「みんなのまち 大阪の肖像(2) 第2期「祝祭」との共鳴。昭和戦後・平成・令和」
会期:2022年8月6日(土)~10月2日(日)
会場:大阪中之島美術館
大阪中之島美術館の約6500を超えるコレクションを中心とした展覧会「みんなのまち 大阪の肖像」の第二期が開催されている。第一期は「「都市」への道標。明治・大正・昭和戦前」をテーマに、近代化、都市へと変貌する変遷を、街を描いた絵画、百貨店・製薬会社・出版などの商業デザインを通して、振り返る内容だった。
第二期は「「祝祭」との共鳴。昭和戦後・平成・令和」をテーマに、戦後から現在までの街やライフスタイルの変遷を見ていく。「祝祭」とは言うまでもなく、1970年の大阪万博のことで、高度経済成長期の最後を飾る国家的イベントであり、大阪の街を実質的に変えたといってよい。例えば、大阪の戦災復興計画に含まれていた中央大通の計画などは財政がなくて途中で頓挫しているが、万博関連予算で実現している。その間にある全長1キロにも及ぶ船場センタービルも同様である。戦前の大阪で最大の計画が御堂筋と地下鉄の建設ならば、戦後においては、中央大通の船場センタービルとその上に立つ高速道路といってもよいだろう。
大阪市は、8回の大空襲によって、市内の約1/3は焼失した。第1章「おおさか時空散歩」では、闇市のような、不法の商売から始まり、混沌とした中から復興していく様子が戦前から活躍する池田遙邨、前田藤四郎、赤松麟作、田川勤次、池島勘治郎らの手によって描かれた絵画によって紹介されている。
戦後は空襲によって脆さを嫌というほど思い知らされた建造物の耐震耐火、道路の拡幅に主眼が置かれ、住宅不足の解消は出遅れたが、市営、府営、公団と集合住宅、集合団地が、市内から郊外へと急速に建てられていく。そのような庶民生活の向上が、第2章「復興するアドバタイズ」として、ポスターやプロダクトなど商業デザインを中心に紹介されている。早川良雄、今竹七郎、永井一正といった著名なデザイナーに加えて、メタボリン、パンビタンといった武田薬品のポスターを小磯良平が手掛けているのが目を引く。
なかでも、目玉となっているのは、第3章「ニューライフからの情景」で展示されている、いわゆるプレハブ住宅である積水ハウスB型の等身大の復元だろう。プレハブ住宅は、プレファブリケーション、つまり事前に工場生産された建材を、現地に運んで組み立てる工法による住宅で、戦線から研究され、戦後の住宅不足の解消のために様々な場所で採用された。むしろ、最近では仮設住宅の工法として知られているが、それも象徴的であろう。
巨大な「家」を等身大で組み立てられるのは、十分な天井高のある大阪中之島美術館の5階ならではといえるが、復元された積水ハウスB型は外側だけではなく、玄関やトイレ、ユニットバス、コンロ、冷蔵庫、テレビ、ステレオ、扇風機まで、生活空間の再現が徹底している。家電に至っては、積水ハウス内だけでは収まらないので、大量に展示されている。関西の家電企業、主に松下電器産業株式会社、三洋電機株式会社、シャープ株式会社によるものだ。これらの企業ミュージアムと連携しているため可能となったことだろう。
家電とは、発電機や変圧器、工場で使用される大型電気機器、重電に対して、家庭用電気製品などの電気機器、軽電に属する。これらのメーカーは、財閥レベルではない、民間レベルの財力で製造が可能なため、戦前のいわゆる大大阪時代に今でいうベンチャー企業として起業されている。シャープ、早川電機工業株式会社は、実はシャープペンシル(早川式繰出鉛筆)を開発、販売していた文房具会社だったが、関東大震災で工場を焼失。取引先で借金のあった中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)の子会社、プラトン文具に、その特許と技術供与、販売権を引き換えに売り渡した。その際、大阪に移住し、新たに鉱石ラジオを開発し、家電メーカーとなっていった。三洋電機は、元松下電器の専務で、松下幸之助の義理の弟、井植歳男が戦後創業した会社であるが、公職追放指定によるものだ。つまり、戦前に芽吹いた企業が、戦後になって花開いたといってよい。
戦後は、自動車産業とあわせて、日本のお家芸、ものづくり産業の一角として、世界中に輸出し、大阪のみならず、日本の産業を支えた。この頃は、製品には機能を象徴する形があり、それは90年代後半のデジタル家電まで続く。いかに豊富な商品、デザインがあったか、本展では紹介されている。40歳以上の方なら懐かしく思う商品も数多くあるだろう。
しかし、ご存じのように、2000年以降、インターネットとデジタル化の急速な発達により、日本のエレクトロニクス産業は急速に力を失っていく。アッセンブルと言われるモジュールを組み立てる家電産業は、人件費の安い新興国の方が有利であり、付加価値の高いサービスや部品に逃げないといけない、と指摘されていたが、ある意味で逃げ遅れたといえる。アプリケーションとデバイスを組み合わせたアップルやGoogleなどのIT企業に市場を奪われていった。2009年、松下電機から名称変更したパナソニックが三洋電機を買収し、事実上消滅、2016年、巨額な負債を抱えたシャープも鴻海の子会社になった。デジタル上で形がどのようにでも変わる時代に、家電やプロダクトデザインは、どのようにあるべきなのか、まだ模索している最中であるといえる。しかし、これらのデザインは、戦後の日本の「工芸」ともいえる遺産となっているのは間違いない。
第6章「カーニバルの記憶」は、福田繁雄、亀倉雄策、石岡瑛子、横尾忠則といった、戦後を代表するデザイナーが手掛けた大阪万博のポスターが紹介されている。パビリオンは、おもちゃ箱をひっくり返したようだ、と言われたように、多様な形や色彩が氾濫されていたが、デザインに関しては、多様性と洗練が両立されているように思える。アナログ時代の到達点といってよいだろう。
最後の6章で再び「おおさか時空散歩」というタイトルに戻り、90年代以降に大阪を被写体にしたアーティストの作品が紹介されている。例えば、やなぎみわの《案内嬢の部屋 B1》(1997)は、阪急のコンコースと案内嬢をデジタル加工でコラージュしたものであり、その空間は戦前の遺産といってよい。森村泰昌の《なにものかへのレクイエム(夜のウラジーミル 1920.5.5-2007.3.2)》(2007)は、戦後に形成された空間で、大阪万博の時には全国から労働者が集まった。《なにものかへのレクイエム(独裁者はどこにいる3)》(2007)は、大阪市中央公会堂の内部だ。杉本博司の《光の教会》(1997)は言うまでもなく、安藤忠雄の建築を撮影したものである。
畠山直哉の《Untitled/Osaka 1998-1999》は、住宅展示場が建設されていた大阪球場と、球場自体の解体を撮影されたものだ。実は、筆者はこの作品に深く関わっていている。当時、筆者はインターメディウム研究所(IMI)の写真コースの講師であった畠山氏に写真を習い、大阪球場など大阪各地を定点観測した作品を制作していた。住宅展示場が内部にある大阪球場の写真を見て講師陣と履修生も驚き、最終的に、講師を含めた全員で大阪球場内のミサワホームのモデルルームで写真コースの修了展を開催することになったのだ。その際に、履修生の一人が畠山氏を案内し、南海サウスタワーホテル大阪(スイスホテル南海大阪)の20階のエレベーター前から撮影されたのが1枚目だ。翌年、大阪球場が解体されるということで、畠山氏と同じく講師であった港千尋氏を大阪に招聘し、21階の部屋に宿泊してもらって有志が集まって撮影会を行ったのだ。それが2枚目である。だから1枚目の写真の中(大阪球場内のミサワホームの中)に実は私が存在しており、2枚目ではカメラの横にいたので、この風景をよく覚えている。あまりにシュールな光景が、自分の人生と重なっている。外国人には加工されたものだとか、航空写真だとか言われていたが(シャーロット・コットン)、どちらも嘘である。後に、この作品は、ヴェネチア・ビエンナーレに出品されることになる。
大阪球場(大阪スタヂアム)は、1950年、GHQ占領下で特別に建てられた建築であり、ファサードを坂倉準三がデザインし、「昭和の大阪城」と称された戦後復興の象徴でもあった。住宅展示場は、戦後の郊外、持ち家の象徴のようであるが、実は1995年の阪神・淡路大震災後の風景であり、プレハブ住宅がまだ大量に残っているという状況の中のもので、当時の私たちには、それも含めて異様な風景に映っていた。球場から見える南海サウスタワーホテル大阪との関係はまるでパノプティコンのようでもあり、隣接した高層ホテルと球場の位置もポイントであった。
筆者は、その後、大大阪時代の近代建築を利活用する運動を仲間とするようになり、そのブームは続いている。2025年の万博も、1970年の万博のノスタルジーがあるのは間違いない。未来よりも過去を見直すようになったのは良い面も悪い面もあると思うが、私たちの街は、破壊と再生を繰り返しており、継承するものは何なのか、もう一度考える時期に来ていると改めて思い至る展覧会であった。