Super Studio Kitakagaya(SSK) オープンスタジオの今日的意義
Super Studio Kitakagaya(SSK) は、日本において珍しい大規模な共同スタジオである。制作場所、スタジオの確保は、美術・芸術大学を卒業し、アーティストとして制作活動を続けようと思う人々にとって、大きな懸案事項の1つである。制作場所を確保するために、大学院に残るアーティストも多い。さらに、助手や副手となって大学での活動を維持し、准教授や助教授、教授をしながらアーティストとして活動するのが、戦後の日本の美術業界では主流であった。逆に言えば大学を卒業した後に、大学のようなスペースと設備、道具を確保するのは容易ではなかった。
近年、アート市場が活性化してきたこともあり、美術・芸術大学の卒業生が集って、共同アトリエを運営することも増えている。2000年代からは地方の芸術祭やアーティスト・イン・レジデンスが増加し、さまざまな地域で芸術の理解が深まったり、ノウハウが共有されてきたりしたこともあり、以前よりはスタジオを運営するハードルは下がっているかもしれない。それでも制作場所の確保は、アーティストにとってもっとも難しい課題であることには変わりはない。
SSKは、そのような状況を鑑み、元名村造船所の倉庫を改造し、十分な広さと設備を備えた共同スタジオとして千島土地株式会社によって2020年に設立され、おおさか創造千島財団によって運営されている。珍しいのは、大学でも行政でもない、半公的な財団によって運営されていることだろう。日本の多くの共同スタジオは、同じ美術・芸術大学の卒業生が集って、物件を探してスタジオにするケースが多い。その場合のメリット、デメリットがあるだろう。メリットは、すでに既知の仲間で結束力が高く、公私にわたる助け合いが得られること。デメリットは、その反面、閉鎖的になりやすく、外からのアクセスがしにくくなることだろう。
SSKの場合は、卒業大学は関係なく、個々が問い合わせて入居している。もちろん、入居者から紹介される場合もあるが、基本的には千島土地との契約であり、入居者同士に面識があるかどうかは関係ない。目的はあくまで自身の制作環境を整えることである。ただし、すべての入居者にインタビューを行った結果、共同スタジオで得られるメリットはかなり多いことがわかる。
例えば、創作活動をしている人たちが近くにいることで刺激になる。自分のできない技術を持つ人がいるので、その助けを得ることができる。一緒にいることで、情報が集まりやすく、情報交換が行える。深夜の制作や来訪客の対応も、誰かの目があることで安心感があるなどである。スタジオの環境は住居のようなセキュリティが整っていない場所もある。また、会社組織ではなく、個人として活動しているアーティストは、法的にも物理環境にも守られていないことが多いのだ。入居者同士の問題も、千島土地が管理していることで解決できることもあるだろう。ただし、共同体的な帰属意識が薄いことから協働性は低くなるだろう。いずれにせよ、この画期的な共同スタジオの試みが、どのような成果をもたらすのかは、これからの日本のアート環境を占う試金石になるだろう。
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現代の日本は、「アート」にとっても大きな変革期だといえる。そもそも日本にはアート≒美術というものは存在しなかったが、明治以降、西洋文化の大々的な流入により、新しい様式であったアートと、伝統的な美術を再編する形で組み込まれていった。日本画は、その際、西洋画に対置する概念として創造されたもので、フェノロサや岡倉天心によって狩野派や円山派といった諸派を統合・再編し、西洋的な顔料や技法を取り入れてできたものだ。
ただし、日本の建築空間には、西洋画を組み込む空間はなかった。日本の家屋は、高温多湿のモンスーン気候に対応するため、通気がよくなるよう設計されている。窓は大きく、壁は最小限しかない。西洋画を飾るための壁面がないのだ。だから、最初は洋館に飾られ、次に、和洋折衷という形で、日本家屋の手前に接合された洋間に飾られた。その洋間とは、応接間であり、来客をもてなすためのものだ。
かつて日本家屋における応接間は、家の奥にあり、そこには床の間が置かれ、掛け軸などが飾られていた。西洋の応接間は手前にあり、家屋における空間も反対であった。また、日本家屋の場合は、展示物は、お客様や季節によって展示替えをし、環境との相互作用を重視しており、隔離されたものではない。例えば、金箔や銀箔といった反射材の使用は、暗い室内にある掛け軸や屏風の光を補完するものだ。また、明治以前は椅子の使用も限られていたので、展示物はかなり低い位置から見ることが前提であったことも忘れてはいけないだろう。
明治政府になり、士農工商などの身分制度が廃止された後、西洋画を購入したのは、華族や財閥、あるいは大地主といった新興の富裕層であった。富裕層の新しいステータスが西洋画であった。そこから絵画のコレクターが日本にも登場するようになる。大正時代から昭和初期にかけて、日本家屋も、椅子やテーブルで生活する新しいタイプの数寄屋がつくられたり、近代洋風建築の中に和室が設けられたり、さまざまな方法で和洋の文化の融合が図られていった。その時代の工夫は現在でも見るべきものは多い。
しかし、戦争に突入し、空襲によって多くの家屋が焼失した。また、財閥解体や農地解放によって、限られた皇族以外は平民となり、税制度の改正で富裕層がほとんどいなくなった。いっぽう建築に関しても深刻な住宅不足に陥り、集合団地などが大量につくられるようになったり、郊外に持ち家がつくられたりするようになったが、洋間の応接間や床の間も多くの住宅から消えていき、新たにLDK(リビング・ダイニング・キッチン)が導入された。LDK においては応接間の存在は喪失している。応接間の喪失は、室内におけるアートの居場所の喪失を意味している。
戦後は、富裕層のコレクターは不在となり、家屋においてもアートを展示する空間はなくなってしまった。しかし、その頃はすでに、世界のアートシーンは、絵画や彫刻といった伝統的な形式から、徐々に逸脱し、より前衛的な表現が推し進められた。日本における現代美術も生活と乖離したものになっていった。
コレクターとなる富裕層、家屋、表現の3 つのすべてが宙に浮いた状態が続いていたが、2000 年以降、「地域アート」とも称される「地域アートプロジェクト」が隆盛し、観光客を呼び込む安価なソフトコンテンツとして、現代アーティストが招聘されることが多くなっていた。しかし、2019 年に、あいちトリエンナーレで「表現の自由」を巡る問題が起こり、2020 年には新型コロナウイルス感染症が流行し、地域アートプロジェクトは延期や中止を余儀なくされたものが多かった。
いっぽう、IT 関係などの新興の富裕層が、アートに関心を持つようになり、自身の部屋やオフィスにアート作品を飾ったり、コレクションしたりすることが増えている。貧富の差が激しくなると、現代アート業界が活況を呈するのは皮肉なことだが、高級なアート作品を購入するためには、一定の所得が必要なのも事実である。しかし、室内でどのように飾ればいいのか、保管すればいいのかノウハウがほとんどないのが実態であり、周辺環境を整えるのも急務である。
そのような、地域アートプロジェクトとアート市場のはざまで、若手のアーティストは悩みながら活動している。しかし、共同スタジオを1 つのコンテンツとして見たら、芸術祭にも勝る面白さがあるといえる。地域アートプロジェクトは、地域の魅力を芸術の力で引き出し、多くの観光客に来てもらうことが目的であることが多いが、盛んにワークショップなど参加型のイベントが行われているように、結局のところアーティストの魅力に依存するのである。富裕層にとっても、自身が購入する作品がどのような場所でつくられているか見られるのは大きな魅力だろう。「祭り」ばかりが芸術ではない。このオープンスタジオにおいて、制作、生活をつなぐことこそ、芸術の可能性であることが示されるのではないか。