夢と記憶の中で対話するドローイング
名和晃平、ブルノ・ボテラ展「ROLLING THE GREY MUDS OF DREAM」
会期:2023年6月16日~2023年7月29日
会場:MtK Contemporary Art
かつて京都市美術館(現・京都市京セラ美術館)、京都国立近代美術館でトピックとなる展覧会に行く際、同時に、その周辺にあるギャラリーに立ち寄ることが美術関係者の習慣だった。ギャラリー16、アートスペース虹、立体ギャラリー射手座etc…。これらは基本的に貸画廊で、不定期的に企画展を実施するような形態だったように思う。京阪三条駅から、岡崎にある京都市美術館や京都国立近代美術館までは結構歩かなければならないのだが、これらのギャラリーに立ち寄ることで、京都のアートシーンを概観することができた。
立体ギャラリー射手座(2011年まで)やアートスペース虹(2017年まで)はすでに閉廊し、岡崎への最寄りの駅も、地下鉄東山駅ができたこともあり、アートシーンだけではなく、アートを鑑賞するルートもずいぶん変わっている。特に、2010年代に全国各地に勃興した芸術祭やアートスペース、アートフェアなども含めたアート市場の拡大の影響は大きいだろう。その中で新しい形態のアートスペースも増えてきた。
2021年に京都市京セラ美術館のはす向かいにオープンした、MtK Contemporary Artもその一つである。MtK Contemporary Artは、2021年3月に、株式会社マツシマホールディングスが開廊したコマーシャルギャラリーである。マツシマホールディングスは、京都を拠点とした車のディーラーであるが、レストランやカフェ事業、伝統工芸事業、ウェルネス事業など幅広く手掛けている。新しく始めたのがアート事業であるが、それ以前から京都のアート関連のスポンサーを継続している。もともとMtK Contemporary Artに隣接した、マイクロカースマート(smart)のブランド発信拠点「smart center 京都, the garden」を運営しており、その一部を増設、改装するかたちで、MtK Contemporary Artがつくられた。さらに、smart center 京都, the gardenには、「.S」(ドットエス)というカフェが設けられ、壁面には若手作家の作品を展示することで相乗効果を出している。
MtK Contemporary Artのディレクターは、現代美術作家の鬼頭健吾であり、鬼頭が京都市立芸術大学の大学院出身であることもあって、京都を制作拠点とした作家を多く取りあげている。そもそも、それらの中堅からベテランの作家の作品が京都ではなかなか見る機会がないという現状を見て、生産地である京都でも見る機会を設けたいという思いが動機としてある。例えば、名和晃平のような作家は、京都の伏見区にスタジオを構えているが、京都で大きな展覧会が開催されることは少ない。1980年代の現代美術「西高東低」と称された時代から、京都は美術・芸術大学が集まり、有能な作家を輩出しているが、発表の場であったり、消費される場は東京や海外にあることが続いてきた。椿昇がアーティストが直接コレクターに販売する「ARTISTS’ FAIR KYOTO」をディレクションしたり、国内のギャラリストと海外のギャリストがコラボレーションするアートフェア「Art Collaboration Kyoto」などが開催されることで、徐々にアートマーケットとしての京都や、中堅・ベテランの発表の場としての京都が育ってきている。鬼頭とマツシマホールディングスの試みもその潮流の中にあるといってよい。
最初の展覧会は、鬼頭に加えて、名和晃平、大庭大介の3人展で幕開けしたが、その後は、中堅作家に加えて、ヤノベケンジや椿昇、内藤礼といったベテランの作家も個展も開催されており、新たなシーンを生み出している。ヤノベは90年代の作品、椿は80年代のペインティングなどなかなか見る機会がない作品が展示されたり、内藤礼のほんど見ることがない水彩のドローイングが展示されるなど、アーティストの新たな側面にフォーカスしている。それはディレクターである鬼頭の幅広いネットワークとアーティストとしての関心によるものだろう。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックの渦中に開廊したギャラリーだが、順調に展覧会を重ね、五類になって以降、最初の展覧会が開催されている。今回は、開廊のときに出展した名和晃平と、現代美術家、ブルノ・ボテラによる二人展で、「ドローイングにまつわる実験場」として位置付けられている。名和とボテラは学生時代からの友人であり、長い交流があるという。
名和が牽引するスタジオ「SANDWICH」がディレクションした、船底型の天井と縦長の空間が特徴的な展覧会場の左の壁面は、ボテラによるドローイング、右の壁面には名和のドローイングが飾られており、奥にはベッドの上に置かれた紙に、マシンが線を描いている。
ボテラのドローイングは、自動書記的に紙の左上からグラファイト(黒鉛)で線を描いていき、同じ形を行もしくは列の順に反復して画面を埋めていくという。ボテラはこれを数人で行うゲームとして考案したようだが、一人で遊ぶことも多いという。夢をひとつのテーマにしているというボテラにとれば、まさにシュールレアリスム的な自動書記の方法といえるだろう。これを複数人でできるゲームにしたところが発明的であるし、今回の展覧会では、ボテラの「ゲーム」によって描かれた名和との共作も飾られている。
ボテラは、会場で配布されたハンドアウトに「このゲームは楽しいのだが、かなり混乱することがある。ある程度の時間が経つと、繰り返されるジェスチャーが催眠術のように働き、パターンがいくらかアニメーション化され、ミスや省略を促すようになる。この灰色がかったトランス状態は、組立ライン方式の暴力―労働者の身体を、非人格化や幻覚といった変性状態へと導くような暴力―に関連している」と記している。
これはベルトコンベヤーで運ばれるものを組み立てていくような工場労働の仕事をしたことがあるものならよくわかるだろう。機械に合わせて、人間の動きも機械的、自動的になっていくので、一つひとつの動きに意識が向かなくなる。それと同時に、することがなくなった脳は、全く別のことを考え始めたり、過去に遡ったり、連想が連想を生んで、身体から離脱していく感覚に陥る。それは一つの近代化の中で起こる心理状態であるが、ミシェル・フーコーの指摘する監獄のような、精神を拘束するものとは異なることは留意すべきだろう。むしろ意識しないでいい程度の簡単な身体動作の拘束によって、意識の自由度が上がり、変性意識状態(Altered States of Consciousness, ASC)になる。これが重さや寒さといった身体に負荷がかかる動作であれば、身体の方に集中せざるを得ない、まさに労働になる。このゲームの場合はむしろ座ることだけを強いられる禅やメディテーションに近い。
さらに、ドローイングを描く無意的な筆致は、今まで描いたデッサンなどの身体を伴う記憶によるもので、知識を蓄える海馬ではなく、大脳基底核や小脳といった脳の深部にある「手続き記憶」(Procedural memory)の可能性が高い。それらは海馬の記憶のように忘れることはない。「無意識」といったものは、確かに抑圧したものである可能性はあるかもしれないが、身体を伴う記憶が重要な鍵なのではないか。
ボテラによる生成AIがつくり出したような奇妙な絵は、ボテラの脳内のイメージというよりも、むしろ身体の記憶を取り出したものといった方が正しいのかもしれない。もちろん、どんなイメージを見て何を描いてきたか、という経験の集合が身体に残されているので、ボテラに内在するイメージとは関連がないわけではないことは付け加えておきたい。
いっぽう名和の方は、物の痕跡を写し取る「Transfer」のシリーズが展開されている。インクでグリッドをつくり物にインクを垂らして、配置をずらしながら置いていく。そして、乾いてからそれらを取り除く。言わば、物によるフォトグラムのような方法である。身体性や作為性は物の配置を変える部分だけである。類似した形の反復という意味でボテラの手法と類似性はあるが、より身体性からは一定の距離がとられている。代表作「PixCell」シリーズから一貫して、名和は身体性と作為性と一定の距離を保ち、観察者としての視点を重視しているように思える。しかし、現実に存在しながら、情報だけの視覚体験に見えるといった、その距離の取り方が名和の特徴だろう。
ボテラと名和は睡眠中に創造する方法を探索し、完成したのが奥に展示されているドローイングマシンである。それまさにリテラルな自動書記の装置ともいえる。ベッド型のドローイングマシンは、寝ているときの脳波を計測し、活動電位に沿って振幅する線などをグラファイト(黒鉛)で描いていく装置である。トレーシングプレートの下には、機械と人間の「二段ベッド」のように、アーティストが寝られるようになっている。段取りとしてはこうである。アーティストが眠りにつく前に指で紙にドローイングする。その後、ヘッドセットをつけて入眠し、脳波を測定して、紙の上に機械がドローイングを重ねる。それは「昼の指」と「夜の指」であるという。そこで人間と機械は一つのドローイングを仕上げる「サイボーグ」になるというわけだ。
ただし、「昼の指」が描いたドローイングの記憶は、スキーをした夜に、滑っている感覚が夢に出てくるように、何らかの形で「夜の指」である機械に反映されるのではないか。ドローイングに残された可能性もまた、まさにAIにはない身体の記憶のように思える。別の見方をすれば、脳波によるドローイングは、意識的な操作が不可能な無意識の線であると同時に、「自然」に近いのかもしれない。それは一定の強さの線の連なりであり、ボテラの参照する米芾とは異なるが、ある種の山脈や雲海を描いた「山水」に見えるし、そこにもっと濃淡が含まれていれば、もっと近いものになったかもしれない。また、山水を鑑賞する妙は「臥遊」、つまり身をよこたえたまま山水の世界に入り込むことだと言われるが、もしボテラが名山を歩いた後にドローイングをし、ドローイングマシンの中で入眠していたどうなるのだろうか?まさに「臥遊」のように、夢の中で山水の世界に入り込みながら、歩いた記憶の痕跡がドローイングマシンによって描かれることにならないだろうか。それはある種の「臥遊」であり、人間と機械、自然による新しいリアリティになるかもしれない。
また、展覧会場は、名和とボテラのイメージと身体に対する距離感の違いがコントラストになっており、二人の共作は対位法のように反復しながら、ずれていくミニマル・ミュージックの楽譜のように思えた。しかし、それは楽譜がない即興演奏の記録でもある。むしろ、即興の結果が楽譜=ドローイングとして残るという転倒が面白いし、見たときに鑑賞者の脳がその光景をなぞり、「手続き記憶」が喚起されるというところに特徴がある。絵画もある程度、どのように描いていったか辿ることはできるかもしれないが、筆致を残さないものであれば難しい。ドローイングの可能性は、画家の筆致から描いていく動作を巻き戻して追体験できるところにあるだろう。そして、ボテラと名和の遊びは、生成AIのように学習の過程が「ブラックボックス」なのではなく、プロセスが見えるところが、鑑賞者の想像力の関与を可能にしているといえる。さらに今回、道具、機械、自然へと「指」を増やすことで、人工と自然の対立を超えていく、ドローイングの可能性も指し示しているように思える。
展覧会タイトルは「ROLLING THE GREY MUDS OF DREAM」とされている。泥のような混乱の中から新しい発明や道筋を見出すことを、「Muddling through」といって、発明家や起業家に使われるが、アーティストにとっても、まだはっきりとした色彩を帯びない、夢と現実の試行錯誤の中から何かが生まれることを予感させる展覧会であった。