
展覧会タイトル:ハラチグサ個展「境地」
日時:2025年9月15日(月)~9月27日(金)
会場:天野画廊(大阪市中央区瓦屋町)
大阪市中央区、瓦屋町。太平洋戦争の戦火を奇跡的に免れ、今なお大正・昭和の香りを色濃く残す空堀商店街のほど近く。まるで時間そのものが地層のように堆積したかのようなこの街に、天野画廊は静かに佇んでいる。2025年9月15日から27日まで、この場所で開かれたハラチグサの個展「境地」は、私たちが現代アートに触れる体験とは何かを、深く問い直すものだった。

趣のあるギャラリー周辺
展覧会タイトル「境地」。それは作家自身の言葉を借りれば、「美でも醜でもないとき、しかし、無でもないとき。」を指す。この禅問答のような、あるいは詩の一節のような言葉こそが、ハラチグサの芸術的実践の核心を突いている。本稿では、この特異な「境地」がどのように空間に立ち現れていたのかを、作品群と作家の制作姿勢から解き明かしていきたい。

会場風景
時間の堆積が生み出すアート、経験の「場」としての天野画廊
本展を語る上で、まず会場となった天野画廊について触れておく必要がある。1979年の開廊以来、大阪の地で約半世紀にわたり、独自の視点で国内外の作家を紹介し続けてきた、関西アートシーンを担う老舗ギャラリーのひとつである。その長い歴史は、単に時間が経過したことを意味するのではなく、無数の作家たちとの対話と実践が積み重ねられてきた「場」としての厚みを形成している。現在は画廊主の天野和夫氏(以下、天野氏)が精力的に情報発信を続け、その視点は今なお多くの美術愛好家に影響を与えている。いっぽうで、作家ハラチグサもまた、1984年に神戸で生まれ、2000年代初頭から関西を拠点に活動を続け、20年以上にわたる制作の「時間」をその身に蓄積してきた。

展示風景
歴史ある画廊の白い壁と、作家が重ねてきた制作の時間。これら二つの異なる「時間の層」が交差する空間でハラチグサの作品群に対峙するとき、鑑賞者である私たちは、作品が放つ独特の「現在性」に引き込まれる。彼女の作品は、声高に「新しさ」を叫ばず、かといってノスタルジーに耽溺するのでもない。そこにあるのは、作家が「20年来の生活に好きの興奮が馴染んだのだと思います」と語るように(2025年9月28日、作家Instagramより)、日々の営みの中でじっくりと濾過され、堆積してきた「現在の感覚」なのである。

展示風景
「PIECE人形」たち:境地を見つめる無数の視線
会場に足を踏み入れると、鑑賞者である私たちよりも先に、無数の視線が作品世界を見つめていることに気づかされる。壁沿いの低い展示台や床、台座の上に整然と、あるいは自由に配置された小さな立体作品群、《PIECE人形》たちだ。
これらは一体一体が紙粘土に着色されたもので、座高7〜10cmほどの小さな存在だ。鮮やかな色彩をまといながらも、その表情は喜怒哀楽のどれにも分類しがたい、ある種の「空(くう)」を湛えている。緑色の顔をしたもの、スイカの帽子をかぶったもの、あるいは奇妙な髪型をしたもの。そのどれもがユニークでありながら、個としての主張を超え、群として空間の「空気」そのものを形成している。

《PIECE人形》たちの鑑賞風景
彼らは、オブジェというよりも壁面に広がる抽象的な「境地」(=絵画)を見つめる「鑑賞者」であり、同時にその「境地」に生きる「住人」でもある。ハラチグサの作品世界において、これら《PIECE人形》は、抽象と具象、鑑賞者と作品とを繋ぐ、きわめて重要な媒介者として機能している。彼らの存在によって、私たちは抽象絵画を「理解」するのではなく、ただそこに「居合わせる」体験へと誘われるのだ。

自由で楽し気な雰囲気の《PIECE人形》たち

表情豊かな《PIECE人形》たち
絵画という「境地」:形と意味からの解放
1)獲得された「自由」と「自然体」の筆致
本展の主役である絵画作品群は、その《PIECE人形》たちが見つめる広大な「境地」そのものである。ハラチグサの作品に対峙してまず感じるのは、その筆致の圧倒的な「自由さ」と「自然体」の在り方だ。彼女の絵画は、特定の様式や美術史上の「型」に自らを当てはめようとする作為から、驚くほど遠い位置にある。それは、20年以上にわたる制作活動という「実践」を通して、作家自身が積み上げ、同時に解体し続けてきた、強靭な制作態度の現れだ。

展示風景
作家自身、「若い時に無駄に考え、こんな制作形式に憧れていたような気もします。なので達成感は全く無いですが、多分だいぶ嬉しいです。」(2025年9月28日、作家Instagramより)と控えめに語るが、この「達成感の無さ」こそが、彼女を理論や形式への強迫観念から解き放っている。既存の美術の文脈や評価軸に囚われることなく、ただ自身の内側から湧き上がる感覚と衝動に忠実に、色を置き、線を引く。そのしなやかな筆致こそが、ハラチグサの最大の武器であり、魅力だ。この点を、画廊主の天野氏は「ポップでもない。心象画でもない。抽象表現でもない。それがハラチグサの仕事なのです。」と的確に言語化している。どの既存のカテゴリーにも収まらないこと。それこそが、彼女の揺るぎない作家としての「境地」なのである。

《よる》
2)個別の「境地」を巡る
本展では、大小さまざまな絵画が展示された。そのいくつかを具体的に見ていこう。会場の光景の中でも目を引く、明るい水色を背景にした作品《鳴き声》。そこにはピンクや黄色、緑のストロークが、まるで生命の最初の産声(うぶごえ)のように軽やかに、しかし確かな存在感をもって配置されている。それは特定の動物の「鳴き声」ではなく、生命が発する根源的な「音」の振動を視覚化したかのようだ。

《鳴き声》
動的な筆致が画面全体を覆う、エネルギーに満ちた作品《光》。黄色、灰色、青、そして鮮烈な赤とオレンジ。作家は「隣り合わせれば合うだろうと思う配色を考えないよう塗ってみる。しかし難しい。終盤にピンクもオレンジも足す」(2025年9月26日、Instagramより)と、その制作プロセスを明かす。これは、計算された構図や色彩理論からの解放であり、描く行為そのものが思考を追い越していく瞬間の記録だ。足されたピンクとオレンジは、理性を超えた直感の勝利の証である。

《光》
本展の中で、ひときわ静謐な存在感を放っていた小品《もちいし》。「餅のような石という意味だろうか」と天野氏が推察するように、淡い背景の中に、丸みを帯びた黄土色や焦茶色の形態が、まるで呼吸をするかのように柔らかく配置されている。「半抽象の静物画のよう」でもあり、「うっすらピンク色の3つの物体」も見える。天野氏が「屈託のない、見ていてほっこりする作品」と評するように、この作品には鑑賞者を惹きつけてやまない、素朴で穏やかな力が宿っている。それは、描かれた「モノ」の意味や象徴性を探る「記号論」的な解釈を拒み、ただ「そこにある」ことの充足感を私たちに与えてくれる。

《もちいし》
「蛇には耳の穴がなくて、歩く振動とかならわかるんだけど、ペットの蛇に名前を呼んでも意味がない」と話を聞いて面白いなと思いながら描いた《蛇の聞く音》(2025年9月17日、Instagram)。私たち人間が「聴く」のとは異なる方法で世界を感知する存在、蛇。この作品の前に立つとき、私たちは「理解」する鑑賞から、「振動を感じる」鑑賞へと移行する。それはまさしく、ハラチグサの作品世界全体に通底する鑑賞態度そのものではないだろうか。

《蛇の聞く音》
「無」ではない、確かな「境地」
ハラチグサの個展「境地」は、作家が20年以上にわたる制作の果てにたどり着いた、静かだが確固たる「場所」を私たちに示すものだった。それは、「美でも醜でもないとき、しかし、無でもないとき。」という、あらゆる二項対立的な価値判断から自由になった領域である。大阪の地で長く芸術を見つめてきた天野画廊という「場」で、私たちは無数の「Piece人形」たちと共に、作家が描き出す多様な「境地」=心の風景を巡った。そこには、既存の美術の枠組みや時流とは異なる次元で、ただ「描き続ける」「作り続ける」という営為によってのみ到達可能な、純粋な絵画の喜びと強度が満ち溢れていた。
ハラチグサの作品は、私たちに「意味」を問うてこない。その代わりに、「もちいし」がただそこにあるように、作品そのものとして「在る」ことを求めてくる。それこそが、情報過多な現代社会において、彼女の芸術が持つ静かな、しかしラディカルな力なのだ。「無でもない」確かな存在感。その温かい手触りと振動を、私たちは確かに受け取った。

展示風景
ハラチグサ Instagram https://www.instagram.com/harachiguso