大好きなエドゥアール・マネの作品を、 「いつもと違った角度から 見られそう! 」と思い、 楽しみにしていたのが、 練馬区立美術館の「日本の中のマネ ─出会い、120年のイメージ─」展(2022年11月3日まで開催)です。
マネは19世紀フランスを代表する画家近代化するパリの情景や人物を、時代の空気そのままに描き出した作品のクールな色香に私は惹かれてきました。 その作品の筆頭としてあげたいのは「オランピア」。
肩に力の入らない自然なポーズ、赤い大輪の花を小粋に髪にさし、シンプルなリボンのチョーカーもセクシー。黒人の召使いが大きな花束を届けているというのも、 どんな紳士からのプレゼントなのかしら?これからどんなステキな貴族がやってくるの?などと想像が広がります。これから始まるめくるめく世界を広げて、絵のモデルになりきることもできるし、 純粋に好きなのです。
ところが、今展の図録を執筆されている美術史学者・三浦篤さんの著書を始めとする様々な文献によると、先程書いたような魅力的な要素が、当時19世紀後半のパリではボロクソにけなされていたことがわかりました。
それは、単純にそれまでの理想化された伝統的なヌードでなかったからだけではなく、「より広くパリの歓楽を象徴するような、いかがわしさと紙一重の女性たち」だったからであり、「ブルジョワ社会の裏社交界や夜の歓楽の世界を示唆するパリの女たち」だったからのようです。(鉤括弧内は「日本の中のマネ」図録の9ページ:文・三浦篤氏より引用)
まさに私が、「かっこいい色気」を感じるその部分が、マネと同時代には批判の対象だったのです。
そしてここで話題にしていきたいのが、マネの「難解さ」です。私は純粋にマネのクールな色気が好きなので、あまり難解だと思った事はなかったのですが、「印象派をリードした人」のように語られる割に、印象派とは一線を画した作風を持っていることが不思議だなとは感じていました。
感覚的に言うと、マネには、印象派にはない「カッコよさ」があるのです!
それまでの、伝統にのっとった保守的な絵画にはない「カッコよさ」があるのはもちろん、後輩グループの印象派の中にもない「カッコよさ」があるのです。
そして今回の展覧会に関連して、 三浦篤さんやアーティストの森村泰昌さんが言及するマネの「難解さ」を読み、 今まで説明できなかった「カッコよさ」が、マネの「難解さ」にあるのかもしれないと思えてきました。
同じ図録の中でアーティストの森村さんが「マネはなぜ難しい?」というセクションで次のように述べています。「マネとかベラスケスは印象派の絵画とはカッコよさが違っているのです。マネとベラスケスに共通して言えるのは祝祭性の拒否、お祭り気分がない。イケイケな感じとか煽る気分からはほとんど遠いと言う気がします。つまりこのふたりの画家の共通項は「冷めた熱狂」なんです。そこがカッコいい。モネをはじめとする印象派以降の西洋絵画には、高揚感というのか、光がキラキラしていて、甘い香りが漂って、いまどきの言い方をすれば「映える(ばえる)」世界です。だからわかりやすい。ところがマネやベラスケスは渋好みです。成熟したおとなの絵心という感じがするのです」。 (「日本の中のマネ」図録の184~185ページ:文・森村泰昌氏より引用)。
森村さん、よくぞおっしゃってくれました!パチパチパチ!ここでちょっと、 マネとモネの絵を比べてみましょう。
なんと、 先ほどの森村さんが説明したイメージを、絵から如実に見て取れませんか?
どちらも、 19世紀の同時代の男女が 屋外でくつろいでる様子を描いていますが、 モネの方は、 まさに純朴で美しい人々がきらきらと輝くハッピーな世界。社会問題や男女のいざこざなど存在しないかのようです。それに対して、マネの方は、着衣の男性とヌードの女性がピクニックしていて、いかがわしさとカッコよさが同居しています。神話的な世界と、現実の社会問題がミックスされてリアルに見えるような、いかにも物議をかもしそうな作品です。
印象派の先駆者としても位置づけられることがあるマネと、ザ・印象派のモネは実は8歳しか違いません。この約10年の違いが意味するところは何なのでしょうか?
三浦さんは今展の 図録に「1860年代は、1810年代に生まれた『レアリスム』の画家たちが晩年に近づく時期であり、他方1840年頃に誕生した『印象派』の画家たちの初期にあたっている。では、1832年に生まれたマネの場合は『レアリスム』に属するのか『印象派』に近いのか」と書いています。 そして、この端境期に生まれたマネをポスト・レアリストと呼び、次のように説明しています。
「ポスト・レアリストたちは現実を描写するのではなく、絵画平面上で画像を統合し、「現実」を一個のイメージとして再構築していった。(中略)それは現実の表象が不確定になった時代に、現実認識の在り方そのものを絵画化しようとするレアリスムであり、多様なイメージを操作し、「現実」を画面上で再構成しようとするレアリスムに他ならない」。(鉤括弧内は「日本の中のマネ」図録の47ページ:文・三浦篤氏より引用)
この解説を読むと、 先ほどのマネの「草上の昼食」とモネの「庭の女たち」の違いの所以がはっきりとしてきます。今まで、印象派に似てないのに「印象派の一部」のように語られる場合のマネの位置づけにはモヤモヤとしていたのですが、 ポスト・レアリストという位置づけにはスッキリしました!
明治期から昭和初期にかけての「日本の中のマネ」
さて、 お待たせしました!「日本の中のマネ」展の作品について触れていきたいと思います。今展を企画した練馬区立美術館主任学芸員の小野寛子さんは、「マネに関しては、美術批評家芸術論上での受容が先行しており、視覚的つまりは作品を通した具体的な影響関係が見え難いので、日本における受容の歴史を考察することは 容易ではない」と述べています。
ここでも難解さを発揮しているマネ!
そして、 小野さんは図録の中で、美術家で批評家の齋藤与里のマネ論を紹介しています。
「マネの作品は、フランスという国土に育まれたフランス人の画家が生み出した「真実の絵画」であるという。そして、「国歩的風味」と言う表現を用い、それぞれの国の過去と現在を背景に絵画作品は生み出され、絵画の根本的な拠り所は画家の「実際生活」であるとする。よって、マネの絵は、フランスの同時代を映した極めてフランス的絵画であり、そこに日本人が入り込むことはできない」(鉤括弧内は「日本の中のマネ」図録の133ページより引用)。
まさにドンピシャで「第3章日本におけるマネ受容」コーナーの作品群の性質を言い当てていると感じます!
マネの影響を受けたと考えられる明治期から昭和初期にかけての展示作品の雰囲気は次のような感じです。
引用元は何となく分かるものの、マネのエッセンスが絶妙にとらえられているとはいえないかも。。。?!もちろん絵そのもの価値やクオリティは高いと思うのですが。。。!
現代アーティストの「日本の中のマネ」
「日本の中のマネ」展で、刺激的なマネの降臨が感じられたのが、第4章「現代のマネ解釈 ―森村泰昌と福田美蘭」の展示コーナーです。
やはり、「多様なイメージを操作し「現実」を画面上で再構成」しようとしたマネのような作家の受容には、 自らもそのような操作に慣れている現代アーティストの方が得意かもしれません。
森村さんも、福田さんも、マネのエッセンスをざっくりと理解した上でそれを切り取り、自らの作風とドッキングさせつつ新しい発見を投げかけてくれていると感じました。
明治期から昭和初期にかけての画家たちが、ある意味ナイーブにマネから影響を受けていたのに対して、森村さんと福田さんからは余裕が感じられ、ユーモラスかつ知的にマネのエッセンスを料理していると感じました。
いずれにしてもまだ、専門家もアーティストもとらえきれてないミステリアスなマネ。 「日本の中のマネ」展をきっかけに、自分の中に新しいマネのイメージを作ってみてはいかがでしょうか?
【展覧会基本情報】
タイトル:日本の中のマネ―出会い、120年のイメージ
会期:2022年9月4日〜11月3日
会場:練馬区立美術館
住所:東京都練馬区貫井1-36-16
電話番号:03-3577-1821
開館時間:10:00~18:00
休館日:月(9月19日、10月10日は開館)、9月20、10月11日
料金:一般 1000円 / 大学・高校生 800円
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