【ARTS STUDY 2025】 講座レポートVol.14|ヨーゼフ・ボイスと考える 2 – ②|凍りついた社会を「熱」で解きほぐす:ヨーゼフ・ボイスが戦後ドイツに刻んだ対話の彫刻

【ARTS STUDY 】
◾️ヨーゼフ・ボイスと考える 第2回
「なぜ社会を彫塑するかーヨーゼフ・ボイスと戦後ドイツ」
日時:2026年1月9日㈮ 19:00〜20:30
講師:福元崇志(国立国際美術館 主任研究員)
会場:BARまどゐ

[内容]芸術と社会について考えることをテーマに、その先人としてヨーゼフ・ボイスに着目し講座を開講します。ボイ スの芸術活動を通して芸術と社会について考える講座です。 ​

ヨーゼフ・ボイスの活動を見れば見るほど、その言行不一致が気になってくるかもしれません。
「人は誰もが芸術家」だとくり返し語る当の本人が、周りの誰よりも目立ち、つねに輪の中心にいましたから。そもそも、社会という作品について云々しておきながら、彼は全貌がつかみがたいほど多様な作品を、しかも大量に残しているのはなぜなのか。本講座は最後に、ボイスの、慣習的な意味での造形実践に目を向け、その意義を明らかにします。

路面電車に描かれたヨーゼフ・ボイスの顔。「芸術とは人間自身の肖像である」 出典:Wikimedia Commons:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Joseph_Beuys_on_a_tram.jpg


2026年1月9日、神戸。冷え込みが厳しさを増す中、会場には現代アートの巨人、ヨーゼフ・ボイス(1921-1986)の思考を求めて多くの人々が集まった。【ARTS STUDY 2025】のシリーズ講座「ヨーゼフ・ボイスと考える」、その第2回「なぜ社会を彫塑(ちょうそ)するか―ヨーゼフ・ボイスと戦後ドイツ」の幕が開く。

前回の講座ではボイスの独自の造形観を概観したが、今回はその思想が、第二次世界大戦後のドイツという極めて特殊な土壌でいかに芽吹き、爆発的なエネルギーとなって社会へと突き刺さっていったのかを深く掘り下げる。講師を務めるのは、国立国際美術館の主任研究員であり、ボイス研究の最前線に立つ福元崇志氏だ。福元氏は、膨大なスライドと精密な時代背景の解説を交えながら、ボイスの「社会彫刻」の真髄を解き明かしていく。それは単なる美術史のレクチャーではなく、今を生きる私たちの「意志」がいかに世界を形作り得るかという、切実な問いかけの連続であった。

講師:福元崇志(国立国際美術館 主任研究員)

瓦礫の街カッセルから放たれた希望:敗戦国ドイツの精神的再生を賭けた「ドクメンタ」の真実

講義の第1部として福元氏が紐解いたのは、ドイツ・ヘッセン州の都市カッセルで約5年おきに開催される国際美術展「ドクメンタ」の歴史である。アートに関心がある人なら一度はその名を聞いたことがあるだろうが、この展覧会はヴェネチア・ビエンナーレと並びアートの二大国際展とされ、1955年敗戦によって物理的にも精神的にも瓦礫の山となったドイツで誕生した。当時のドイツは敗戦国として、ナチスという被害にして加害の記憶が生々しく残っていた。ナチス政権はかつて近代美術を「退廃芸術」として排除し、ドイツ人の精神を統制しようとしたのである。

「ドクメンタを理解することは、ボイスを理解することと同義です」と福元氏は強調する。創設者アルノルト・ボーデが掲げた「その理念は、ドイツのある精神的な状況の求めに応じて生まれてくる」という言葉が示す通り、この展覧会は当初、美術を見せるためだけの展覧会ではなく、奪われた自由を取り戻し、傷ついた社会をどう癒やし再生させるか、そしてドイツに「文化的アイデンティティ」を取り戻すための、極めて政治的で切実なプロジェクトだった。カッセルという街自体が戦争中に壊滅的な被害を受けた軍需産業の拠点であったことも、この場所で美術展を開くという行為に重い意味を付与している。スライドに映し出される当時の展示風景は、どこかストイックで背筋が伸びるような緊張感に満ちていた。

ドクメンタの創設者アーノルド・ボーデの生誕100周年記念切手 出典:Wikimedia Commons:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Arnold_Bode_Briefmarke.jpg

初期のドクメンタ(第1回から第3回)において、なぜ「抽象芸術」がこれほどまでに推進されたのか。福元氏の解説は、当時のドイツ人が抱えていたトラウマにまで踏み込む。具象的な表現はナチスによってプロパガンダに利用され、特定のイデオロギーを植え付ける道具と化した苦い記憶がある。それに対し、形を持たない抽象芸術は、特定の政治思想に回収されにくい「自由な精神」の象徴だったのだ。初期のドクメンタが抽象芸術を推進したもう一つの理由は、それが特定の政治思想に利用されにくいという点でもあり、自由な精神の象徴として戦後のドイツ人に深く訴えかけたのである。スライドに映し出されたハンス・アルプやアルクサンダー・コールダーの作品は、戦後ドイツが渇望した「精神の空白」を埋めるための自由の器そのものであった。

福元氏は、「芸術は抽象的になった(Die Kunst ist abstrakt geworden.)」という第2回ドクメンタのコンセプトを引き合いに出し、いかに当時のドイツが、過去との決別と国際社会への復帰を「抽象」という言語に託していたかを詳述した。参加者たちは、こうした政治的・歴史的文脈のもとで築かれたドクメンタの理念と空間に、深く頷いていた。

100日間の対話という「見えない彫刻」:ボイスがドクメンタという戦場に持ち込んだ「声」の力

ボイスはこのドクメンタに、1964年の第3回から1982年の第7回まで連続して参加し続ける。彼にとってドクメンタは、自らの作品を「展示」する場所ではなく、社会を「彫塑」するための「格好の実験場」であった。

特に第5回ドクメンタ(1972年)でのエピソードは、参加者の多くを驚かせ、現代アートの概念を根底から揺さぶるものだった。伝説的キュレーター、ハラルド・ゼーマンが芸術監督を務めたこの回のコンセプトは「100日間の出来事」。ボイスは会場内に「直接民主主義のための情報局」というブースを設置し、会期中の100日間、毎日休むことなく会場に詰め、訪れる市民と延々と議論を戦わせ続けたのだ。

ドクメンタ5 フリデリチアム美術館 出典:Wikimedia Commons: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Documenta_5%2C_Fridericianum.jpg/960px-Documenta_5%2C_Fridericianum.jpg?20220703170951

福元氏は、当時のボイスの熱狂的な姿を伝える写真を次々と映し出しながら、その真意を語る。「ボイスにとって、自らの『声』こそが彫刻の素材でした。人々との対話によって意識を変革し、社会の構造を動かしていく。それこそが、彼が提唱した『社会彫刻』の実践だったのです」。会場に置かれたのは、美しい石像や絵画ではなく、ボイスと対話者が書き殴った膨大な数の黒板、そして対話の場そのものだった。ボイスは「教育」や「政治」という人間の営みそのものを「芸術」へと拡張しようとした。作品が「モノ」として完成しているのではなく、人間同士の相互作用の中に立ち現れる。この「目に見えない彫刻」の概念こそが、ボイスが戦後ドイツに叩きつけた最大の挑戦状であった。福元氏は「芸術とは、著名な芸術家が作り出すものである」という第3回のコンセプトがいかにボイスによって「すべての人間の営み」へと解放されていったかを、熱を込めて解説した。

1972 年、ウンベルト マリアーニ、ヨーゼフ ボイス、ジャン ピエール ヴァン ティーゲム、ドクメンタ 5、カッセル 出典:Wikimedia Commons:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1972,_Umberto_Mariani,_Joseph_Beuys,_Jean_Pierre_Van_Tieghem,_Documenta_5,_Kassel.jpg

墜落した飛行機とフェルトの謎:ボイスが語り続けた「救済の神話」と加害者の痛み

講義の後半、話題はボイス自身の個人的な過去、そして彼を取り巻く「神話」の核心へと移る。ボイスといえば、フェルトの帽子とフィッシング・ベストがトレードマークだが、その独特なスタイルには、彼が繰り返し語った「墜落体験」が深く関わっている。

第二次世界大戦中、ドイツ空軍の通信士だったボイスは、1944年にクリミア半島で撃墜された。雪原に投げ出され死を待つ彼を救ったのが、遊牧民タタール人だったという。彼らは瀕死のボイスをフェルトで包み、脂肪を塗って体温を保ち、一命を取り留めた――。この「タタール神話」は、ボイスの作品に頻繁に登場する「脂肪」と「フェルト」という素材の根拠となっている。

しかし、福元氏はここでジャーナリスティックな視点を導入する。「このエピソードは、事実としての記録は乏しく、ボイスによる創作であるという説が有力です。しかし、大切なのは、彼がなぜこの物語を必要としたかです。凄惨な戦争体験、加害者としてのドイツ軍兵士という逃れられない重い過去を、彼は『変化しうる素材』、つまり脂肪やフェルトといった温もりのあるメタファーによって、再構築しようとしたのではないでしょうか」。

ボイスは自らの過去さえも「可塑的(かそてき:形を変えられるもの)」と捉えていた。過去に縛られるのではなく、それをどう「彫り直す」か。戦争参加の経験を持つ彼にとって、「流動化」は自らの魂を救うための深刻な問いだったのだ。この「救済の物語」があったからこそ、ボイスは傷ついた戦後ドイツの人々の心に、深く深く入り込み、共感を呼ぶことができたのである。福元氏は、ボイスが自らの傷をあえて晒し、それを芸術へと昇華させることで、ドイツという国家全体のトラウマを癒やそうとしたプロセスを鮮やかに描き出した。

固まった社会を「熱」で解きほぐす:脂肪とフェルトに込められた可塑性の秘密と文明批評

ボイスの代表的な素材である「脂肪」と「フェルト」。これらが何を象徴しているのか。福元氏は、ボイスが目指した「すべてが変化しつつある造形」という観点から、その物理的・化学的な性質を読み解いていった。脂肪は、冷たければ固まっているが、熱を加えると溶けて流動的になる。フェルトは、熱を逃がさない絶縁体であり、エネルギーを蓄える性質を持つ。 「ボイスにとって、当時の社会とは冷たく固まった、生命力を失った状態でした。そこに『熱』を加え、もう一度柔らかくして、新しい形に作り直す。その『熱』を生むものこそが、人間の思考であり、対話なのです」。

福元氏がスライドで示した初期の重要作《蜜蜂の女王 Ⅲ》(1952年)には、木と蜜蝋が使われていた。整然とした秩序の中で熱を生み出すミツバチの営み。ボイスは、自然界のプロセスを人間社会に応用しようとしていた。さらに、ボイスは「メディア社会における、芸術の位置価値と立ち位置」が問われた第6回ドクメンタにおいて、100トンの脂肪を用いた巨大なインスタレーション《油脂の溜り場》を発表する。カッセルの美術館の地下に溜まった脂肪の塊は、文明が溜め込んだエネルギーの象徴であり、同時に変化を待つ「物質の意志」でもあった。難解に思える現代アートが、実は「今の社会をどう良くするか」という極めてシンプルな、しかし巨大な問いに直結していることを、参加者たちは肌で感じ始めていた。

私たち一人ひとりが「社会の彫刻家」:ボイスが遺した「すべての人間は芸術家である」の真意

講義の締めくくりとして、福元氏はボイスの最も有名な言葉「すべての人間は芸術家である」の真意を、現代の文脈に引き寄せて問い直した。これは、単に誰もが絵を描いたり彫刻を作ったりすべきだという意味ではない。

「私たちが自分の仕事、生活、教育、そして政治という社会の営みを、意志を持って形作ろうとするならば、そのすべての行為が『芸術』なのです」と福元氏は力強く語った。「ボイスの芸術を知ることは、単なる知識の習得であってはなりません。自分自身を、そして社会を『つくる』という人間の営みを、自分事として捉えなおすためのきっかけであるべきなのです」。

会場には、自分の人生という「素材」をどう彫り進めるべきか、静かに思索にふけるような空気が流れていた。福元氏の解説は、単なる美術史のレクチャーを超え、生き方そのものを問うような、深い余韻を残した。ボイスが目指した「社会彫塑」とは、一部の選ばれた人々の特権ではなく、私たち一人ひとりが、自らの手の届く範囲から社会の形を変えていくこと。その勇気を持つこと。福元氏の言葉は、ボイスの遺志を継ぐ「熱」となって、参加者一人ひとりの心に転写されていった。

講座の様子

凍りついた日常を揺さぶり、希望を彫り出すための「熱」を求めて

今回の第2回講座は、ヨーゼフ・ボイスという稀代の表現者が、いかにして戦後ドイツという「極限の現実」を、自由な「表現」へと転換していったかを辿る、知的で情熱的な旅であった。カッセルという瓦礫の街で、ドクメンタという政治的な舞台を、人々の意識を覚醒させる対話の場へと変容させた彼の軌跡は、閉塞感を感じがちな現代社会を生きる私たちにとっても、あまりに大きな示唆を与えてくれる。

「社会を彫塑する」という言葉は、最初はどこか遠い国の出来事のように聞こえるかもしれない。しかし、福元氏の丁寧な導きによって見えてきたのは、冷たく固まった現実に、自らの思考という「熱」を注ぎ込もうとした一人の人間の、不器用なまでの、そして圧倒的な情熱だった。脂肪が熱で溶け出すように、私たちの硬直した考えも、誰かとの対話や、ボイスのような強烈な芸術との出会いによって、もう一度柔らかくなれる。

「つくる」という行為は、特別なことではない。私たちが今日、誰かと話し、何かを選び、行動するそのすべてが、社会という巨大な彫刻の一太刀となっているのだ。その可塑性こそが、未来を創るための唯一の希望なのだ。第3回の最終回に向けて、私たちの心にはボイスが灯した小さな「熱」が、確かに宿り始めている。ボイスの思想を学ぶことは、私たちが「社会の彫刻家」として一歩を踏み出すための、最も美しいレッスンなのかもしれない。

2|ヨーゼフ・ボイスと考える

 

 

 

 

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兵庫県出身。大学卒業後、広告代理店で各種メディアプロモーション・イベントなどに携わった後、心理カウンセラーとしてロジャーズカウンセリング・アドラー心理学・交流分析のトレーナーを担当、その後神戸市発達障害者支援センターにて3年間カウンセラーとして従事。カウンセリング総件数8000件以上。2010年より、雑誌やWEBサイトでの取材記事執筆などを続ける中でかねてより深い興味をもっていた美術分野のライターとして活動にウェイトをおき、国内外の展覧会やアートフェア、コマーシャルギャラリーでの展示の取材の傍ら、ギャラリーツアーやアートアテンドサービス、講演・セミナーを通じて、より多くの人々がアートの世界に触れられる機会づくりに取り組み、アート関連産業の活性化の一部を担うべく活動。