東京・京橋のアーティゾン美術館で開催中の「生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」展(10月16日まで)、素晴らしく充実した内容でした。青木繁(1882〜1911年)と坂本繁二郎(1882〜1969年)の2人はともに福岡県久留米市出身、地元の高等小学校で同級生でした。よくもまあ、この名だたる異才2人が地方の高等小学校で同級生だったなあとも思いますが、展覧会を見渡すと、出会うことは運命だったとも思える内容でした。
ここでは、簡単に比べながら見ていきたいと思います。
洋画家として知られる坂本が水墨画を描いていたとは意外でした。さらに驚いたのは描き方です。《立石谷》は水墨画でありながら、輪郭線を使っておらず陰影があるので、西洋の写実画に近い。近代日本画の開拓者として知られる菱田春草が日本絵画における伝統的な輪郭線を画面から排除した革新的な実験作《寒林》を描いたのは1898年。坂本が《立石谷》を描いたのもほぼ同じ頃でした。つまり坂本はまだ久留米にいたときに、春草と同じような実験をしていたことになります。坂本が久留米で絵を学んだのは、洋画塾を開いていた森三美という画家でした。あった画材が水墨で、身につけていた技術が洋画だった結果の習作だったのではないか、などと想像してみました。ただ、確実に言えるのは、技術が極めてすぐれているということです。「異才」というにふさわしい人物だったことが表れているのではないでしょうか。
青木は坂本よりも先に東京に出て、東京美術学校で黒田清輝のもとで学んでいたようです。《闍威弥尼》は、同校在学中の作品です。青木の絵には、この頃からすでに、神の気配があるような気がするのですが、いかがでしょうか。大きさがわかるようにキャプションパネルも一緒に写した写真を展示風景として載せました。小さくても、神の光が描かれているように感じられませんか。その少し後に《わだつみのいろこの宮》や《大穴牟知命》など神話を題材にした作品を多く描いた青木の強い意識が、この1枚にも現れているように思うのです。青木もまた異才と呼ぶべき人物でしょう。
坂本と一緒に房総の布良海岸に滞在したときに描いたのが、この有名な《海の幸》です。山幸彦と海幸彦の話、すなわち神話を連想させる側面があることにも注目したいですね。浅学にしてこの展覧会で初めて知ったのが、実はこのとき、海岸で大漁の陸揚げをしていた漁師たちの様子を目撃したのは坂本であり、青木はその話を聞いて、《海の幸》を空想で描いたというのです。何と凄い話なのでしょう。空想だからこそ、これほどの破天荒とも言える表現が生まれたのではないでしょうか。
坂本の代表作としては、やはりこの馬の絵を挙げざるをえません。1911年に青木が夭折、その後坂本はフランスに3年間留学。《放牧三馬》は、ヨーロッパで得た明るさを自分の画風にした作品です。坂本が渡仏したのは1921年でしたから、印象派の画家たちは概ね亡くなっていましたが、むしろ日本とはまったく異なる空気や光のありように深く感じ入り、画風の目覚めがあったことがしのばれます。どんなに明るい太陽の下でも、馬がこんな風に見えることはないと思います。それは写実でも印象でもなく、坂本が感じ取った空気の明るさが反映された馬だったのだろうと思うのです。
自画像を比べるのも面白いかもしれません。
坂本は自画像をほとんど描いておらず、残っているのはこの《自像》を含めて2点だそうです。一方、短い生涯にしばしば自画像を描いたという青木のこの《自画像》は、あまりにも強烈です。坂本は青木が描いたこの作品を、「日本人の作品でルーブルに並び得る数少ない物の一つ」とみなしていたそうです。いや、まじ、すごいですよね。そして、もう一つの自画像をば。
坂本は馬の画家として知られていますが、実は牛が大好きだったそうで、たくさんの作品を残しています。そしてこの《牛》は、何と後ろ姿です。坂本の友人だった詩人の蒲原有明や三木露風は、牛は坂本の自画像だととらえていたそうです。1919年に描き始めて、65年にようやく完成させたこの牛には坂本の人生が詰まっている。そう思っていいのではないでしょうか。しかも、後ろ姿ですからね。人生が詰まった後ろ姿の自画像…何と意味深なのだろうと思います。
最後に、2人が書いた字を眺めてみましょう。
坂本の書く字は実に端正ですね!
青木の字はなかなか個性的です。異才のありようの違いが文字にも表れているというのも、なかなか興味深いことではないでしょうか。
会期は10月16日までです。興味を持たれた方はぜひ駆け込まれるとよろしいかと思います。
展覧会概要
展覧会名:生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎
会期:2022年7月30日[土]ー 10月16日[日]
会場:アーティゾン美術館
特記事項:日時指定予約制
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