木に刻まれた日本の身体観
あべのハルカス美術館開館10周年記念「円空 ―旅して、彫って、祈って―」
会期:2024年2月2日(金)~ 4月7日(日)
会場:あべのハルカス美術館
以前、天平時代の仏像は、中国から渡来した武術家たちがモデルなのではないかと書いた。そのようなことは誰も実証できるとは思わないが、中国拳法の心得のあるものならば、天平時代の仏像、あるいは、それに色濃く影響を受けた鎌倉時代の仏像を見れば、特徴的な体の捻り方、呼吸の仕方、力の入れ方に、中国武術と共通のものを見て取ることはできるだろう。
時代的にも合致する。隋末期から唐初期の時代、嵩山少林寺の武僧が、唐の李世民(後の太宗)軍に援助して、王世充率いる鄭国政権の征伐に貢献したことが、石碑に残されている。嵩山少林寺は、495(大和19)年に、後魏・孝文帝がインドから渡来した仏陀禅師のために建立したものが原型とされる。達磨大師が修行をし、拳法を伝えたという説があるが定かではない。いずれにせよ、インドから仏教と同時に護衛のための拳法のルーツのようなものが伝わった可能性はあるだろう。
少林寺は、北周武帝の時代に、廃仏政策のために全国の寺と同様に破壊されたが、5年後には静皇帝の勅によって陟岵寺として再建され、隋の文帝の頃に再び寺名を少林寺に改められたという。唐代には歴代の皇帝によって厚く庇護され、栄盛を極め、皇帝を始めとした名士や白楽天のような詩人が訪れている。
鑑真は盛唐の時代に生きており、危険な旅に武僧が護衛としてついてきていたとしても何らおかしくない。むしろ護衛がいない方が不思議だ。その際、仏師も連れてきていることはわかっているので、中国から渡って来た武術家をモデルに、まさに仏教を守護する明王や天部の仏像がつくられていたとしたら理にかなったことだし、ある意味で史実の表現でもあったかもしれない。
個人的には、それが単なるモデルではなく、僧侶が武術的な型や瞑想法をするための一つの見本であった可能性もあると考えている。つまり、拝むだけでもなく、見るだけでもなく、するためのものであった、ということだ。
そのような武術家が、渡来し多くのことを残したと思うが、その後の日本の武術とは体の使い方が違う。捻る動作は、日本の武術ではあまりしないし、踊りに関しても、ジャンプしたり、跳ねたりすることは少ない。能のようにすり足で、体を捻らずターンするような動作も多い。雅楽で行われる舞楽の動作には、足を上げるものもあり、そこには相手の足を引っかけるといった動作も含まれていることだろう。
なぜ、そのような大陸的な動作が日本で変質していったか、それにも幾つも仮説があるだろう。土が乾燥しておらず、ぬかるんでいるとか、日本の着物だとはだけてしまうとか、筋肉や骨格の組成など…。これもまた決定的な要素を考えるのは難しい。
前置きが長くなったが、天平彫刻が大陸との直接的な交流の中で生まれた彫刻とするならば、円空のつくった仏像はどのようなものか確認するために、円空展「円空 ―旅して、彫って、祈って―」を見に行った。円空は江戸時代初期の修験僧であり、日本各地を廻って多くの木彫や和歌を残した。生涯12万体の造仏を発願し、現存する仏像だけでも5000点を超えるというから、膨大な数である。今回その中の約160体が一堂に会した。
その素朴さと大胆さ、デザインセンスを兼ね合わせた独特な木彫は「円空仏」と称され、高い評価を得ており、一般の人々にも人気が高い。円空の木彫の特徴は、1本の丸太を2分割したり、4分割したりして、表の面にだけ彫っていることだ。仏像の服装や法具なども簡略化され、すべて抽象的な線と塊で表現されている。初期においては、表面はある程度なめらかに削られているが、時代が下るほど、表面の仕上げはほとんどせず、削り痕が残るような粗いままにされている。おそらく、各地で庶民が祈るための仏として大量につくることを目的としていたからだろう。
そのため手や足の複雑な動きはなく、ほとんど体に寄せられた状態になっている。天平彫刻と違ってそこに動作を感じることはほとんどできない。象徴的なものは、背面には何も削られてないことである。そういう意味では、彫刻というよりもレリーフであり、平面と立体の間の表現というようにもとれる。
立体的で捻りのある動作や感覚はなく、意識においても前方しかない。飛んだり跳ねたりするような手や足はなく、一つの塊となっている。しかし、表面に関しては、さまざまなセンサーがついているといった感じである。円空が、本業の仏師ではなく、ある種のアール・ブリュットだとしても、その表現には色濃く当時の日本人の身体観が反映されているように思える。
さすがに円空の方がデザインセンスも技量も優れているが、龍谷ミュージアムで開催されていた「みちのくのいとしい仏たち」に出品されていた、地域の僧侶や大工によるさまざまな仏像にも近い感覚が感じられた。
インド・中国から渡来した仏教、そしてその身体技法や身体感覚がどこで失われ、どこで日本的なものに変容したのか。身体的、感覚的なことだけにわからないことが多い。しかし、仏像から見えてくることも多い。一ついえることは、単なる彫刻の材料ではなく、ある種の霊性が備わったものとして木を見ており、同時に、自然の中から神仏の声を聞いていることだろうか。身体よりも、身体の外部に何かを見出すことは、円空仏から感じるセンサーの多さと矛盾しない。その素材や造形は、身体の内部と言うよりも、外部を感じるためのあるというのが、天平彫刻との大きな違いであろうし、日本で育まれた身体観・自然観・精神観といえるだろう。
参考:武術としての仏像-信仰・美術・武術「執金剛神と天平彫刻」三木学評
https://critique.aicajapan.com/2877