地域性と日常性への転回と美術への回帰 国際芸術祭「あいち2022」三木学評

国際芸術祭「あいち2022」
会期:2022年7月30日(土)~10月10日(月・祝)[73日間]
主な会場:愛知芸術文化センター、一宮市、常滑市、有松地区(名古屋市)

先日、あいちトリエンナーレから体制を一新し、再スタートした国際芸術祭「あいち2022」に足を運んだ。と言っても、今回周れたのは、4会場ある内で、名古屋市にある愛知県芸術文化センターと一宮市の2会場のみで、しかも全作品を見られたわけではないので、ここで述べるのはその上での感想にしか過ぎないことを予めお断りしておく。

今回、重要なのは、あいちトリエンナーレと何が変わって、何が変わらないかだろう。2010年から始まり、2013年、2016年、2019年と計4回9年続いたあいちトリエンナーレは、それなりの成果を上げたと思う。問題があったとすれば、大きな「理念」がなかった、あるいは県民に共有されていなかったことかもしれない。あいちトリエンナーレは、もともと2005年に開催された愛・地球博こと愛知万博の一応の成功を受けて、それを継承する祭りとして開始された経緯を持つ。

万博と芸術祭の歴史は、意外に密接で、一番歴史の古いヴェネチア・ビエンナーレは、地域振興策として、万博をモデルに始まっている。だから国代表という形式が残っていて、古い参加国は「パヴィリオン」を持っているのはそのためだ。それと比較して、戦後、ドイツのカッセルではじまったドクメンタも別の軸で大きな影響力を持つが、戦前のナチスが開催した退廃芸術展の反省を受けて開始されていることもあり、「表現の自由」が大きな理念になっている。

あいちトリエンナーレは、大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭のような地方の観光目的ではないことから、都市型としてドクメンタと比較されてきたりしたが、基本的にはそのような確固たる理念がもともとあったわけではなく、むしろヴェネチア・ビエンナーレの方が近かった。第1回目のコンセプトは、「都市の祝祭」となっており、まさに「祭り」こそが自己目的であり、テーマであったといえるだろう。2013年は、東日本大震災を受けて、「揺れる大地」というコンセプトであり、芸術監督が大きな権限を持ち、社会的な背景を取り入れるという方向性が打ち出された。その時は、建築史家の五十嵐太郎が芸術監督に就任しており、多数の建築家が参加し、アートと建築が一つのテーマであった。

2016年は、「虹のキャラヴァンサライ」というコンセプトであり、写真家、批評家の港千尋が芸術監督に就任し、映像作品や人類学の成果を取り入れた作家が多く招聘され、アートと人類学(旅)が一つのテーマとなっていたといえる。2019年は、ジャーナリストの津田大介が芸術監督に就任し、「情の時代」と言うコンセプトであったが、アートとアクティビズム、社会運動が一つのテーマであったといえよう。

つまり、幅広い知見を持つ別のジャンルの専門家が芸術監督に就任し、拡張していく現代アートの表現を取り入れるというのが、実質的にあいちトリエンナーレの伝統となっていたといえる。しかし、前回、大きな社会問題となった。それ自体の是非はここで問わないが、名称、体制ともに変更せざるをえなくなったというわけである。

新たに国際芸術祭の組織委員会が立ち上げられ、大林組会長の大林剛郎が会長に就任、委任する芸術監督の条件として、先進性、祝祭性、地域の魅力の向上、複合性、継続性などが挙げられた。さらに、2022年度においては、付加的な条件が付与され、危機管理等の即応力、発信/コミュニケーション力、発展継続性、多様性・新鮮さ、国際性が求められた。このような高い要望を満たす芸術監督を選択するのは難しいが、数少ない適任者といえる片岡真実が選ばれることになった。片岡は、森美術館の館長に加えて、国際美術館会議(CIMAM)の会長であり、国際展の芸術監督やキュレーターの経験も豊富で幅広い国際的なネットワークを持っているので、これ以上ない人選だったといえるだろう。

片岡が選ばれた時点で、大きな方向性はできたといえる。すなわち、キュレーター専業者の選択である。あいちトリエンナーレでは、先に述べたように、別のジャンルの専門家が芸術監督となり、その下で専門のキュレーターが支える構造になっていた。そういう意味ではより専門性が重視されたといえる。さらに、片岡は国際芸術祭「あいち2022」のテーマ・コンセプトとして「STILL ALIVE」を打ち出した。副題は「今、を生き抜くアートの力」である。

「STILL ALIVE」というテーマは、愛知県出身でニューヨークを拠点に活躍したコンセプチュアル・アーティストの河原温の作品シリーズである、電報で自身の生存を打ち続ける「I STILL ALIVE」から着想を受けている。コロナ禍において、現在を生きること自体がハードな時代になり「今」が重視された形だが、それは基本的に「未来」をテーマにする万博とは異なる路線が明確に打ち出されたともいえる。さらに、会場を愛知芸術文化センターに加えて、一宮市、常滑市、有松地区(名古屋市)を選んだ。これらは、いずれも愛知の地場産業がある街で、街の外形にもその特色が現れている場所だ。

すなわち、一宮市(尾州織)、常滑市(窯業)、有松地区(染物)だ。常滑は、INAX(現・LIXILの前身の一つ)の本社があったことからも、知られているかもしれないが、一宮市や有松は、愛知県外の人はほとんど知らないかもしれない。これらは愛知県人からすれば、非常に納得ができる選択らしく、自身も愛知県出身である片岡ならでは判断といえるだろう。

都市型と言われていたあいちトリエンナーレは、名古屋市の愛知芸術文化センターに加え、例年、名古屋市美術館、さらに名古屋の街中が主な会場だった。それに、愛知の別の地域がサブ会場のようになっていたが、特に伝統的な街並みや地場産業、伝統が残るという観点ではなかった。今回、名古屋市と連携事業ではなくなったという行政的な問題、コロナ禍での地域、地元の見直しもあり、地域の魅力を発見するという、地域アートプロジェクトとしての芸術祭に舵を切ったといってよいだろう。

さらに、「今」という観点は、言い換えると「日常性」とも読み取れる。ただし、パンデミック下や災害時は、平時の日常とは異なり、それだけで心理的、物理的負荷がかかる。さらに、今年はロシアによるウクライナ侵攻、世界的な熱波や異常気象が加わり、日常がさらに特別なものになった。

今回、河原温の「I STILL ALIVE」を端緒にした、アートによるサバイバル、生き抜く力を見直す意味合いはさらに強くなったといえよう。現代アートでは、日常性は大きなテーマであり、日常性と言葉を使ったアーティストの作品が、芸術祭自体の骨格になっている。まとめると、都市から地域、祝祭性から日常性、横断性から美術の本流というように、新しい国際芸術祭の方針を打ち出したといえるだろう。

会場の役割分担としては、愛知芸術文化センターには、コンセプトを体現する作家、特に言葉、時間、身体等をテーマにした作家を割り当て、地域性の高い一宮市、有松地区、常滑は、サイトスペシフィックな展示ができる作家を割り当てたといえるだろう。

愛知芸術文化センターでは、愛知県出身の河原温、同じく荒川修作(+マドリン・ギンズ)に加えて、フルクサスの塩見允枝子、マルセル・ブロータスなどの物故作家を含む美術史的評価の高い作家を源流として位置づけ、そこから反復とさまざまな変奏が生まれるという仕掛けになっている。それはまるでミニマル・ミュージックのようだが、それがまさにそのような意図であることは、パフォーミング・アーツの公演の中に、スティーヴ・ライヒがはいっていることからも明確だろう。

また、一宮では、塩田千春が、元毛織物工場を使って、工場に残る機械や糸巻きの芯と、一宮市の毛糸を融合させて、場所の記憶を再生させる印象的なインスタレーションを展開していた。オリナス一宮で展示した奈良美智は、元銀行建築の天井の高い空間に入れ子のようなブースを作り、現在の世界の状況を憂う絵画や、彫刻作品を展開していた。こちらは、奈良が名古屋で大学時代を過ごし、ゆかりが深いことが大きいだろう。その他、建築や空間の特徴がある場所での展示は、地域性が強く打ち出されていた。残念ながら、豊島記念資料館の遠藤薫の展示は、機材トラブルのため休館、尾州の老舗毛織物メーカーの元工場、国島株式会社のツァオ・フェイは、ルートから遠く、フェーン現象の余波で暑すぎてとても歩けなかったので断念した。

筆者は、あいちトリエンナーレ2019やコロナ前の、日本中が芸術祭で活況を呈している中、共編著した『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020年)に寄稿した「日本におけるアートの居場所のキュレーション」において、このブームはもうすぐ終わること、その後は、祭りではなく、非日常と日常の間の「遊び」が重要になる、と指摘していた。もう少し遊びの要素があれば、国際芸術祭「あいち2022」は、まさにそれを体現するような方向性を示していると思えた。

ただし、地域性に舵を切ったとき、交通の便は気になる。一宮市はさすがに広く、愛知県外から徒歩で周遊するのは困難だったというのが率直な感想だ。宿泊して周遊してほしいということだろうが、もし宿泊したとしても、愛知は基本的にドライバーのために町がつくられているため、タクシーを使わないと厳しいだろう。バス停からも遠く、さらにタクシーは2回止まってくれなかったことも付け加えておきたい。7月、8月は暑すぎて、歩くことはほぼ不可能といってよい。

次回も愛知の様々な地域の特色のある町が会場に選ばれる可能性があると思うが、県外の訪問者に対してどのようなホスピタリティを示せるかは今後の課題だろう。後、今回、名古屋市美術館や名古屋の街中の会場がなかったことも大きいかもしれないが、日常性が色濃く出され、祝祭性があまり感じられなかった。今回に関しては方向性としてよいと思うが、基本的にお祭り好きな愛知県民に継続的に支援され、愛されるためには、その点をどうするかも課題になるのではないだろうか。

補足すると、それぞれのアーティストに対する作家・作品解説は簡潔でわかりやすく、美術を知っている人じゃないとわからない言葉遣いなどなく、お手本のようなものであった。片岡の丁寧な姿勢がうかがえたし、展覧会としてコンセプトと展示が矛盾なく、綺麗にまとまっていた。また、愛知県出身のアーティストと国際的なアーティストを美術史的にもうまくつなげ、さらにその隙間に、あまり知られてないアーティストも配置し、多様性やジェンダー・バランスも配慮されていた。大きな問題があった後、その混乱を収め、洗練された形で展開したということを考えれば、もちろん及第点以上の芸術祭であったことは言うまでもないし、これからの大きな礎になるだろう。

三木 学
評者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究者、ソフトウェアプランナーほか。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹─色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。

Manabu Miki is a writer, editor, researcher, and software planner. Through his unique research into image and colour, he has worked in writing and editing within and across genres such as contemporary art, architecture, photography and music, while creating exhibitions and developing software.
His co-edited books include ”Dai-Osaka Modern Architecture ”(2007, Seigensha), ”Colorscape de France”(2014, Seigensha), ”Modern Architecture in Osaka 1945-1973” (2019, Seigensha) and ”Reimaging Curation” (2020, Showado). His recent exhibitions and curatorial projects include “A Rainbow of Artists: The Aichi Triennale Colorscape”, Aichi Triennale 2016 (Aichi Prefectural Museum of Art, 2016) and “New Phantasmagoria” (Kyoto Art Center, 2017). His software projects include ”Feelimage Analyzer ”(VIVA Computer Inc., Microsoft Innovation Award 2008, IPA Software Product of the Year 2009), ”PhotoMusic ”(Cloud10 Corporation), and ”mupic” (DIVA Co., Ltd.).
http://geishikiken.info/

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