分別をテーマにした色彩の比較文化論
本書は「色彩論」を研究対象とし、芝浦工業大学で「色彩コミュニケーション・デザイン研究室」を開室している著者による比較色彩文化論といってよいだろう。著者が「色彩文化という学術領域は、芸術学、人類学、歴史学、言語学、心理学の融合」(p.14)であると述べているように、この横断的、学際的な分野を体系的に語れる人は多くはない。
著者は、アルバート・H・マンセルによる『色彩の表記』(日髙杏子訳、みすず書房、2009年)やブレント・バーリンとポール・ケイによる『基本の色彩語 普遍性と進化について』(日髙杏子訳、法政大学出版会、2016年)など、20世紀の色彩論の基本文献の翻訳にも携わっていることもあり、今まで日本で咀嚼されていなかった課題を拾い上げている。その上で、多くの学術文献を参照したり、レインボーフラッグやブラック・ライヴズ・マターといった現在進行形の色彩をめぐる差別とその「抵抗運動」を、近年のソーシャルメディアの動向を踏まえて解説しており、優れた文化批評にもなっているのが本書の特徴だろう。
色彩論の基本である「色を分ける」ことと、「色で分けること」ということを通じて豊富な例を挙げながら、複雑な社会に潜む色彩分類の核心に迫っていく記述はスリリングだ。近代色彩学が、ニュートンのプリズム分光から始まったように、「色を分ける」ことが色彩論の基本になる。そのため、東西の文化が虹のスペクトルをどのように分けてきたのかから追跡は始まる。それはLGBTQのシンボルとされるレインボーフラッグにもつながっていく。
そもそも色はスペクトル、連続的に変化していくものなので、どこで分けても、分けなくてもよい。もし初めから分かれているものだったら、混乱や誤解は起きないだろう。その線引きにルールがあるのか、ないのか。文化によって分け方や数が違うのはなぜか。そして、分け方はどのようにその文化で用いられてきたか、色名、基準、環境・感覚などの観点から明らかにしていく。
著者が、色彩の分類の基準を諸説レビューしながら解き明かしたいという「欧米の色彩の分類と人種差別の論理には、共通点・類似点があるのではないか」(p.13)という仮説は、本書を読むと納得するものがある。
著者は、日本の生まれ育った後、アメリカで暮らし、色彩文化の違いを目の当たりにしてきた。誰でも海外に行けば、色彩文化の違いに気付くが、それは大航海時代の後、産業革命が起きて世界中を探検したり植民地化してきた西洋人も感じてきたことだ。そこで生まれた学問が、人類学や言語学であるが、色彩はその時から主要な研究対象だった。
当時の考え方は、ダーウィンの進化論の影響を受けて、未開から文明という進化の軸が、過去から現在という時間軸と、未開社会から西洋社会という地域の軸に当てはめられていた。過去から現在は文献調査で、未開社会、つまり非西洋社会は聞き取り調査になるのだが、その中で感覚と言語をつなぐ色彩は、主要なテーマであった。
最初は色の名前があるかどうかで判断し、色が少ない場合は、色自体が見えていないと判断されていた。その後、道具による色覚調査などが用いられ、見えているけども、色名がないことが分かってきた。遺伝的に色覚が獲得されたわけではなく、未開社会と文明社会に知覚の違いはなく、文化の差の問題とされるようになった。ただ、色覚ではなく、社会や言語に進化論が当てはめられたり、言語的相対論と言われ、異なる言語体系を持つ民族は知覚や認識も違うため、翻訳は不可能という極端な立場が生まれていった。
そこに、人種や言語にかかわらず、同じ意味を表す色彩語の場合、焦点となる位置(焦点色という)はほぼ同じであり、普遍性があること、さらに文化が進化すると、色彩語が増えていき、その順序と段階には法則があるとしたのがバーリンとケイの『基本の色彩語』である。彼らの理論では、7つの段階を経て11色の「基本の色彩語」が生まれるとした(その後、研究は進み「基本の色彩語」は6色、進化は5段階という報告が紹介されている)。ここで色覚だけではなく、言語にも翻訳可能な普遍性が示されたが、言語内で進化の理論は残された。
しかし著者は『基本の色彩語』を翻訳した経緯上から問題点を挙げる。バーリンとケイはマンセルカラーチャートで色彩語の焦点色と範囲を示すよう被験者に指示したが、白熱灯のような照明が使われており色温度が低かったり、1部族だけ太陽光下で調査したため色温度が高い場合があったという。色温度が低いと赤みがかかる。照明には演色性があるので、そもそも見え方が違うのではないか、白熱灯のような照明を使用したのは西洋人の嗜好によるものではないか、という疑問である。つまり最初からバイアスがかかっている可能性を指摘している。
また、マンセルカラーチャート自体、3次元の色空間を便宜上2次元にしたものであるし、色を色相・明度・彩度の三属性で分けるのも西洋人的なため、それ自体が客観的ではないということも指摘されている。色の三属性ではない分類の例として、著名な人類学者レヴィ=ストロースの『野生の思考』でも言及されているフィリピンのハヌメオ族による乾いている、湿っているという湿度による色彩分類を紹介する。乾季雨季がある気候が、見た目の色だけでなく、質感にも繊細にこだわる美意識や感性にも影響を与えているのではないかと著者は指摘する。
この意見には、まったく同意で、私もマンセル表色系を含む色の三属性による色空間をデジタル化し、工業製品や芸術作品の色彩分析をしてきたため、その限界についても感じてきた。特に、日本のような手触りや材質などの質感を重視する文化の場合、色相・明度・彩度の三属性の色空間では分析できない。極端な話、空間自体が伸縮している可能性さえある。
そもそも色覚は、「質感或いは材質認知の機能の一部」[i]という指摘もある。光だけの情報で離れた場所から、固いか柔らかいか、新鮮か腐っているか、血色がいいか悪いかなど、生存に関わる情報を把握するためには質感の認知が重要で、色彩はその機能の一部に過ぎないというのは納得できる。むしろ色彩だけを切り離して基準をつくることが、矛盾を内包することもある。
二部では、「色で分ける」ということテーマに、食品や身分、そして人間をどう分けてきたか述べられていく。ここでも戦争における個人の識別や敵味方を見分けるために発展した西洋の紋章学と、家族の象徴から派生した日本の家紋との違いが語れられる。しかし、近代化以降に日本でも兵隊の種類が色分けされた。これも西洋文化の輸入がもたらした一つの影響だろう。
さらに、もっとも今日まで続く問題は人種差別であり、そこにおいて色が果たす役割は決定的である。Colorは色・色彩だけではなく、有色人種という意味を持つ。純粋な白人を進化した種としてみなし、劣った有色人種と混ぜないことを目的につくられたのが優生学である。筆者は、「欧米の色彩の分類と人種差別の論理には、類似点がある。これまで欧米で発達した表色系では、色彩に順序や序列をつけ、色空間の極において白色は上、黒色が底辺に置かれてきた。そしてその背景には架空の概念に近い「純粋な色(純色)」の存在が仮定されていた」(p.23)と述べる。つまり、科学的、客観的と思われている基準自体にも課題があるのだ。
ナチスのユダヤ人への迫害が、アメリカの人種差別法を参考にしたように、西洋社会の根底にある差別意識は、色彩論や色彩学にも流れている。人類の持つ普遍性と、多様性をどのようにどの様に担保すべきか。進化の尺度の見直しも必要だろう。「色で分ける」ことの負の歴史は、現在も続いている。その「抵抗運動」が、ブラック・ライヴズ・マターであり、レインボーフラッグでもあるだろう。分けられた色の認識を変えること、新たに「色でつながる」ことが、新しい色彩文化になるだろう。
著者は、私たちは成人になってからでも色彩感覚が変わる例として、ゴッホがオランダ、パリを経由して、アルルに移住してから色彩豊かな絵画に一変したことを、色空間に絵画の色をプロットして示している。ゴッホだけではなく、印象派から新印象派、ポスト印象派、フォーヴィスム、キュビスムに至るまで、南仏や北アフリカ、南島への移動がもたらした変化は見逃せない。この時期の画家の移動と色彩表現の変化は、筆者もマンセル表色系の色空間にプロットして何度か取り上げている。いずれにせよ、我々は成人しても変わることができるということを雄弁に示している。
本書の最初の章には虹のスペクトルと、音階や音色を当てはめる例が出てくる。つまり、色彩には共感覚のような感覚の多様性も含まれているといってよい。筆者は画像の色から音楽を生成するアプリ『mupic』の開発に携わっている。そのアプリの機能の向上をふまえて、著者の研究室と共同研究を行い、その際、音色と色のイメージの調査を行ったことがあるが、日本人と外国人の間にもある程度の共通点が見受けられた。そこにも普遍性と多様性の両面が含まれていると感じた。
また、本書にも登場する紋章学者・色彩学者のミシェル・パストゥローは、「日本人の感覚では1つの色が青赤、黄色ということよりも、その色が艶消しか、光っているかということの方が大切で、こちらの方が一番本質的なパラメーターということになる」[ii]と述べているように、日本で質感研究が盛んなのも、色の三属性ではない感覚と文化の発展をしているからだともいえる。そのような複数の感覚とつながる色や、質感に含まれる色など、「色でつながる」方法の研究と実践が期待される。
[i] 小松英彦「色と質感を認識する脳と心の動き」『芸術と脳』大阪大学出版会、2013年、p.212。
[ii] ミシェル・パストゥロー『ヨーロッパの色彩』石井直志、野崎三郎共訳、パピルス、1995年、p.126。
参考文献