ネオ・ポップの原点、その批評的実践と『具体』との時空を超えた対話 太郎千恵蔵 Taro Chiezo「Apparere/アッパリーレ」 Yoshiaki Inoue Gallery 黒木杏紀評

Yoshiaki Inoue Gallery 2F 展示風景

大阪の文化発信地、心斎橋。この街に拠点を構えるYoshiaki Inoue Galleryで、アーティスト・太郎千恵蔵による大規模な個展「Apparere/アッパリーレ」が、また、大阪・西天満の古くからある骨董街として有名な老松通りの路地裏に根差すBEAK 585 GALLERYによる同じ作家の展覧会「顔の出現-記号になるまえに」が同時開催されている。

太郎千恵蔵は、1990年代初頭のニューヨークで頭角を現し、村上隆や奈良美智らと共に日本の「ネオ・ポップ」という潮流を創出した、まさにその最初期の一人として知られる作家だ。近年、東京のPARCELでの個展(2023年、2025年)を契機に再び大きな注目を集める中、大阪では実に23年ぶりとなる本展は、二つの会場が相互に補完し合うことで作家の多面的な姿を浮かび上がらせる。彼の活動の原点と現在地を接続し、さらに日本の戦後美術史における最重要の動向である「具体」との対話を試みる野心的な構成は、単なる回顧に留まらない。出展作のほとんどが2025年の新作で構成されており、太郎千恵蔵という作家の多層的な実践の「現在地」を、現代アートの文脈の中に改めて位置づけ直し、その正当な再評価を促す極めて批評的な展覧会である。

《見て》 2025,oil on canvas,116.5x96cm

ネオ・ポップ黎明期の証言者、その批評的絵画実践

太郎千恵蔵の名は、1990年代の日本現代美術史、とりわけネオ・ポップの誕生を語る上で欠かすことのできない存在だ。彼は1991年、ニューヨーク・ソーホーのギャラリーで開催された、ヴィト・アコンチらも名を連ねたグループ展「見えない身体」で鮮烈なデビューを飾る。さらに翌年の「ポスト・ヒューマン」展では、マイク・ケリーやフェリックス・ゴンザレス=トレスといった、当時のアートシーンを象徴する作家たちと共に5つの美術館を巡回し、早くから国際的な評価を確立していた。彼は、単にムーブメントの一員であっただけでなく、その理論的支柱を形成した創始者の一人であった。

アーティスト 太郎千恵蔵氏と《Girl (Pink) 》

《Post HUMAN 1》1992,wax, fabric and toy cars

本展に際して在廊中の作家との対話は、当時の熱気を生々しく伝える歴史的な証言に満ちていた。キャリアの初期、まだ白石画廊に勤務していた若き日の小山登美夫氏(現・小山登美夫ギャラリー代表)が、太郎の作品を初めて購入したという逸話は、単なる美談ではない。それは、後の日本のアートシーンを牽引するギャラリストが、いち早くその才能を見抜いていた証しである。さらに、小山氏の紹介によって出会ったのが村上隆であった。デビュー前の太郎、村上、そして小山の三者は頻繁に集い、日本の現代アートが世界とどう対峙すべきかについて語り合ったという。

当時、インスタレーションや彫刻作品を中心に制作していた太郎に対し、小山氏が「ペインティングを描けよ」と強く勧めたことは、決定的な転回点となった。この一言がなければ、私たちが今日知る太郎千恵蔵の絵画は存在しなかったかもしれない。アメリカの同時代人であるジェフ・クーンズやマイク・ケリーが、既製品やぬいぐるみをモチーフとした立体作品でポップ・アートの批評的更新を試みていたのとは対照的に、太郎は絵画という伝統的なメディウムへと向かった。この選択こそ、日本独自のネオ・ポップが単なるアメリカのポップ・アートの亜流ではなく、絵画の歴史に根差した独自の批評性を持つに至った重要な分岐点であったと言えるだろう。

左:《Boy I (Red)》2025,oil on canvas,145.5×145.5cm、中:《Boy II 》2025,oil on canvas,100x100cm、右:《Boy Ⅲ 》2025,oil on canvas,100x100cm

こうした歴史的背景を持つ作家の、関西では久々となる大規模個展と聞くと、回顧的な内容を想像するかもしれない。しかし本展は、その予想を鮮やかに裏切る。展示作品の大半は2025年に制作された新作であり、その筆致は勢いを増し、色彩はより鮮烈になっている。これは過去の栄光を振り返るのではなく、今なお進化を続けるアーティストの現在進行形の実践を、私たちに力強く提示するものである。

左:《Boy V》2025,130x 117cm,oil on canvas、右:《Girl (Pink)》1997,195x 149.5cm,oil on canvas

二つの展示空間が織りなす多層的な思考

本展の巧みな点は、Yoshiaki Inoue GalleryとBEAK 585 GALLERYという二つの空間を用いることで、太郎千恵蔵の芸術的思考の多層性を浮かび上がらせていることにある。作家自身が企画・構成を手掛けた二つの展示は、対立するのではなく、互いに共鳴し合い、一つの統合されたヴィジョンを形成している。

Yoshiaki Inoue Galleryの2階に並ぶのは、躍動感あふれる大画面のペインティング群だ。鋭い眼差しの少年や、疾走する忍者、あるいはどこか懐かしさを感じさせる少女の姿。それらは日本のマンガやアニメーションという共通の視覚文化の記憶を呼び覚ますが、決してノスタルジックな引用に留まるものではない。

左:《Boy II》2025,oil on canvas,100x100cm、右:《Boy Ⅲ》2025,oil on canvas,100x100cm

《Ninjya Jump 》2025,oil on canvas,140x97cm

太郎は自身の制作プロセスを「具体的なマンガから始めて、抽象の筆さばきや垂らしによるペインタリー性によって絵画にする」と語る。その言葉通り、キャンバスに近づくと、キャラクターの明快な輪郭線を寸断し、あるいはその内部を侵食するように、激しい筆致が走り、絵具の垂れ(ドリッピング)が画面に生々しい物質性を与えているのがわかる。ポップなイメージ(図)と、抽象表現主義を思わせるペインタリーなテクスチャー(地)とが、一つの画面の中で拮抗し、緊張感に満ちた関係性を築いている。これは、イメージが容易に消費される現代社会に対する、絵画による批評的な応答だ。

《Dog》2024,100x 75cm,oil on canvas

いっぽう、BEAK 585 GALLERYでは、より小さなサイズの作品やドローイングが中心に展示されている。こちらでは、科学の子を思わせるキャラクターのイメージが繰り返し現れる。ペインティングに至る前の思考の痕跡とも言えるドローイング群は、完成された大画面の作品とは異なる、よりパーソナルで内省的な表情を見せる。インクの滲みや鉛筆のかすれは、作家の身体の微細な動きを伝え、一つのイメージが生まれる瞬間の息遣いを感じさせる。二つの会場を巡ることで、鑑賞者は洗練された完成作の背後にある、作家の試行錯誤や身体的な筆の運動、そしてイメージと言語を巡る深い思索の過程をより深く感じ取ることができる。彼は、マンガという極めて具体的な表象を用いながら、絵画そのものの自律性—すなわち「絵画であること」—を、30年以上にわたり問い続けているのである。

BEAK 585 GALLERY 展示風景

BEAK 585 GALLERY より 左:《Boy I》2025年,606×500mm,oil on canvas、右:《Boy Il》2025年,500 × 500mm,oil on canvas

「具体」との対話—日本戦後美術史への介入

本展の白眉であり、太郎千恵蔵の批評的知性が最も鮮やかに示されているのが、Yoshiaki Inoue Galleryの3階で同時開催されているプロジェクト「具体絵画とネオ・ポップ絵画の対話」だ。ここでは、ギャラリーが所蔵する具体美術協会のメンバー(吉原治良、元永定正、田中敦子、白髪一雄など)の歴史的な作品と、太郎の作品が同じ空間に並置されている。一見すると、戦後日本の前衛芸術を代表する抽象絵画と、サブカルチャーを源流とするポップな絵画は、全く異なる文脈に属するように思える。しかし、作家はこの大胆な並置によって、両者の間に潜む深い共振関係を暴き出し、日本の美術史に新たな視座を提示する。

3F 展示風景 プロジェクト「具体絵画とネオ・ポップ絵画の対話」

この試みは、太郎が抱き続けてきた「なぜ具体のリーダーであった吉原治良は、抽象画の団体に『具体』という名前をつけたのか」という根源的な問いから出発している。欧米のモダニズム美術史観では、抽象(Abstraction)と具象(Figuration)は対立概念として捉えられがちだ。しかし、田中敦子が電球や電線といった「具体的な」モノを用いて《電気服》を制作し、それを抽象絵画へと昇華させたように、あるいは白髪一雄が自らの身体という「具体的な」存在を絵具に叩きつけたように、具体のアーティストたちは、具体的な物質や行為から出発して、旧来の抽象の概念を根底から覆す、全く新しい表現を切り拓いた。

3F 展示風景

左:《Ninjya》2023,oil on canvas,130.5x95cm

このアプローチは、哲学者のジル・ドゥルーズの思考を援用するならば、まさに「具体的なものそれ自体のうちで作動する抽象的な思考の線」を辿る実践と解釈できる。この視点に立つとき、太郎の制作もまた、同様のプロセスを辿っていることが驚くほど明瞭になる。マンガのキャラクターたちは、田中にとっての電線や電球と同じく、作家にとっては極めて「具体的な」モノなのだ。彼はその具体的なイメージを起点としながら、ペインタリーな実践を通じて、それを普遍的な絵画空間へと解き放つ。

3F 展示風景 左から2つ目:《Penguin Existence》2023,oil on canvas,120x95cm

例えば、ドイツの映画『メトロポリス』と手塚治虫の初期SFマンガ、そして白髪一雄のアクション・ペインティングを参照して制作されたという《Study for Robot in “Metropolis”》は、この対話の核心を示す好例だ。抽象的なグレーの画面を描き始め、制作の過程でロボットのイメージが立ち現れたというこの作品は、カルチャー史と美術史が分かち難く結びついていることを示している。この空間は、太郎が単に具体の様式を模倣しているのではなく、その精神性を深く理解し、自らの制作の内に再創造していることを証明している。それは、ネオ・ポップを単なるポップ・カルチャーの反映としてではなく、日本独自の戦後美術史の正統な継承者として位置づけ直す、ラディカルな歴史への介入なのである。

《Study for Robot in “Metropolis”》2025,oil on canvas,194x 162cm

3F 展示風景

ネオ・ポップの再定義と太郎千恵蔵の現在地

太郎千恵蔵の個展「Apparere」は、日本の90年代ネオ・ポップ・ムーブメントを再考し、その今日的意義を問い直す上で、極めて重要な示唆を与える画期的な展覧会だ。村上隆や奈良美智といった同時代の作家たちと共に、その黎明期を形作った先駆者でありながら、彼の活動の全貌と、その実践の根底にある批評性は、これまで十分に光が当てられてきたとは言い難い。新作を中心とした本展は、彼の作品がマンガ・アニメというサブカルチャーの文脈に留まらず、絵画というメディウムの歴史、とりわけ日本の戦後美術が世界に誇る「具体」の遺産と深く結びついていることを、揺るぎない説得力をもって明らかにした。具体的なイメージから出発し、抽象的な思考を経て、普遍的な絵画の地平を目指すその一貫した実践は、30年以上の時を経た今、より一層の輝きと批評的な鋭さを放っている。この展覧会は、太郎千恵蔵という作家の正当な再評価への力強い狼煙であると同時に、私たちに日本現代美術史を新たな視点から読み解くことを促す、知的な挑戦状でもあるのだ。

 

太郎千恵藏 tarochiezo

公式サイト TARO CHIEZO:https://tarochiezo.net/
X(旧Twitter):(@tarochiezo)/https://x.com/tarochiezo


参考

・Yoshiaki Inoue Gallery | Taro Chiezo solo exhibition “Apparere” https://gallery-inoue.com/taro-chiezo-solo-exhibition-apparere/
・BEAK 585 GALLERY | 太郎千恵藏|Taro Chiezo 「顔の出現ー記号になるまえに」 https://beak585.com/taro-chiezo-2025/
・PARCEL | Taro Chiezo “90s and/or 20s” (2023) https://parceltokyo.jp/exhibition/90s-and-or-20s/
・PARCEL | Taro Chiezo “Passion” (2025) https://parceltokyo.jp/exhibition/passion/

 

 

 

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兵庫県出身。大学卒業後、広告代理店で各種メディアプロモーション・イベントなどに携わった後、心理カウンセラーとしてロジャーズカウンセリング・アドラー心理学・交流分析のトレーナーを担当、その後神戸市発達障害者支援センターにて3年間カウンセラーとして従事。カウンセリング総件数8000件以上。2010年より、雑誌やWEBサイトでの取材記事執筆などを続ける中でかねてより深い興味をもっていた美術分野のライターとして活動にウェイトをおき、国内外の展覧会やアートフェア、コマーシャルギャラリーでの展示の取材の傍ら、ギャラリーツアーやアートアテンドサービス、講演・セミナーを通じて、より多くの人々がアートの世界に触れられる機会づくりに取り組み、アート関連産業の活性化の一部を担うべく活動。