生と死をつなぐ、はざまの息吹
麥生田兵吾 展「色堰き空割き息返かかか」
会期:2023年8月19日 (土) ~9月18日 (月・祝)
会場:京都芸術センター ギャラリー北・南
2023年8月19日 (土) から9月18日 (月・祝)まで京都芸術センターで、麥生田兵吾の個展「色堰き空割き息返かかか」が開催されている。京都芸術センターが、実績を積み重ねてきた中堅アーティストを個展形式でとりあげる「FOCUS」というシリーズ企画の5回目にあたる。麥生田の名前は、関西のさまざまなアーティストの展覧会の記録撮影のクレジットでよく出てくるのでご存知の方もいるかもしれない。麥生田や同じく関西在住の顧剣亨などは、展覧会や作品の記録撮影をしながら、自身の制作も行う写真家、若手アーティストの代表格といってもいいだろう。麥生田はもともと絵画を専攻していたみたいだが、写真のデジタル化以降、絵画や立体と融合が進んでいることに反して、写真そのものが持つ可能性を追求しているように思える。
今回、京都芸術センターのギャラリー北・南で展示された作品群は、一つのモチーフに絞っているわけではなく、被写体にせよ、場所にせよ、さまざまなものが撮影されている。しかし、そこには通底しているものがあるように思える。麥生田は、2010年1月より、自身が毎日撮影した写真をその日のうちにウェブサイトにアップするシリーズを続けているという。つまり、すでに13年以上続けているということになる。「pile of photographys」と名付けられたそのシリーズは、ブログ形式になっており進行形で作品を見ることができる。まさに、写真の山(重なり)といっても過言ではない。
もう一つ、「人工的に作られた感性」などを意味する造語「ArtficialS」を制作の軸として、さらに「眼の体験」「メタファー」「他者あるいは超他者」「制度化された風景」「生/死」といったテーマを抽出し、個展を開催してきたという。
しかしそれらはテーマやコンセプトとった観念的なものではなく、毎日撮影した写真の記憶や無意識が積み上がってできたものだろう。写真の古典的な形式は、写真家と対象が向き合うことで生まれるものであり、その間にあるものは空気と光である。写真家と対象のの関係をどれほど固定しようが、二度と同じ状態はなく、したがって同じ作品は生まれない。屋外ならばなおさらである。対象やそれを取り巻く光や風、人工物、生物といった、さまざまな偶然的要素が無数に絡み合い結ばれた瞬間を残しているに過ぎないのだ。
それが写真的知覚であり、その知覚の山に何か共通のものを見出すのは、それを見るもう一人の自分自身である。その山から山脈や頂上を作りだすのだ。その意味で、麥生田のテーマは後から発見された無意識の形といってもいいかもしれない。もちろん、現在では写真家と対象の間にあるのが、空気や光ではなく、コンピューターやネットワーク、データベースという場合もあるが、新たに外部環境から取り込もうとすれば、世界の偶然に支配されてしまうのだ。
今回展示された作品群が、どのように選ばれたのかわからないが、それぞれが山脈を形成しているのが鑑賞者も朧気ながらわかるだろう。また、その山脈同士もゆるやかにつながっている。それを見る私たちは、知覚と記憶の山脈を手探りで辿っていくことになる。
ギャラリー南に展示されている人物の写真は、顔を髪で覆っていたり、後ろを向いていたり、手で望遠鏡のように覗いていたりして、はっきりと特定の誰かと認識することは難しい。男子学生や女子学生などを撮影した写真も、全員が背中を向けて集団で固まっており、区別するはできない。コロナ禍でマスクによって人を覚えられなくなったように、実際に会っているにもかかわらず顔の全体を見ていないと、判別したり記憶に残りにくい。隠された部分は、自分の記憶で補完しているに過ぎない幻影なのだ。中央に、ほぼ等身大のサイズで出力された、(おそらく)男性が下、女性が上になって折り重なっている写真があるが、それらも誰なのかはわからない。すべてが幻影のような光景ではあるが、全体的に妙に生々しく、ボリューム感のある何かが迫ってくる。
いっぽうギャラリー北は、照明とポールを使って、写真がダイナミックに構成されている。写真展示は、スティーグリッツ以来、モダニズム的な等価性のもと、視線の高さで等間隔に並べられてきた。しかし、コンセプチュアル・アートの登場によって、現代アートのメディウムの一部になって以降、固有の空間を前提に、配置されるようになった(それとは別に、グラフジャーナリズムを空間的に見せる方法として、「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」展のような展示はある)。今日ではリサーチ・ベースド・アートの隆盛により、よりサイトスペシフィックかつ説明的な展示が増加している。古典的な「写真性」を活かしつつ、空間をあたかも雑誌のように構成的に展示した代表格は、言うまでもなく、ウォルフガング・ティルマンズであろう。
麥生田の場合も、説明的な要素はなく、立体的で迷路のような構造をつくっているところが興味深い。ポールや照明も配管のように剝き出しのまま構成され、内容的にも迷路的といえるかもしれない。ただし、大きな構造としては、 仮設的に組み立てられた三角の壁の中に、カエルや亀などを持ってこちらに突き出している少年少女の写真、外側の壁に、廃墟となっている田舎の家屋の写真が展示されて一つの対となっている。また、天井のコーナーには、人の唇のようにも、古いボールのようみも見える球体を撮影した円形の写真が掛けられ、その下の床には、それが映るように鏡が置かれている。壁には、お墓の1基を白いビニールのようなもので覆った写真、大量に飛ぶ鳥の群れ、火葬場、水の中で空を見上げる若者たち、空中で3人一緒になった飛び込みをする少年たち、鳥の死骸の朽ちていく様子などなど、意味深なものが並ぶ。
一言で言えば、「生/死」と言ったテーマなのかもしれないが、もっと生々しく匂いがあるものに感じられる。「もののあはれ」や無常観といった切なさだけではない。そして「生と死」が反対のものとして扱われているのではなく、生き生きとした状態から病になり死を迎え、死体が朽ちていって墓に至る過程を描いた『九相図』のように、連続性をもって捉えているように思える。三角形の囲いの中は、少年少女と小動物の生き生きとした姿を展示しているが、囲いの裏の壁には、誰も住まず朽ち果てていく家が展示され、上の段は天地を逆転させている。大きく引き伸ばされた家の写真は、老朽化が進み、屋根に穴が開き、天井からは光が漏れると同時に、床には雪が積もっている。
空に飛ぶ鳥、水の中で空を見上げる少年たち、飛び込んでいく少年たち、鏡に映る皺がれたボール、そして火葬炉の前室。まるで現代の『九相図』である。そう考えると、タイトルの「色堰き空割き息返かかか」というのも、この世が空であることを示した「般若心経」の隠喩に思える。
麥生田は、「「色」は私たちが認識することの出来る対象を指し、「空」は固定的な実体を持たないために、私たちが捉えることができない存在を意味する」と記し、色が放つものを堰き止めエネルギーを蓄えることと、意識化できない空を見据えて割く、その結果、オノマトペ(擬態語)を汲み取る「息吹」を取り戻すと説明する。そのオノマトペは、「般若心経」の最後の意味をなさない最後の呪文(ギャーテーギャーテー…)の部分に通じるところがある。
しかし、日本語において色は「色は匂へど 散りぬるを」というように、視覚的なものといよりも、むしろ嗅覚的なものであった。生命の存在を強烈に感じるのは、視覚ではなく、むしろ嗅覚である。その根源的でマルチモーダルな感覚こそ「色」といえるだろうし、麥生田が撮影しているものは、視覚を超えたもののように思える。
同時に、目には見えないけども、そこにある関係性、因果のようなものを捉えようとしているといえるかもしれない。その言語化できない状態を見たとき、私たちは言葉にならない音を自然に発声してしまう。それが麥生田の狙いと言ってもいいかもしれない。そこで私たちは呼吸し、いま生きていることを感じるのである。
初出:『美術評論+』2023年9月14日公開。