<畠山直哉によるセレクション>
観覧日 2023年7月14日
2023年7月5日(水)~7月29日(土) 16:00~22:00 定休日:日・月・火
*1ドリンクオーダー制
東京は新井薬師(東京都中野区上高田5-47-8)のスタジオ35分で開催中の「新山 清:Vintage Photographs 1948 – 1969 」展に伺いました。
今回は畠山直哉師匠によるプリントのセレクションということで、ワクワクのドキドキの緊張しての拝見です。
本展に寄せた畠山師匠のテキストはこちら(ギャラリーのwebより)
私は以前からドイツのfotoform一派、なかでもピーター・キートマン(Peter Keetman 1916-2005)の仕事に強く惹かれておりました。写真術におけるフォルムという言葉の意味を、彼の仕事ほどシャープに、そして初々しく伝えてくれている例を、私は他にあまり知りません。私には「slow glass」という、彼の仕事を思い浮かべながら作りあげた写真のシリーズがあるのです。
2008年、そんな私のところに「新山清の世界 – パーレット時代 1937-1952」というハードカバーの写真集が、そしてその2年後には同じ判型の「新山清の世界vol.2 – ソルントン時代1947-1969」が届きました。差出人は新山洋一という、表題の写真家と苗字を同じくする方。ページを開いた私は、その作品の活発な印象に目を見張りました。カメラによって目の前の世界が次々に刷新されてゆく、あのわくわくする感じ。戦後ドイツの若い世代たちが持っていたのと同じような、フォルムに対する初々しい眼が、同時代の日本にも確かに存在していたのです。差出人の名前をもう一度確かめて、その新山洋一さんが、あのコスモスインターナショナルの社長さんだということをやっと思い出しました。私がいつもヨドバシカメラに買いに行くネガファイルやバインダーにくっついている、あの青い横顔シールのCOSMOSです。
ところで、東京のスケボー少年だった酒航太さんが、サンフランシスコのアート・インスティテュートでヘンリー・ウェッセル(Henry Wessel Jr. 1942-2018)から写真を学び、帰国後は制作を続けつつ、中野区の新井薬師駅近くで2014年から「スタジオ35分」(以前のDPE屋が写真現像処理の迅速さを謳う「35分」という看板文字が残っている!)という、バーが併設されたアートギャラリーを開いていることくらい面白い話は、世の中にあまりないと私は思っているのですが、その彼が戦後のいわゆる「サブジェクティヴ・フォトグラフィー」の作家たち、ことに新山清の仕事にいたく傾倒し、ご子息の洋一さんのところに足繁く通って彼と話し合いながら作品を選び、自身のギャラリーで「新山清展」をすでに2回も開催しているということも、拍手したいくらいに面白い話ではないかと思っています。私もこれまでに、2点の小さな新山清作品を「35分」でゲットいたしました。ひとつは遠くまで続く電信柱の列と小さな地面。もうひとつは大波が浜辺近くで捲れる瞬間を横から捉えたものです。
その酒さんから「こんどハタケヤマさんのセレクションで新山清展を開きませんか」と持ちかけられたのですから、こちらも固辞しようがありません。新山清はとても精力的に仕事をしていた写真家なので、興味深い作品がまだまだたくさん残っているとのことなのです。緊張しつつも嬉しさと共に、酒さん、新山洋一さんを交えて、当時の写真家自身の手によるたくさんのプリントを、目黒にあるコスモスインターナショナルのオフィスで、2度にわたってじかに拝見しました。
白い手袋をして新山清のプリントに触れている私の前には、1969年にナイフを持った通り魔によって目黒駅前で突然命を奪われてしまったお父様の無念と出来事の理不尽さを片時も忘れることのない新山洋一さんと、「数年で廃れるだろうと思っていたスケボーがオリンピック種目になるなんて思わなかった」と、昨今の人間知性の地殻変動を肌で敏感に感じ取る酒航太さんが微笑んでいます。そんなお二人が、新山清の仕事の意義をできるだけ多くの人と分かち合い、できるだけ多くの人に新山清の残したプリントと共に暮らしてもらいたいと心から願っているのです。その願いには、私も大いに共感を覚えます。大袈裟かもしれませんがそれはすなわち、私たちのこれからの人生と、人間知性一般に対する提案でもあるからです。
「はい見た、オッケー」的な態度で人の作品を見ている普段の鑑賞時とは、少し異なるマインドセットで、新山作品には接してもらいたいものだなーと思いながら、私は写真を選んでいました。そんな私の脳裡には同時に、カメラによって世界を発見することの驚きや興奮に忠実だった自分の二十代が、しみじみと蘇ってきたものです。「初心忘るべからず」の声が、新山清の写真からは聞こえてくるようでした。
セレクションに際しては、日本芸術写真史上における新山作品の位置や、fotoformのメンバーだったオットー・シュタイナート(Otto Steinert 1915-1978)が組織した、いわゆる「サブジェクティヴ・フォトグラフィー」との関係、といった歴史的および文献学的なパースペクティヴに基づく客観的価値判断は、ほとんどおこなわれておりません。というより私は、そのような話題をすっかり忘れたまま、新山清の写真を見つめていたのです。ああ「subjective=主観的」とはこういう意味だったかと、感得した次第です。
畠山直哉
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いつもながら真面目で洒脱かつ本質的な核心をつく文章ですね。
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新山 清(1911-1969)は戦前から戦後にかけて活動した写真家です。
戦後まもなく提唱された主観主義写真という分野で知られている新山清ですが、本展示ではそれだけに限らず、新山が残した多様な作品の中から写真家・畠山直哉氏に作品のセレクトをお願いしました。
畠山氏に作品セレクトを依頼した理由はいくつかあるのですが、僕自身の最大の関心は彼の鋭い思考と眼差しでどのような作品が選ばれてゆき、それらが集合し展示したときにどのような写真性が立ち上がって来るのか? ということでした。
200点程のヴィンテージプリント( 作家による手焼きプリント)に畠山氏が1枚1枚向き合いながら、セレクトされた17 点の展示となります。
古いものでは75年前(1948)のプリントから、作家が亡くなる年(1969)にプリントされたものまで、ひとりの現代写真家の眼によって選ばれた新山清のプリントを味わいにいらしてください。
スタジオ 35 分 / 酒 航 太
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こちらもwebよりオーナーで写真家の酒さんによるもの。
ワンドリンク制とあるように、観覧後は酒さんと楽しくお話ししながら飲食できます。
元日本カメラ編集長の河野さんもおられました。他にも業界の人々が…俺には敷居が高いぜ。早く帰らねば…。皆さんはどうぞ。楽しいですよ〜。
向かいのお店。新井薬師素敵。
以下は私が以前の展覧会の際に記したものです。
「新山清とサブジェクティブ・フォトグラフィー」 勝又公仁彦
本日、2016年5月7日まで、東京の新井薬師にあるスタジオ35分にて「Subjective Photography vol.1 新山清(Niiyama Kiyoshi 1911-1969)」展が開催されている。
新山 清(1911-1969)は愛媛県出身。東京電気専門学校卒業後、1935(昭和10)年に理化学研究所に入社。1936年にパーレット6.3付きで写真にめざめ、同年にパーレット同人会へ入会。写真家としての活動を開始する。1958(昭 和33)年、旭光学商事株式会社(現 リコーイメージング株式会社、旧ペンタックス株式会社)に入社、東京サービスセンター所長などを歴任。第一線で活躍する多くの写真家と交流を持ちながら、自身もアマチュアカメラマンの指導をする一方、写真家としての活動も積極的に行った。1969(昭和44)年5月13日、凶刃に倒れ急逝。
(C)Niiyama Kiyoshi
今では知る人ぞ知るといった写真家ではあるが、急逝した年には、濱谷浩、植田正治、緑川洋一らの後援により新山清遺作展が開催され、遺作集『木石の詩』が出版された。その後、子息である新山洋一(コスモスインターナショナル社長)により2冊の写真集『新山清の世界vol.1 パーレット時代1937~1952』(2008年11月、日本カメラ社)と『新山 清の世界vol.2 ソルントン時代1947~1969』(2010年11月、コスモスインターナショナル)が発行されている。
(C)Niiyama Kiyoshi
1950年代の初めにはドイツの主観主義写真の提唱者オットー・シュタイナート(シュタイネルト)によりヨーロッパに紹介され、現在でも欧米の写真市場でプリントが取引されるなど国際的な評価と人気も高い。
展覧会の表題になっているSubjective Photographyの和訳が先ほどの主観主義写真である。これは1951年にドイツのザールブリュッケン国立美術工芸学校で開催された「Subjective Photography(ドイツ語 Subjektiv Fotografie)」展と翌年に刊行された同名の写真集及びそれらで提唱された写真表現のことである。本来「主観的写真」と訳すべきところを「主観主義写真」としたことには当時日本の写真界を席巻していたリアリズム写真への対抗意識があったことが推察されている。土門拳の提唱するリアリズムの定義が「対象のモチーフに対する客観的な真実だけを追求するもので作者の主観的な イメージやファンタジーを追求する世界じゃない」というものである一方、シュタイナートは「主観が持つ個性的なしかも自由な実験的な技術の中から新しい人間性、造形性もともに発見したいという考え」であり、戦前の前衛写真を後継するものの一端としても歓迎された。
(C)Niiyama Kiyoshi
1954年に開催された「Subjective Photography 2」展には岩宮武二、石元泰博ら日本人写真家が9名参加。1956年には「日本主観主義写真連盟」が創設され、瀧口修造、阿部展也、北代省三、名取洋之助ら40名が会員となった。同年末には会員の作品に植田正治、奈良原一高、大辻清司、石元泰博らを加えて「国際主観主義写真展」が『サンケイカメラ』の主催により東京、日本橋高島屋で開催され新山清の作品も出品された。『サンケイカメラ』は55年から56年にかけて、カメラ雑誌のなかでもこの動向を積極的にとりあげている。しかしこの後日本での主観主義写真のムーブメントは急速に減退し消滅した。その要因は写真造形に対する理解や態度の深化よりも、技法の形式化のみが進んでしまったことや、主観主義写真の概念が曖昧だったため観衆に理解されにくい上に作家たち自身がその枠に入る事に違和感を抱くようになったためでもあるようだ。
そのような主観主義写真であるが、今回の「Subjective Photography vol.1 新山清(Niiyama Kiyoshi 1911-1969)」展を開催するに至った経緯についてスタジオ35分ディレクターの酒航太さんにお話を伺った。
酒氏「4年程前に自分の写真展の為に大型プリントをお願いしていたのがコスモスインターナショナルで、そこの社長さんが新山清さんのご子息の新山洋一さんでした。当時は同社が運営するギャラリーが3階にあり、プリントが仕上がるまで展示を見たり、新山清さんの作品を見せてもらったりお話をお伺いしていたのが最初のサブジェクティブ・フォトグラフィーとの出会いです。もともと新興写真や実験写真には興味があったのですが、新山清さんも含めて、サブジェクティブ・フォトグラフィーの写真家たちのことは全く知りませんでした。その写真はどれも素晴らしく新鮮で、なにより写真に対する姿勢、態度がすごく純粋に感じ、共感するものが多々ありました。この作家たちが人目に触れる事なくネガやプリントが失われていくことは非常にもったいないし、あってはならないことのように思い、自分ができる事はやりたいということで洋一さんの協力もあり第一弾として今回の展示が実現しました。」
(C)Niiyama Kiyoshi
新山の写真を一見して感じるのは、形態に対する鋭い感覚と高い構成力である。その力を静止した被写体のみならず、一瞬の動きを捉える際にも発揮し、また相似形の連続パターンによるリズム感のある構成にも長けていたようだ。そのモダニスティックな造形性は緊張感を保ちつつも、現代の我々が見るとどこかしら郷愁をそそられるものとなっている。それはアマチュアとプロとの境界が曖昧かつ「イズム」による表現がまだ可能であった時代の、写真を愛し追究するものの情熱が一心に結実し得た最後の精華の一つだったのではないだろうか。今後のスタジオ35分による「Subjective Photography」シリーズの展開にも期待したい。
スタジオ35分
164-0002 東京都中野区上高田5-47-8
参考
新山 清を中心とした主観主義写真〈2014.12.25.No.91/河野和典〉
http://studioray.blog.jp/archives/153108.html
Artwords 主観主義写真(主観的写真)
冨山由紀子
http://artscape.jp/artword/index.php/主観主義写真(主観的写真)
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引用終わり〜。なぜか部分的に太字になっている。それもまた運命?あえて直さないぜ。またね。