光の経験と記憶のパノラマ
林勇気個展「君はいつだって世界の入口を探していた」
2022年9月8日(木)~11(日)、15日(木)~19日(月・祝)
クリエイティブセンター大阪(CCO)
近年、公的機関、美術館での出品の機会も多い、林勇気の大規模個展が、名村造船所跡地にあるクリエイティブセンター大阪(CCO)で開催された。筆者が見ただけでも、京都市京セラ美術館、兵庫県立美術館、大阪中之島美術館と、関西の拠点となる美術館に相次いで出品されており、いま一番勢いある作家の一人といってよい。現在、大阪中之島美術館の「みんなのまち 大阪の肖像 第2期」展に2点出品中である(2022年10月2日まで)。
林勇気は、映像を使ったアーティストであるが、作風の幅は広く、捉え難い面がある。ある程度ストーリー性のある映画的な作品もつくるし、プロジェクションによるインスタレーションも展開している。それは同じく映像作家であり、アーティストでもある大木裕之の制作に参加していたことが大きいという。
今回、木津川河口域に位置する北加賀屋のクリエイティブセンター大阪(CCO)において、さまざまなシリーズのある林の作品の全体像が、まさにパノラマのように展開されたといってよいだろう。名村造船所跡地と書いているように、CCOはその造船所の製図棟、事務棟として建てられており、ホワイトキューブのようなニュートラルな空間では決してなく、極めて特徴的である。特に等身大サイズの船の製図に使っていた4階は、山折りの天井が見え、一見高さがあるように見えるが、蛍光灯を取り付けている柱は低く、高いオブジェを置けるスペースではない。
CCO創設のきっかけとなった第一回の「NAMURA ART MEETING ’04-’34」から、すでに20年近い月日が過ぎ、その間、数多くの展覧会やイベントが開催されてきたが、この個性のある空間を活かすことができたアーティストはそれほど多くないように思える。その中で林勇気は、もっとも空間を活かして展開したアーティストの一人になるだろう。
もちろん、3階で展開された、林の代表的シリーズである「もう一つの世界」の新作《another wold-vanishing point》(2022)が空間全体の広がりがあったのは間違いないが、その他の作品も、壁面で区画することなく、巨大なインスタレーションの要素となって構成されていた。「もう一つの世界」は、人々から集めた大量の写真の中の図を切り抜き、画面の中に一定の隙間をあけて並べた上で、回転するように平行移動する映像の投影面を、平行からズラして空間にプロジェクションするインスタレーション作品である。一見無関係な物体が浮かんでおり、それが知覚可能な回転速度や角度から、不可能な速さやゆがみになっていくことが繰り返される。
今日のように、フラットではない建造物にズレることなく投影するために、洗練されていったプロジェクションマッピングとは全く別のベクトルであり、あえて、ズラした状態に置かれている。そのため、投影面の凸凹も強く認識させられるが、その表皮を横滑りしていくように、大量のオブジェが流れていく。自分の提供した写真もあるので、見覚えのあるものあるし、まったく無関係な他人の写真もある。また、背景は切り取られているので、写真が撮影されたまさに「背景」や文脈は断ち切られ、物体、あるいは認識できないオブジェとなっている。まさにロートレアモンの詩「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」のようであり、スタインバーグの言う「フラットベット」のようでもある。しかし、それはテーブルや床のような、水平な重力下にあるものではない。コンピューター上の「デスクトップ」における作業面であり、重力からは解放されている。画面上の上下があるだけである。
そして、鑑賞者は、等価に置かれた物体をトリガーに、記憶を紡いで、その他の物体と関係を切り結ぼうとするも、それらはすでに横に回転しているという状態が繰り返される。もちろん、見覚えのある物体もあり、幾つかは記憶の中で結合される。しかし、全体としては宙吊り状態のまま、純粋な光の経験に変容していく。しかし、よく考えたら、現在の私たちの知覚体験のアナロジーにもなっている。膨大なネットワークの中で、無数の無関係の図が常に画面上を通り過ぎていっている。ただし、タイムラインのような縦スクロールではなく、パノラマのように横に敷衍させていること、投影面を平行にしないことで、特徴ある3次元空間の内側を知覚させているところに、特異さがあるといってよい。床のところどころに、北加賀屋の倉庫にある、机や椅子、コップ、棚などが置かれ、実際の物体と重なりあっているのもより複雑な状況を生み出している。
その他、3階の空間には、自分が撮影した映像を氷に透かして映し出す《video》(2022)、自分が撮影した写真をプリントして積み上げていくパフォーマンス・映像《生きるということ》(2022、2008~)、名村造船所で造船された歴代の船のポストカードを再撮影し、水辺の映像ご合成された《古いポストカードにうつる船を汽水に浮かべる》(2022」などの映像が、モニターなどで各所に配置されており、あらゆるところで、「画中画」のような映像の入れ子が展開されている。
さまざまな試みで、林が開拓しているのは、潜像している映像メディアのプレゼンテーションの可能性だろう。映像メディアは、写真から映画へと単線的に発展しているかのうように思えるが、マジックランタンを端緒に、19世紀に流行したファンタスマゴリア、大阪万博で大々的に展開されたマルチスクリーン、全天周映像、80年代にプレゼンテーションで多用されたマルチスライド上映など、幾つもの脇道がある。
映画を発明したリュミエールは、1900年の万博において、360度の円形のスクリーンに写真を拡大投影する装置「フォトラマ」を考案していたが、実現に至ってない。もともと360度の円周上のキャンバスに絵を描いて、その場にいるような没入感をつくりだすパノラマを生み出したのは、ロバート・バーカーである。後にパノラマ画家だったダゲールは、模型と半透明キャンバスに描いた絵、照明効果によって、新しい映像没入装置、ジオラマを考案した。一方で、エティエンヌ・ガスパール・ロベルトソンによって開発された、スライド幻灯機をつかった幽霊ショー、ファンタスマゴリアが催されてきた。後に、ダゲールは初の本格的なカメラ、ダゲレオタイプを発明する。リミュエールはカメラを発展させ、ロールフィルムによる連続投影によって、映画をつくり出した。リミュエールはそのような18世紀からはじまる映像没入の歴史の系譜にいる。しかし、次第に没入感よりも、演劇のアナロジーによって、ストーリー性のある映画にとってかわられるのだ。林はそのような初期の映像とプロジェクションの歴史を遡行し、再解釈しているように思える。
もう一つの大きなテーマは記憶だろう。もっと言えば記憶の複製になる。2階で上映されていた《Our Shadows》(2022)は、「私」と「私」の双子が映像を通して交流した1日を、演者が再演した様子を映像化したものだ。唯一4階で上映されていた《15グラムの記憶》(2021)は、祖父の遺品の中にあった、フロッピーディスクに入っていた写真の撮影場所をたずねる作品である。他者の記憶をいかに自分のものとして経験できるか?あるいは自分の記憶を他者がいかに自分のものとして経験できるか?が、試みられている。
もちろん個人個人が持つ記憶は、異なる経験の積み重ねによってできており、代替することは不可能だ。しかし、それを身体を通してなぞることで、自身の記憶に変容していく。映像を経験のレベルに引き上げること。それはインスタレーションでも、映像作品でも一貫している。つまり、その鍵は、空間であり、身体が握っているということになる。
《another wold-vanishing point》(2022)で、回転している映像の中にあるオブジェは、等価に見えるが撮影者にとっては経験と記憶の結びついたかけがえのないものである。他にも写真を提供したものが見ると同じように感じるだろう。林が素材集ではなく、一般の人から写真の提供を求めるのは意味があるだろう。匿名に見えてもかけがえのない記憶の集積を、どのように可視化し、経験することが可能か? 林の記憶のパノラマは、横滑りする映像の奥にある人々と鑑賞者をつなぐ、もう一つの世界への入口でもあるのだ。