■開催概要
のせでんアートライン2019 避難訓練
会期:2019年10月26日(土)~11月24日(日)
会場:川西能勢口駅〜妙見口駅、能勢妙見山一帯他
なぜ今、「避難訓練」なのか
「避難訓練」という言葉から、私たちは何を想起するだろうか。鳴り響くサイレン、机の下に身を隠す画一的な動作、あるいは「お・は・し・も」の標語(※1)。それは、予測可能な災害に対する、身体に染みついた集団的作法である。しかし、2019年に能勢電鉄(のせでん)沿線一帯で繰り広げられた芸術祭「のせでんアートライン2019」が掲げたテーマは、そうした物理的な危機からの退避とは趣を異にする、より根源的で内省的な問いを私たちに投げかけるものだった。
本芸術祭のアートプロデューサーを務めた前田文化は、「避難訓練」を「これからの時代、立ち向かっていくのではなく、逃げていくことがこそが必要」であり、「そこにある問題に対して身をかわしながら、安易な選択肢をとらずに別の行き先を見出していく」ための思考のシミュレーションだと語る。これは、社会に蔓延する同調圧力、固定観念、あるいは自己を縛る無意識の習慣といった、目に見えぬ「災厄」から、いかにして精神の自由を確保し、しなやかに生き抜くかという、現代人への切実な問いかけに他ならない。

妙見口駅
2013年の能勢電鉄開業100周年を機に始まり、今回で4回目を迎えた「のせでんアートライン」は、アートを媒介に地域固有の魅力を掘り起こしてきた。その舞台となるのは、大阪の都市圏からわずか1時間ほどでアクセスできるにもかかわらず、豊かな里山風景が広がる川西市から能勢町にかけてのエリアである。
古くから北極星信仰の聖地として知られる能勢妙見山を擁し、丹波と大阪を結ぶ交通の要衝として多様な文化が交錯してきたこの土地は、ある意味で、様々な人々や価値観を受け入れ、再生を促してきた「避難所」としての歴史的文脈を持つ。この場所で「避難訓練」というテーマを掲げること。それは、単なる言葉遊びではなく、土地の記憶と現代的な課題とを共振させ、未来への新たな道筋を模索しようとする、野心的な試みなのである。国内外から集った8組のアーティストたちは、この示唆に富んだテーマを、そして能勢の土地を、いかに読み解き、表現したのか。その軌跡を辿ってみたい。

妙見口駅前のにぎわい のせでんアートライン2019はここからスタート
聖なる山に響く、始原の物語と祈り
芸術祭の最奥部、能勢妙見山の山頂エリアは、俗世から切り離されたかのような静寂と神聖な空気に満ちている。この地で展開されたのは、人間存在の根源や、自然との関わりを問い直す、壮大なスケールの作品群であった。
台湾の原住民族アミ族出身のアーティスト、ラヘズ・タリスが発表した《面向北方的方向、是回家的地方 (北へ向かえばそこは家に帰る場所)》は、その象徴と言えるだろう。北極星を目指し、夜の海を進む小舟をかたどった彫刻。それは、アミ族に伝わる「スラーとラッガウ」という創世神話を下敷きにしている。
洪水によって故郷を追われた兄妹が、小舟に挟まっていた粟の種を新たな土地で育て、子孫を繁栄させたという物語だ。この作品が、先ごろの台風で発生したブナの倒木を素材としている事実は、極めて重要である。災害という破壊の産物が、新たな生命を育む神話の器へと昇華される。それは、「どんな困難におちいった時でも必ず現状の中に道筋が見つけられるはず」という作家のメッセージを、力強く体現している。
さらに、能勢妙見山が古くから北極星信仰の中心地であったという事実を知る時、この作品は単なる彫刻であることを超え、台湾の神話と日本の信仰が、夜空の一点を目指して時空を超えて交差する、壮大なインスタレーションとして立ち現れる。鑑賞者は、この作品を通じて、破壊と再生、そして普遍的な祈りの形を多層的に読解することを促されるのだ。

ラヘズ・タリフ(拉黒子・達立夫) 《面向北方的方向、是回家的地方(北へ向かえばそこは家に帰る場所)》
同じく山頂エリアで、渡部睦子は《星見るひとたちと出会う旅》と題した、鑑賞者の身体感覚に深く訴えかける作品を展開した。アムステルダム在住の彼女がオランダの漁師から学んだという網の編み方を、地域の子どもたちとのワークショップを通じて共有し、制作されたネット。それが山道に結ばれ、鑑賞者を山頂へと導く道標となる。この協働のプロセス自体が、文化や世代を超えた知の伝承という、ささやかだが重要な「避難」の技術を示している。そして、その先に待つのは、妙見山の素材で組まれた「船」である。船に乗り、眼下に広がる風景を眺める時、私たちはかつてこの山で厳しい修行に明け暮れた修験者たちと同じ視線を共有するのかもしれない。彼らもまた、夜空の星に救いや導きを求めた「星見るひと」であったはずだ。渡部の作品は、鑑賞者を単なる風景の消費者ではなく、土地の歴史と精神性に参与する主体へと変容させる。それは、日常の身体感覚から「避難」し、自らの五感で世界を再発見するための、静かなる儀式なのである。

渡部睦子 《星見るひとたちと出会う旅》 能勢妙見山山頂ほか
里山の深層に潜む、見えざる存在との対話
山から里へと下りると、アートはより身近な、しかし見過ごされがちな存在へとその焦点を移していく。そこでは、人間と自然、あるいは現代社会が忘却した物語との関係性が、繊細かつ批評的な視点で探求されていた。
メキシコ出身のディエゴ・テオは、上杉池から白瀧稲荷にかけての森閑としたエリアで、《UBASUTE》と題したインスタレーションを展開した。この挑発的なタイトルは、豊能町で保護されている野生の熊「トヨ」への共感から生まれたという。彼は、金太郎の母ともされる山姥(やまんば)の伝説や、母熊を思うトヨの心情を想像の翼で広げ、ドローイングや詩、熊の仮面といった断片的な要素で森の中を満たした。
鑑賞者は、まるでヘンゼルとグレーテルのように、点在する詩のかけらを拾い集めながら森の奥へと誘われる。この体験は、効率性や合理性といった現代的な価値観によって追いやられた、神話的な想像力や、人間以外の存在への共感を呼び覚ます。テオの作品は、熊や精霊といった「見えざるもの」たちの声を聴くための装置であり、近代化の過程で私たちが「棄てて」きたものの価値を問い直す、痛切な“避難訓練”となっている。

ディエゴ・テオ 《UBASUTE》 上杉池、白瀧稲荷、高台寺近辺

ディエゴ・テオ 《UBASUTE》 上杉池、白瀧稲荷、高台寺近辺
新瀧公民館で展示された井上亜美の映像作品《ミツバチの見た夢》もまた、非人間的な視点から世界を捉え直す試みだ。自身も養蜂家である井上は、京都と能勢で採取したミツバチの群れを紫外線カメラで撮影した。紫外線でしか見ることのできない花々の紋様や、ミツバチたちの不可視のコミュニケーション。その映像は、人間中心的な世界認識がいかに限定的であるかを暴き出す。
ミツバチは、環境の変化に敏感な「環境指標生物」とされる。彼らの存在そのものが、その土地の豊かさの証明となるのだ。のせでんアートラインに継続的に参加してきた井上は、ミツバチの視点を通して、里山の環境が被る微細な、しかし確実な変化を記録し続けている。それは、声高な主張ではない。しかし、美しくも異質な映像は、私たち人間の活動がもたらす影響について静かに熟考することを促す、効果的な警鐘として機能している。

井上亜美 《ミツバチの見た夢》 新瀧公民館ほか

井上亜美 《ミツバチの見た夢》 新瀧公民館ほか
ニュータウンという日常への、ささやかで力強い介入
今回の芸術祭で新たに加わったのが、高度経済成長期に開発されたニュータウンエリアである。均質で、一見すると物語性に乏しいこの日常空間に、アーティストたちはユーモアと批評精神に満ちた介入を試みた。
渡邉朋也 a.k.a.なべたんの《なべたんの極力直そう around のせでん》は、その軽やかさにおいて際立っていた。街中で発見した看板の誤植や、欠けたネジといった些細な「欠損」を、3Dプリンターなどを駆使して勝手に「修復」し、その過程を街の掲示板で報告する。この一連の行為は、都市空間の匿名性や、公共物に対する住民の無関心さに対する、ウィットに富んだ批評である。
鑑賞者は、彼の報告を頼りに街を歩きながら、さながら「間違い探し」のように、日常風景に潜むズレを発見していく。そのプロセスは、見慣れた景色を新たな視点で見つめ直すきっかけとなり、住民たちの間にくすりと笑えるような共犯関係を生み出す。それは、画一的な日常からの、極めて個人的で創造的な「避難」の方法論と言えるだろう。

渡邉朋也 a.k.a.なべたん 《なべたんの極力直そう around のせでん》 ときわ台駅前 ここでは〝HONDA〟の“D”を修復
一方、岡啓輔の《もう一度、グリグリと強い線を引く》は、よりダイナミックで共同体的なアプローチをとった。東ときわ台の山際の斜面に、長さ20メートル、重さ2トンにも及ぶコンクリートの柱を横たえる。この巨大なオブジェは、地域の住民たちとのワークショップでデザインされ、手練りで制作されたものだ。そして会期初日、総勢約100人の手によって神輿のように担がれ、設置場所まで運搬された。
その様子は「逆オンハシラ祭」と名付けられ、SNSで拡散された。山と街、自然と人工物といった二項対立を、一本の力強い「線」で物理的に接続するこの試みは、作品そのものの存在感もさることながら、制作から設置に至るまでの祝祭的なプロセスにこそ、その本質がある。分断されがちなコミュニティが、一つの目標に向かって力を合わせる。この協働体験こそが、希薄化した地域の繋がりを再構築するための、最も有効な「訓練」となったに違いない。

岡啓輔 《もう一度、グリグリと強い線を引く》 東ときわ台5丁目1号公

岡啓輔 《もう一度、グリグリと強い線を引く》 東ときわ台5丁目1号公
光風台の空き家を映画館へと変貌させた深澤孝司の《NEW TOWN MY HOME THEATER》もまた、コミュニティの記憶に深く関わるプロジェクトだ。各家庭で眠っていた8ミリフィルムやホームビデオを収集・上映し、さらにはニュータウンと信仰をテーマにした新作映画を会期中に制作する。プライベートな記憶の集合体であるホームビデオが、空き家という半公共的な空間で上映される時、個人の物語は地域の共有財産へと姿を変える。そこでは、かつてのニュータウンの賑わいや、家族のささやかな歴史がスクリーンに蘇り、鑑賞者たちの間に新たな対話を生み出す。深澤の試みは、均質に見えるニュータウンにも豊かな物語が息づいていることを可視化し、「ホーム」とは何か、「シアター(劇場)」とは何かという問いを、住民たち自身に投げかけるものだったのである。

深澤孝司 《NEW TOWN MY HOME THEATER》 光風台マイホームシアター

深澤孝司 《NEW TOWN MY HOME THEATER》 光風台マイホームシアター
未来を生き抜くための「思考の訓練」「のせでんアートライン2019 “避難訓練”」は、現代社会が抱える様々な困難や閉塞感に対し、アートがいかに有効な処方箋となりうるかを見事に提示した。本芸術祭が示した「避難」とは、決して現実からの逃避や敗北を意味するものではない。それは、神話的な世界への回帰(ラヘズ・タリス)、自然との共生感覚の回復(渡部睦子、井上亜美)、忘れられた物語の再発掘(ディエゴ・テオ)、そしてユーモアと協働による日常の組み替え(渡邉朋也、岡啓輔、深澤孝司)といった、多様なアプローチを含む、極めて創造的で能動的な営為であった。アーティストたちは、能勢という土地の文脈を深く読み込み、鑑賞者の思考と身体を揺さぶる体験を創出した。それは、予測不能な未来をしなやかに生き抜くための「思考の訓練」であり、私たち一人ひとりが自らの手で「別の行き先を見出していく」ための、希望の道筋であったと言えるだろう。
のせでんアートライン2019 避難訓練 オフィシャルサイト (2025年8月13日最終確認)
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注釈
(※1)
「お・は・し・も」は、日本における防災標語で、特に火災や地震などの緊急時に避難する際の行動指針を示している。この標語は、以下のような意味を持つ言葉の頭文字を取ったものである。
お: 押さない(他の人を押してはいけない)
は: 走らない(急いで逃げることは危険)
し: しゃべらない(避難指示を聞くために静かにする)
も: 戻らない(忘れ物があっても戻ってはいけない)
この標語は、特に小学校などで避難訓練の際に使用され、子どもたちに安全な行動を促すためのもので、地域によっては「おかしも」というバリエーションもあり、こちらは「押さない」「駆けない」「しゃべらない」「戻らない」という意味を持つ。「おはしも」は、1995年の兵庫県南部地震を契機に広まり、現在では全国の学校で教育指導ガイドラインに掲載されている。これにより、子どもたちが緊急時に冷静に行動できるようにすることが目的とされている。
児童のための避難標語「おはしも(おかしも)」[今週の防災格言42] | 防災意識を育てるWEBマガジン「思則有備(しそくゆうび)」 (2025年8月13日最終確認)
※過去メディア掲載なし