既視感の裂け目に映る、不穏で甘美な近未来の肖像——山田千尋 「SF」 Gallery Nomart 黒木杏紀評

展覧会タイトル:SF Chiro Yamada
会期:2026年1月24日(土)-2月21日(土)
会場:Gallery Nomart

静謐な光と不穏な影が交錯する、日常の位相がずれた展示空間

大阪・深江橋。古くからの町工場が点在するこの街に位置するGallery Nomart(ギャラリーノマル)の重厚な扉を開けると、そこには私たちの知っているはずの日常がわずかに、しかし決定的に変質したような静謐な空気が漂っていた。会場に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、透明感あふれる色彩で描かれた「風景のようなもの」たちだ。しかし、それらは単なる写実的な景色ではない。山田は、自らが日常やSNS、あるいは記憶の中から掬い上げたイメージを、独自のフィルターを通して絵画へと定着させる。

会場風景 画像提供:Gallery Nomart

高い天井から降り注ぐ柔らかな光が、コンクリートの壁面に並ぶキャンバスを照らし出しているが、そこに描かれた像はどこか清潔すぎて体温を感じさせない。作家自身が「昔見た映画を思い出しているような、未来を想像しているような、不思議な違和感」と語る通り、展示空間全体が一種の「既視感(デジャヴ)」と「未知なるもの」の境界線上に漂っているかのようであった。一歩足を進めるごとに、空気の密度が変わり、SF映画の導入部に迷い込んだかのような錯覚を覚える。この「なつかしさ」と「不穏さ」が同居する、意識が浮遊するような心地よい空間こそが本展の核心である。2026年1月24日から2月21日まで開催された「山田千尋:SF」は、この若き画家が同ギャラリーで4回目として迎えた個展であり、現時点での彼女の思考が最も純度の高い形で結晶化した展示である。

《overgrown #2》 2025

日常に潜む「SF」という名の違和感と懐かしさの正体

本展のタイトル「SF」は、Science Fictionの略称だ。しかし、ここで描かれているのは宇宙船やロボットが登場する典型的な空想科学の世界ではない。作家・山田千尋が日常生活の中で、ふと「SF映画の一場面」のように感じた景色や感覚がモチーフとなっている。山田にとっての「SF」のイメージは、ある種の「近未来観」に集約される。

それは、あまりに滑らかで清潔すぎる光景への違和感や、逆に使い古されたものが放つ異質な存在感など、日常の裂け目から漏れ出す「この世界は作り物ではないか」という静かな疑念に近い。作家自身が語る「不穏さと居心地の良さ」、あるいは「なつかしさ」というキーワードは、まだ見ぬ未来に対する予感に近い既視感を指している。

展示風景

山田千尋の歩みと「ポストインターネット世代」の身体感覚

山田千尋は1994年京都府に生まれ、2016年に京都市立芸術大学美術学部油画専攻を卒業した。彼女の経歴を紐解くと、在学中から一貫して「イメージの受容と変容」をテーマに掲げてきたことがわかる。Gallery Nomartを拠点に、「unique」(2021)、「BABY」(2022)、「WARP」(2023)と個展を重ね、着実にその評価を確立してきた。

山田の作風を理解する上で欠かせないのは、彼女がデジタルネイティブな「ポストインターネット世代」であるという点だ。彼女のモチーフは、自身の記憶や眼前の風景だけでなく、SNS上で消費される画像や、ネットの奥底で見つけた奇妙な写真、あるいは傷口のディテールや動物の遺骸といった、生理的な反応を引き起こす「歪なもの」にまで及ぶ。彼女はこうした「不気味なもの」や「不安・恐怖」をあえて描くことで、自身の感情を整理し、外へ放出するプロセスを制作の根幹に置いている。

本来なら目を背けたくなるようなグロテスクなモチーフは、彼女の手によって軽やかな色彩、薄い絵肌、そして透明感あふれる筆触へと変換される。この「グロテスクなのに透明感がある」という鮮やかなギャップこそが、山田千尋という画家の独創性であり、見る者を惹きつけて離さない引力となっている。

左:《Herpez Zoster-3》 2020、右:《vomiting dummy-3》 2021

岸田劉生との対比:中井康之が指摘する視覚の深度

ここで、山田千尋の表現が持つ美術史的な意義について、重要な視点を提示したい。「ARTISTS’ FAIR KYOTO 2025」において、中井康之は、山田の作品を評する中で、日本の近代美術史における巨人、岸田劉生の言葉を引き合いに出している [1]

劉生がかつて追求した「現実以上に現実的なもの」としての「内なる写実(デロリ)」と、山田が日常の風景を捉える視線。中井は、劉生が対象の核心に泥臭く迫ろうとした執着に対し、山田はフラットなイメージの海から、特有のリアリティを掬い取っていると分析する。劉生の「写実」が肉体的な重厚さを持つのに対し、山田の絵画は薄いレイヤーが重なり合うような透明感と、どこか現実感を欠いた軽やかさを持っている。

しかし、その根底にある「眼前の世界に対する違和感」という点において、両者は時代を超えて共鳴しているのだ。山田は、現代のデジタルな視覚環境において、私たちが避けて通れない「イメージの不確かさ」を、批評性を持って描いている。

展示風景

現実のバグを穿つ《stone》と《warehouse #2》の静寂

本展の象徴的作品《stone #1》は、映画『マトリックス』の石をオマージュしたものであると作家は語る。映画において仮想現実のバグとして現れる石のように、山田の描く石もまた、日常に生じた「エラー」の結晶だ。

《stone #1》

これらの作品、そして展示されたすべての作品において特筆すべきは、山田の独特な「運筆(タッチ)」である。《stone #1》の細部を凝視すると、まるで空気を撫でるような、あるいは物質の表面を優しくなぞるような、繊細かつ不確かな筆致が確認できる。このタッチは、対象を力強く塗り固めるのではなく、色彩をキャンバスの上にそっと置いていくような感覚に近い。透明な層を幾重にも重ねた絵肌は、石の硬質感というより、光を吸い込み内部から発光するような非物質的な物質性を放つ。この「触れるようで触れきれない」運筆のあり方そのものが、彼女の描く世界が持つ「SF的な不確かさ」を補強している。

部分拡大 《stone #1》

メインビジュアルにもなっている作品《warehouse #2》も同様に、物語を排した「空虚な場所」が放つ冷ややかな叙情を湛えている。この作品は、山田が海外で実際に目にした倉庫を描いたものだ。現実の風景でありながら、そこから特定の文脈を削ぎ落とし、グロテスクなまでに純粋な光の階調で再構築されたその画面には、来場者から「映画のワンシーンのようだ」という声も上がったという。人類が去った後の近未来を予感させるこの静寂は、孤独と安らぎを同時に呼び起こす。

《warehouse #2》

また、自らの脳スキャン画像をベースとした作品 《me/section》シリーズは、最も身近な自己すらもデータとして客観視せざるを得ない現代的な身体感覚を、グロテスクな生々しさと透徹した色彩、そしてあの独特な微細なタッチで見事に融合させている。新作群の《iceblink #2》や《green light #1》においても、「不穏な気配」を「清澄な筆致」で包み込む手法が、独自の強度を生んでいる。

左から《me/section》 2020、《me/section》 2020、《me/section》 2020

上から時計回り 《care #15》 2022、《wash 》 2025、《green light #1》 2025、《iceblink #2》 2026

同時代の作家との比較と、美術史における山田千尋の座標

山田千尋の表現を同時代の作家と比較すると、その特異性がより鮮明になる。例えば、同じくインターネット上のイメージを流用する作家としてリュック・タイマンスやヴィルヘルム・サスナルが挙げられるが、彼らの作品が持つ政治的・歴史的文脈に対し、山田の作品はより生理的で、個人的な「感覚」に立脚している。

また、奈良美智の作品構造との類似も示唆に富んでいる。奈良の作品は、一見「かわいい」キャラクターでありながら、その内側には強い「暴力性や怒り」という矛盾した感情を孕んでいる。この二層構造は、山田の作品構造と極めて近い。奈良が「キャラクター」を介して感情をイメージ化するのに対し、山田は「清らかな色彩」という表層を用いながら、その深層に「不安・不穏」といった重い感情を潜ませる。奈良が人物に託したものを、山田は「風景」や断片的な「物体」に託しているのだ。
両者とも、単なる対象の再現ではなく、自らの内的な感情を絵画的なイメージへと高精度に変換するタイプであると言える。

山田の独自性は、グロテスクなものをあえて「耽美な手法」で描くことで、見る者の倫理観や美的感覚を攪乱させる点にある。これは、美術史における「バロック」や「世紀末芸術」に見られた、死と生の隣り合わせの美学を、デジタル社会のフラットな視覚において再生させているとも言える。彼女の絵画は、SNSという表層的なイメージの消費に抗うように、油彩という時間的積層を伴う媒体で、イメージに「肉体」と「時間」を奪還させようとしているのだ。

展示風景

現代美術における山田千尋の価値:感情の濾過装置としての絵画

山田千尋の絵画は、岸田劉生に連なる日常の深淵に見出す神秘への視線と、京都市立芸術大学の系譜が育んできた感覚的で洗練された色彩、そして奈良美智以降の個人的な感情を普遍的なイメージへと昇華する感性が、一つの画面上で静かに交差している。

彼女の活動の意義は、情報過多な現代において摩耗していく私たちの「感情」を、一度濾過し、純粋な形に結晶化させるための装置として機能している点にある。同時代の多くの作家が直接的な社会メッセージに傾倒する中で、山田は個人的な違和感という深淵に潜り続ける。しかし、その潜行の果てに彼女が持ち帰るイメージは、私たちが再び世界を別の角度から愛するための「視線」を奪還しようとする、極めて批評的で切実な試みなのだ。

《room mirror #2》 2024

既視感の向こう側に広がる、私たちのための新しい「現実」

本展「山田千尋:SF」が私たちに見せてくれたのは、日常という皮膜のすぐ下に、いかに広大で、人を惹きつけてやまない不穏な「別の世界」が広がっているかということであった。山田千尋という稀代のフィルターを通すことで、私たちは「脳のスキャン画像」を抽象画として、「石」をバグへの窓として、そして「不安」をなつかしさとして再定義する機会を得たのである。

中井康之が指摘したように、山田の視線は現代の特異性を捉えつつ、美術史が受け継いできた「見る」という行為の根源に触れている。Gallery Nomartという実験と洗練が同居する場所で示されたこの「SF」の景色は、現代絵画が到達しうる一つの誠実な回答であった。

私たちは、この展覧会を終えて日常に戻る時、以前とはわずかに世界の見え方が変わっていることに気づだろう。道端に転がる石や、山田が海外で見つけた倉庫のような光景、あるいは夜の街に差し込む光が、ふと「近未来の断片」のように見えたとしたら、それは山田千尋の魔法が私たちの視覚に根を下ろした証拠である。彼女が描き出した「不穏な居心地の良さ」は、これからも記憶の中で静かに発光し続け、不確かな未来を歩むための道標となるに違いない。山田千尋が切り拓いたこの「SF」の風景は、今まさに、私たちの新しい現実の一部となったのである。

 

 


【註】
1.中井康之:ARTISTS’ FAIR KYOTO 2025 選考委員コメント:(閲覧日:2026年3月26日)

 

 

 

 

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兵庫県出身。大学卒業後、広告代理店で各種メディアプロモーション・イベントなどに携わった後、心理カウンセラーとしてロジャーズカウンセリング・アドラー心理学・交流分析のトレーナーを担当、その後神戸市発達障害者支援センターにて3年間カウンセラーとして従事。カウンセリング総件数8000件以上。2010年より、雑誌やWEBサイトでの取材記事執筆などを続ける中でかねてより深い興味をもっていた美術分野のライターとして活動にウェイトをおき、国内外の展覧会やアートフェア、コマーシャルギャラリーでの展示の取材の傍ら、ギャラリーツアーやアートアテンドサービス、講演・セミナーを通じて、より多くの人々がアートの世界に触れられる機会づくりに取り組み、アート関連産業の活性化の一部を担うべく活動。