畠山直哉展「津波の木」
会期: 2022年3月26日~5月8日
会場: PURPLE(京都)
https://purple-purple.com/
京都の美術出版社として、世界的にも知られている青幻舎と赤々舎が組んで、京都に写真を中心としたコミュニティスペース「PURPLE」が誕生した。お気づきのとおり、青と赤を混色しできるのが紫だから、ということだが、意外に交流を表す色としてはいいかもしれない。それに、紫は古来より高貴な人が身に着ける色であり、明治以降、化学染料がつくれるようになってからは、一般の女性にも愛されてきた。
京都市営地下鉄の烏丸御池からは少し歩かなければならないが、二条城前駅からは近く、道程に堀川御池ギャラリー、@KCUA(アクア)もあるので、展覧会をはしごするにもちょうどいいだろう。PURPLEはギャラリーのスペースと、青幻舎と赤々舎が出版している作品集などがそろっており、イベントスペースとしても使われるとのことだ。
最初の展覧会は、畠山直哉展「津波の木」である(私は写真を畠山さんに習っているので、畠山先生ということになるがここでは畠山と略させていただきたい)。畠山の関連書籍は、青幻舎から『LIME WORKS』、赤々舎からは『自然の鉛筆』(2016)、『出来事と写真』(2016)、『まっぷたつの風景』(2017)が刊行されており、両社ともに縁が深い。
畠山が注目されるようになったのは、「LIME HILLS」、「LIME WORKS」という、石灰石鉱山や石灰工場・セメント工場を撮影したシリーズであり、1996年にはそれらをまとめたものが『LIME WORKS』として出版され、1997年に第22回木村伊兵衛賞を受賞している。この写真集は、実は3つの出版社から刊行されている。というのも、1996年には、シナジー幾何学から出版されたが1998年に倒産。2002年にアムズ・アーツ・プレスから復刊されたが、そちらも解散した。そして2004年に青幻舎から復刊、2008年に再復刊されている。数奇な運命をたどったともいえるが、むしろ畠山直哉の初期代表作として、3つの出版社を渡り歩くほどの魅力があるといってよい。
筑波大学在学中に戦後、シュールレアリスムの写真表現を追求した大辻清司の薫陶を受けた畠山は、モダニズムの写真表現を模索し、当初はモノクロの風景写真を撮影していた。それが最初の写真集である『等高線』にまとめられている。
後に、地元の岩手の石灰石鉱山や石灰工場の風景という、自然と人工が相克する風景を、ドキュメンタリーとモダニズム的態度、風景画のような崇高といった美学が融合した形で記録していく。カラー写真が芸術写真として認知され、さらに、大判のカメラによる風景写真にも耐える解像度になったことから、「ニュー・カラー」と言われる写真家がアメリカで登場したこともあり、「ジャパニーズ・ニュー・カラー」の写真家として認知されていく。
石灰鉱山や石灰工場で採掘された原料をもとに作られたコンクリートは、そのまま都心の高層ビルとなる。つまり、削られ掘られた石灰石鉱山の石灰は、そのまま都市に移動し、都市の風景へと変化したということになる。そのような地方の石灰鉱山と都市との反転した新しいトポグラフィーを相互に写しだしていく。それはネガ・ポジの関係でもあるし、「移された風景」である同時に、「写された風景」であるという写真の隠喩にもなっている。世界的な潮流でいうと、1975年、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真美術館で開催された「トポグラフィクス: 人間によって変えられた風景の写真)」展の系譜でもある。
その後、石灰石鉱山の発破の様子を写した「BLAST」、都市の高層階からの地上を撮影した「UNTITLED」、「UNTITLED/OSAKA」、渋谷川と地上を分割した「川の連作」、渋谷川の暗渠を写した「UNDERGROUND」など、都市と地方を往復しながら対照的な写真作品を撮影してきたが、社会性がありながらも、画面のみ、作品のみで判断するモダニズム的なフォームの完成度を求めてきたといってよい。
それが大きく変わるのが、東日本大震災である。畠山の実家は、岩手県陸前高田の気仙川の下流にあり、実母は住んでいた家ごと流されてしまった。沿岸部はほとんど痕跡もないくらい津波で流されてしまったため、そこがどのような場所であったか思い出せない。その際、まるでこのような出来事が起こることを予知していたように、畠山が震災前に撮影していた何気ない日常の風景の写真が記憶の助けになった。「自分の記憶を助けるために写真を撮る習慣がない」[i]と述べていた畠山が、私的な記憶と向き合うことになったのだ。また、被災地の壮絶な写真も、もはやモダニズム的なフォームに収まるものではなくなっている。それらは震災前と震災後の風景を合わせて、『気仙川』という自身の体験をつづったエッセイ入りの写真集にまとめられた。
その後も畠山は岩手に通い、震災後の風景を撮り続ける。震災後の壮絶な風景も時間が経つごとに、瓦礫が整理され、嵩上され、壮大な「土木工事」の風景へと変質していく。それはかつての石灰鉱山の風景と重なっていく。しかし、そのような日々の変化について、細かく撮影され残されているわけではない。スマートフォンによって大量に撮影されていたり、あるいは、Googleストリートビューによって撮影されているかもしれないが、前者は一貫性がないし、後者は記録的なものに過ぎない。
撮ることに自覚的で、一貫した美学のもとに撮影してきた畠山だからこそ浮かび上がる大きな風景の変化が見えてくる。その意味で、震災後、モダニズム的な態度が完全に無効になったかと言われるとそうではない。むしろ、震災後の少しずつだけども、大きな風景の変化を捉えることに畠山の知性と感性、洗練せれた技術が有効であったように思える。
その中で発見されたのがこの「津波の木」であり、「DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに」展で発表され話題となった。それこそ詳しく説明するまでもなく、半分が津波の影響で海水を浴びたり、流された瓦礫の損傷で、葉が生えず、半分が生えているという状態になっている。震災にあった人がこれらの木を見て、心を動かされないことはないだろう。畠山が「半分生きて、半分死んでいる」という心の状態がこれ以上ない状態で現れたときの驚きがあるに違いない。あまりに象徴的であるし、擬人的な風景であり、ロマン主義的ともいえる。
写真におけるシュールレアリスムが何かと問われたら、特に演出的な操作をするわけではなく、現実の風景にもかかわらず、自身や社会の無意識を表している状態を的確に捉えることといえるかもしれない。「事実は小説より奇なり」と言われるが、これが最初から作られたものであれば、シュールレアリスムといっても感心はしないだろう。
ただ、このような震災を体験したものでなくても誰の心も打つと思われる半分生い茂り、半分枯れた木は、いくつかあったはずで、「奇跡の一本松」のように、話題になることはなかった。あったのかもしれないが、それほど世間には知られてはいない。やはり畠山の写真を通して、はっきりとした像を帯び、名づけられ、社会へと認知されたと考えるべきだろう。
この中央に木を置く構図は、実は最初の写真集『等高線』でも登場する。その意味では、畠山のイメージの奥の最初から仕舞われていたものともいえる。ただ、今までと違って感じるのは、このロマン主義的ともいえる写真が、俯瞰的な視点だったり、ミクロ的な視点だったり、現実には見ることができない砕け散った岩を捉えた視点だったりしないことだ。同じ大地に立って捉えていることが、より強く、その場に居合わせたような、感情移入を見るものに起こさせる。これが畠山が震災後に至った一つの境地のようにも思える。
世界で初めての写真集を『自然の鉛筆』と称して出版したのは、フォックス・トルボットである。トルボットに関して、深い関心を寄せ、トルボットが撮影したレイコック・アビーにレジデンスをしたり、『自然の鉛筆』を解題した本を編集したりしてきた。
畠山の作品を見ると、写真という「自然の鉛筆」を使うことで、自然の方から自分の心の奥底にある思いかげないものに語りかけてくることに気付かされるし、それが次の向かう先も自然に導いているようにも思える。このシリーズは、フィルムの在庫が尽きると同時に、自然に幕を閉じるという。フィルム写真が、光による物理的な痕跡であった時代は過ぎようとしている。もはやデジタル写真では、現実かどうかは判別がつかない。それでも自然が語りかけてくることはあるだろう。次に写真が畠山をどこに導こうとしているのか興味は尽きない。
[i] 畠山直哉『ライム・ワークス』アムズ・アーツ・プレス、2002年、p.116
参考文献