造形要素とメディウムを等価につないだ大きな軌跡
「没後30年 木下佳通代」
会期:2024年5月25日~8月18日
会場:大阪中之島美術館
大阪中之島美術館で、木下佳通代の没後30年の回顧展が開催されている。回顧展といっても、木下は1939年生まれで、1994年には55歳の若さで亡くなっており、国内の美術館で個展が開催されるのは初めてのことである。展覧会を企画した学芸員の大下裕司によると、没後も美術館もしくはギャラリーで、毎年、木下の作品が出品されていたように、忘れられた作家ということではない。ただし、彼女の創作活動がどのよう軌跡をたどっていったか詳細に把握している人は限られているだろう。
私が学生時代だった時期にはすでに最晩年にあたり、存命中に作品を見た記憶はない。たしかに、コンセプチュアルな作品のシリーズは見た覚えがあるし、絵画作品も見たと思うが、抽象的な作品であるため、位置づけがわからず、さっと流していたように思う。カタログの年譜を見ると、2022年の「Back to 1972-50年前の現代美術へ」展(西宮市大谷美術館)、2018年の「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」展(国立国際美術館)などにも出品されており、間違いなく見ている。東京では、2023年に東京国立近代美術館で開催された「女性と抽象」展が記憶に新しいのではないか。
驚いたのは、一般の人はほとんど知らないといっていい木下佳通代の展覧会を、天井高6メートル、1700平米の広さもある大阪中之島美術館の5階で開催するという判断である。55歳で亡くなったという活動歴の短さから考えても、東京の国立新美術館クラスの大きさの展覧会が巡回してくる大阪中之島美術館の5階を十分に埋めることができるのか。やや懸念をしていたのだが、全くの杞憂であった。むしろ大阪中之島美術館の5階を使った展覧会の中でも上位に入る構成であったといえる。
さて、木下の作品は、「グループ〈位〉」と活動を共にした1960年代、写真をメディウムにしたコンセプチュアルな作品を制作した70年代、抽象的な絵画作品を制作した80年代に大きく分かれており、実際、本展覧会も1章(1960-1971)、2章(1972-1981)、3章(1982-1994)というように構成されている。一般的な認知としては1982年に急に絵画に回帰したと思われているが、丹念に作品の軌跡を追うと、連続した面が見えてくるという仕掛けになっている。
特に60~70年代の関西のアートシーンは、「京都ビエンナーレ」「京都アンデパンダン展」(京都市美術館)、80年代は「アート・ナウ」(兵庫県立美術館)などが知られており、木下もそれらに出品し、それぞれの潮流、表現のモードに乗っている部分は見られる。関西では、50年代から70年まで、具体(美術協会)の影響が大きく、抽象表現主義やアンフォルメル、ハプニング、パフォーマンス、後期はインターメディアなど世界的な潮流と同期しているとはいえるが、芦屋を拠点にしており、美術大学の出身者ばかりではなかったために、素材と手法の実験を繰り返す方向性が強く、良くも悪くも70年代のコンセプチュアル、ミニマルで還元主義的な動向からは外れていった部分がある。
その中で、河口龍夫や奥田善巳らが神戸で結成した「グループ〈位〉」は、より理知的でコンセプチュアルな作品を志向したといってよい。1963年に河口と結婚した木下も、活動を共にし、「グループ〈位〉」のテーマであった「存在についての問題」は自身の創作にも強く影響を受けたという。
また、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)では西洋画科を専攻し、黒田重太郎や津田周平、今井憲一、須田国太郎に師事したが、彫刻科の辻晋堂、堀内正和に親しむこと多く、哲学や教育学に関心を抱いていたこと。特に哲学を担当していた久松真一という教授は、西田幾多郎に師事し、鈴木大拙に影響を受けた哲学者・仏教学者であったということもある。
さらに、河口とは同じ高校でそれ以前から交流が深かったことも大きいだろう。ただし、「グループ〈位〉」と活動を共にしつつも、卒業後は、中学校で美術教師をしながら1963年からは「京都アンデパンダン展」に出品。1966年まで6回のグループ展、1966年には個展を開催している。その頃は、植物をモチーフにした抽象画を発表している。
パウル・クレーやドローネーのような色彩と形態の有機的な反復による抽象的な絵画から、より認識論、存在論的な問題を一つの図として還元的に表すようになったのは1970年の「境界の思考」と題されたシリーズからである。ここには、平面と立体、内側と外側をいかに等価に連続的に見せるかが試みられている。1972年にはグリッド上に輪郭が朧な円や線を描いた「滲触」というシリーズを発表し、線と色彩の認知を明瞭に分離して、等価なものとして表現している。クレーの作品も意識したとされる、この認識の中で結合をしているものを分離し、等価にして見せるという方法は、その後、さまざまなメディウムを使用した作品にも一貫して見られる方法であるし、木下作品を解釈するもっとも重要なポイントだろう。
しかし、私がもっとも注目したのは、中学校の美術教師、絵画教室を主宰していただけではなく、着物の絵付けの仕事もしていたということだ。つまり、そこでは線と生地が等価な状態で存在しており、さらに平面を広げると立体にもなる。描いた絵は、畳んでいた状態でも、着て歪んだ状態でも同じものとして認識される。しかも、木下の実家は建具屋であり、建具もまた、絵画と家具といった序列はない。
私が常に考えるのは、このような「コンセプト」といった思考だけで行われていると思われるものも、極めてその人の経験に左右されているということだ。特に物質や空間を扱うアーティストならなおさらである。
1972年から76年にかけて、花時計を撮影する人を撮影した写真と、その人が撮影した花時計の写真を並べる《Untitled/む38(花時計)》(1973)をはじめとして、写真によって物と時間を分離し、個々の認識の違いやメカニズムを提示する組写真の作品を発表する。1975年に通行している人々に少しずつ色を足していく作品では、認識と存在を色で表している。今で言うならアイトラッキングのような作品といえる。
1976年から写真とカラー・フェルトペンによる作品が登場する。例えば、コンパスで円を描く写真の上に、写真の中と同じ円をカラー・フェルトペンで描いた《‘76-D》(1976)は、上から重ねることで、写真の中の円は視覚的には楕円に過ぎないのに、カラー・フェルトペンで描いたように真円として認識していることを浮かび上がらせるのである。第13回現代日本美術展で兵庫県立美術館賞を受賞した《作品‘77-D》(1977)でも、紙の上に円を二つコンパスで描いて、折り畳んで広げたものを写真に撮影し、写真の円と同じサイズの円を上からカラー・フェルトペンで描いている。同じバリエーションの作品がつくられているが、まさに我々が常に認識している知覚や認知、脳のメカニズムを問うものである。これらは認識的に言えば、着物の絵付けのバリエーションでもある。
これは色彩においては、「色の恒常性」と言われるもので、物についている固有色も、写真で撮影すれば、その時の光の状態によって、さまざまな色になる。昔SNSで流行した「青と黒」、「白と金」のドレスのように、光の状態を脳が錯覚すれば反転してしまう場合もある。通常、人間はその物に対する光の変化の差分をとって認識している。だから「同じ色」として認識しているわけだが、写真にはそのような機構はないから違った色となる。神経生理学者のセミール・ゼキは、アーティストは生理学者が知覚の実験をするように、自身の表現でそれを行っていると指摘しており、キュビスムに関しては「形の恒常性」を追求したものとしているが、木下の行為も同様であろう。
人間は同じ形について歪めても角度を変えても同じものとして認識する。しかし、そのような機構のない写真で表現すれば、実は人間は脳の中でそれを同じものとして認識するように処理しているのだということが明確になるのである。神経生理学や脳科学が進展し、美術史家との共同研究や、アーティストの知覚的分析が盛んになった現在まで木下が生きていれば、自身の表現をもっと科学的な視点でも見直したかもしれない。
さて、最後の章が1982年から94年にかけて制作された抽象的な絵画のシリーズである。その前段階として、紙の折りのような線をパステルで描くシリーズがあり、それらが油彩に展開していくことになる。おりしも、80年代は絵画の回帰といわれ、海外ではニューペインティング、日本でも「関西ニュー・ウェイブ」のような表現主義的な絵画や彫刻が盛んになり、木下の作品もその中に混ざるが、方法としてはまったく逆といってよい。
1982年の絵画へと転換した記念碑的作品《‘82-CA1》では、認識の有り様ではなく、存在そのものを描こうとしたという。画面に塗りこまれた絵具を拭きとる手法によってカンヴァスという平面と、絵具の色面を等価に扱う絵画を制作する。描く/消すという一見相反する行為によって、その下のカンヴァスという平面、物体が浮かび上がるわけである。単なる下地ではないというわけだ。
この手法は、さまざまな描くストローク、消すストロークによって、バリエーションを生んでいくが、興味深いのは《’88-CA487》のように、次第に水墨画的な様相を見せてくる点だろう。長谷川等伯の《松林図屛風》のような雰囲気も称えている。この作品は油彩だけではなく、水彩でも描かれており、同じような感覚であったことがわかる。
しかし、同様の方法論でありながら、治療のために訪れたロサンゼルスで描いた作品は、メディウムがアクリルであるということもあるのか、湿り気のないポップな雰囲気になっている。本人も気候の影響を受けたというが、まさにコンセプチュアルなものも、風土や文化的慣習に大きく左右されるという証拠でもあるだろう。もし木下が、多くの異なる場所で制作していたらどのような作風になっていたのか想像が膨む。
中止となったミュンヘンでの個展の際には、空間全体を覆うインスタレーションのマケットも制作しており、空間を活かした作品を展開する力も十分あったことだろう。越智裕二郎、竹村楊子によるインタビューでは、日本では絵画を描く前にメディテーションをして精神を鎮静してから描いていたが、ロサンゼルスではその必要はなく気軽に描けたとも語っている。木下の奥にある精神性が、今後どのように深まる可能性があったのかも気にかかる。辰野登恵子とも交流があったとのことだが、木下は間違なく、辰野とは異なるもう一つの軸になっていたことだろう。本展によって、木下の伸ばした木を誰かが繋いでくれるに違いない。