020年)だ。紺碧の空とエメラルドグリーンの海を背景に、キャラクターたちが点在するこの作品は、コンセプトを知った上で対峙すると、全く異なる様相を見せ始める。

《Untitled》 展示風景(全景)
まず気づくのは、キャラクターたちの表情の不在だ。黒い点で示されるだけの目は、いかなる感情も表さない。これにより、キャラクターは意味の中心から解放され、鑑賞者が自身の感情を映し出す「鏡」としての役割を担う。さらに、遠近法を排したフラットな空間構成は、すべてのモチーフを等価な「記号」として画面に配置する。そこには物理的な世界の法則はなく、時間や距離といった概念さえも無効化されているかのようだ。

部分拡大 《Untitled》
これらの視覚言語は、この作品が特定の情景を描いた「風景画」ではなく、鑑賞者が自身の内なる世界を探求するための「地図」であることを示している。表情のないキャラクターは目的地を示す記号であり、フラットな空間は無限のルートが描かれた地図の平面そのものだ。私たちはこの絵画という地図を手に、自らの記憶や感情を手がかりに、パーソナルな旅に出る。その目的地は、作家によって与えられるのではなく、私たち自身の心の中に見出されるのである。
シンプルな線の裏側にある、複雑な手の痕跡
一見、シンプルでグラフィカルなその作風は、しかし、驚くほど複雑で身体的なプロセスによって支えられている。デジタル描画のような均質な輪郭線は、実は点を丹念に繋げるようにして描かれており、その微細な揺らぎが、線に無機質ではない温かみと生命感を与えている。さらに、8メートルの大作では、一度制作した原寸大の下絵をキャンバスに転写するという、古典的なフレスコ画にも通じる手法が取られていた。

《Untitled》
ここに、1995年に京都精華大学で洋画を学んだ作家の、絵画に対する真摯な姿勢が表れている。シンプルな造形というゴールに至るために、あえて最も手間のかかる複雑なルートを選ぶ。この逆説的な制作態度は、安易な表現を徹底して退け、アートの面白さをアーティストの個性といった曖昧なものではなく、制作プロセスそのものに見出そうとする強い意志の現れだ。

《Untitled》
そして、その制作の基盤には、「物語はない」という表層のコンセプトとは別に、作品の強度を支える「見えざる骨格」としての世界観が存在する。彼が描くのは、煩悩や迷いから解放された「彼岸」の世界であり、しんぺーくんが住む「ふわふわ島」は、この世で叶わなかった人々の願いや想いが降り積もる場所だという。この秘められた設定は、鑑賞者に直接語られることはない。だが、人間の痛みや悲しみをも内包するこの詩的な世界観こそが、彼の作品に単なる楽観主義ではない、おだやかで揺るぎない深みを与えているのだ。
「Kawaii」に託された、現代の吉祥画というかたち
これらすべての要素は、最終的に「Kawaii」という展覧会タイトルへと還流する。間にとっての「Kawaii」とは、表層的な愛らしさのいわれではない。それは、古来からの伝統的な花鳥画が担ってきた「民衆の幸福への思い」を現代に継承するための、極めて意識的な方法論なのである。弱く小さなものへの慈しみが込められた「かわいい」という感情を、彼は、鑑賞者一人ひとりの幸福を願う「祈り」の器として捉え直す。

《Untitled》 15.8×22.7cm. acrylic on wood panel 2020
本展で間泰宏が提示したのは、パラドックスの芸術だ。物語の不在を宣言しつつ、その奥には壮大な世界観を秘める。極めてシンプルな造形は、驚くほど複雑な手仕事によって生み出される。そして、「Kawaii」という最もポピュラーな言葉を入り口に、鑑賞者を絵画の本質をめぐる深い思索へと導く。
彼の作品は、作家からの一方的なメッセージではなく、鑑賞者自身の幸福のかたちを映し出す「鏡」として機能する。その意味において、彼の試みは、現代における「吉祥画」の新しいかたちを提示したものといえるだろう。この展覧会は、間泰宏という作家の芸術的達成の高みを明確に示すと同時に、絵画が今なお、私たちの生と深く共鳴し、その行く末を照らす光となりうることを、静かに、しかし力強く証明していた。
画像提供:City Gallery 2320
撮影者:岩澤有徑
🔳間泰宏 プロフィール (city gallery 2320 HP内)http://citygallery2320.com/WW/about.hazama.html