文字以前の文字、形以前の形を描く
黒瀬正剛 作品集出版記念展「Lines 」
会期:2022年8月6日(土)〜9月18日(日)
会場:LVDB BOOKS
先日、生駒山麓にアトリエを構えている友人の画家、黒瀬正剛のアトリエを訪ねた。生駒に移住したいという別の友人がおり、彼にはアトリエが欲しいという夫人がいるとのことなので、それならすでに実践している現場を見た方がいいと思ったからだ。
黒瀬のアトリエは、近鉄生駒駅からほど近いところにあり、窓からは周囲が一望でき、大阪平野と奈良盆地の谷間にある生駒という地理がよくわかる。矢田丘陵と生駒山系に挟まれた空は、雲がたなびき、繊細なグラデーションを描いていた。山麓は遠くから見ると霧で隠れることもある。それはあたかも「山水」の中にいるようでもある。そこが日本の山岳信仰の祖である、役小角や行基、空海が修行した場であることを考えると、あながち嘘でもない。黒瀬はその気を存分に感じて制作をしている。
黒瀬は、成安造形短期大学でイラストレーションを専攻し、現在は抽象画を描いている。その手法は、木や和紙を染めて艶止めした淡い色彩の下地をつくった上に、アクリル絵の具を書道用の筆などで描いていく。描かれたものは、具体的な何かではなく、文字になる前の文字、形になる前の形といったイメージだ。それを墨ではなく、色彩のある図と地で描いているので、絵でもあり書でもある(あるいはそのどちらでもない)、画と賛が混ざり合ったもの、と考えてもよいだろう。
その絵は、フランスの詩人であり、画家であるアンリ・ミショーを想起させられる。ミショーは、戦後フランスの抽象表現主義的な運動、アンフォルメルの先駆けとなり、その作品は詩と絵が統合されたものといえるだろう。シュールレアリスム的な方法ともいえ、ジャクソン・ポロックよりも先行している。しかし、黒瀬は中国の「書画同源」の考え方に近いという。中国や日本においては、書画は分離されたものではなく、芸術としての優劣はなかった。
しかし、明治以降、西洋絵画やアカデミーの考え方が輸入され、書は一段低く落とされ、絵画は、洋画と日本画に分けられた。日本画の中でも、明治までの文人が描いていた文人画、南画は、美術学校の体系から排除された歴史がある。それ以来、同じルーツをもっていた書画は、別の道を歩むようになった。
黒瀬は、幼い頃、書道(習字)を習っていたとのことだが、今日、書道教室において、水墨画を教わることはほとんどないだろう。また、美術・芸術大学においても、水墨画を習うことはほとんどない。江戸時代までの絵画の流派は、フェノロサや岡倉天心によって、近代的な「日本画」に上書きされてしまったからだ。
そして、洋画から派生する、現代美術における戦後フランスの抽象表現、戦後アメリカの抽象表現として、アンリ・ミショーやジャクソン・ポロックを見るのである。しかし、そこに日本の影を見るのも当然といえよう。ミショーやポロックの絵画には、書画の要素が多分にあるからである。ミショーは墨の作品も描いており、意識的であったかもしれない。ポロックははっきりとした書の影響は確認されていないが、数字や文字を描き込む作品もあり、図と地をフラットに描くと同時に、文字と絵を統合させる意図はあった可能性はある。
しかし、フランスやアメリカと違って、象形文字を持つ日本人や中国人が、彼らの抽象画に同じ「ゲシュタルト」を見るわけではないだろう。つまり、同じ絵を見ながら、別の言葉やイメージを連想するのではないか。それは、母語の違いによって動物の声を別の発音で捉えることに近い。絵と文字が融合し、図と地が絶えず入れ替わるような絵画の地平に降りたとき、そこに見えてくるものは、実は母語の違いや個人個人によってまったく違ったものなのだ。
しかし、黒瀬は、その無意識の次元のさらに奥にあるもの、東洋的に言えば「気」に注目している。中国5世紀末の南斉の画家、謝赫が著した『古画品録(こがひんろく)』の中に、「画の六法」と言う絵を描く上での要点が挙げられているが、その第一が気韻生動である。気韻生動とは、万物を成り立たせている気を捉え、絵の中に生き生きと表現することだ。
それを表すにあたって、黒瀬は色に注目する。水墨には色はないが、「画史の祖」と称される唐代の絵画史家、張彦遠が『歴代名画記』において、殷仲容について「墨は五彩を兼ねるが如し」と評したように、その微細な濃淡や筆運びによって、複雑な質感や色彩を表現することができる。
いっぽうで、黒瀬がシュタイナーの色彩の考察を例に挙げるように、ゲーテから流れるその思想は、色彩は並べることで、お互いを呼び起こしたり、反発したり、近づいたりする、関係性のメディウムであるということである。それは物質から霊性を導くメディウムでもある。黒瀬による、濃淡を生む筆運びと、下地の色によって、気の動きは、よりダイナミックに可視化されるだろう。
水墨や書画の抽象性は、日本の前衛絵画において、ずっと見え隠れしていたものである。具体においても、もの派においても、あるいは岡本太郎においてもそうだろう。それは日本語と言う母語や漢字を基盤にしている以上、避けることはできない。色彩においては、人類共通の色彩語があるとされるが、それもヨーロッパ言語や世界観で解釈されたものに過ぎない。自身では詳しく述べていないが、黒瀬が工夫を凝らした絵肌、マチエール、質感こそ気を満たすためのメディウムなのかもしれない。
今回、2008年から2020年までの創作を『Dots』、線をテーマにした近作を『Lines』としてまとめ、2冊組の作品集を出版した。出版記念展の会場となったLVDB BOOKSは、空襲を逃れた大阪市内の民家で、天井にまで積まれた新刊書と中古書、写真集、画集が処狭しと並んでいる。黒瀬の絵は、まさに文字以前の文字、形以前の形として、それらのエネルギー、気を可視化しているようでもあった。