ダミアン・ハーストの〈桜〉はどう「花見」すればいいのか?

《この桜より大きな愛はない》(2019年、549☓732cm、個人蔵) 展示風景

英国の現代美術家ダミアン・ハーストの個展が、東京・六本木の国立新美術館で開かれている。展覧会のタイトルは「ダミアン・ハースト 桜」。作家のことを知っている人はおそらく、大きな水槽状のケースの中で牛やサメをホルマリン漬けにした標本のような大型の立体作品のことを思い浮かべることが多いのではないか。2008年に森美術館(東京・六本木)の「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み」展で展示されたのも、その種の作品だった。そのシリーズでセンセーションを巻き起こしたことで知られるハーストが、日本人にとって極めて馴染み深い植物である桜をテーマにした絵を描いたこと自体に意表を突かれたという人も多いだろう。

筆者も正直な話、少々戸惑いを覚えた。〈桜〉をテーマにした作品が展示されることは認識していたものの、ホルマリン漬けのオブジェがアート作品として提示されたときにもたらされるような何かを期待していたからだ。ここではそんな思いの中で、ハーストの〈桜〉にどんな楽しみ方があるのかを、改めて考えてみた。

これは本当に桜なのか?

ハーストは〈桜〉のシリーズを2018年から3年かけて107点を制作した。昨年7月から今年1月にかけて、パリのカルティエ現代美術財団で29点が展示された。その巡回展であるこの展覧会に出品されているのは24点。数を聞いただけでは少なく感じられるかもしれないが、展示されているすべてが大型の作品だ。高さが274〜579cmといえば、スケール感がわかるだろうか。そこには、大きさがもたらすインパクトがあった。

そんな大作群を前に、まず「これは本当に桜なのか?」と考える。この作品の創造に至る過程についてハースト本人が美術史家ティム・マーロウの質問に答えた映像を眺めていると、純粋にただ桜を描いているとは言えないことがわかる。

※ティム・マーロウとのやり取りを収めた映像は、展覧会の公式サイトで公開されている。(会場でも映像を見られる部屋があり、図録にもテキストが収録されている)

 

動機としては、以前描いていた「ベール・ペインティング」という手法による絵画が木のように見えたことに、ハースト本人が言及している。絵の具の粒を置いて画面を埋めていくその手法では、たくさんの色が使われる。色は効果的に使うことで、絵画に絶妙な立体感を生む。モノクロームの写真や映像に色付けをすると遠近感が生まれるのに近い理屈だ。ハーストにおいては、異なる色の絵の具のドット(点)を画面に置いていく「スポット・ペインティング」の作品を制作した経験も、その感覚の醸成を手伝っているようだ。ここで興味深いのは、抽象絵画を描いているのに具象的な風景の創出につながったことだ。一般的な美術史の展開とは逆の現象だからだ。

《山桜》(2018年、二連画、各274☓183cm、個人蔵) 展示風景

ここでもう一度、改めてハーストの〈桜〉を眺め直してみる。桜であることを宣言されているので桜に見えるのだが、近寄ってみればほぼ抽象絵画である。

間近に寄ってみると…

先に挙げた映像で実際に描いている様子を見るのも面白い。ポツポツと絵の具を置いていく様子が映っているうちはまだ普通の画家と同じように思えたが、映像の途中で、立てたカンヴァスに絵の具を少し遠くからぶつける場面が現れた。筆の先に置いた絵の具を、まるで投げるようにぶつけている。「アクション・ペインティング」である。結果として、かなり崩れた形のドットが生まれ、その集合体が、無数に花を咲かせた桜になっている。だから、このシリーズは距離を置いて見たときと間近で見たときの印象がかなり違う。フランス印象派の絵画の手法にも通じる部分はあるが、ぶつけるという行為を経ていることは、理性を通り越した大きなエネルギーを発生させている。見ているとそのエネルギーを浴びることができるのだ。

本物の桜は本当に色が一様なのか?

別の面白さを探ってみる。本物の桜は、普通1本の木の中では、花びらの色は一様である。ところが、ハーストの描いた桜は違う。さまざまな色の花びらが混在しているのだ。色の混在についてもハーストは映像の中で言及しているが、ここではまず、鑑賞者としてどう受け止められるかについて述べておきたい。色が混在しているにもかかわらず、やはり桜に見えるのだ。あるいは桜であることを感じられるというべきかもしれない。おそらくそれは、満開時の桜が持つエネルギーが表現されているからだろうと思うのだが、いかがだろうか。

枝垂れ桜(2022年、東京・世田谷)

ここでふと考えてみたのは、本物の桜は本当に色が一様なのか? ということだ。実際に咲いている桜の木のそばに行って花びらを1枚1枚眺めてみると、色は概ね同じである。一方、太陽光の当たり方自体には意外と場所によって差があり、微妙に色が異なっているようにも見える。ハーストはピンクや白だけでなく、青や黄色の絵の具も使っている。しかし、色の差の存在自体が意外な現実感を生んでいるように感じられる。本物の桜にはない色が使われているのに、感覚的には桜であることに納得させられるのだ。

ハーストが、純粋抽象から出発して「アクション・ペインティング」の手法を使って具象に向かったこと自体が、とても興味深い。ハースト本人にとっても、たくさんの発見があったのだろう。「ホルマリン漬けの作家」というのは、いわゆる「レッテル」に過ぎない。〈桜〉のシリーズを見て、同じ作家の表現にも多様な志向があることを知った。

【展覧会情報】
展覧会名:ダミアン・ハースト 桜
会場:国立新美術館(東京・六本木)
会期:2022年3月2日~5月23日
公式ウェブサイト:https://www.nact.jp/exhibition_special/2022/damienhirst/

 

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評者: (OGAWA Atsuo)

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩美術大学芸術学科教授。「芸術と経済」「音楽と美術」などの授業を担当。国際美術評論家連盟(aica)会員。一般社団法人Music Dialogue理事。
日本経済新聞本紙、NIKKEI Financial、ONTOMO、論座など多くの媒体に記事を執筆。和樂webでは、アートライターの菊池麻衣子さんと結成したアートトークユニット「浮世離れマスターズ」で対話記事を収録。多摩美術大学で発行しているアート誌「Whooops!」の編集長を務めている。これまでの主な執筆記事は「パウル・クレー 色彩と線の交響楽」(日本経済新聞)、「絵になった音楽」(同)、「ヴァイオリンの神秘」(同)、「神坂雪佳の風流」(同)「画鬼、河鍋暁斎」(同)、「藤田嗣治の技法解明 乳白色の美生んだタルク」(同)など。著書に『美術の経済』(インプレス)。
余技: iPadによる落書き(「ラクガキスト」を名乗っている)、ヴァイオリン演奏(「日曜ヴァイオリニスト」を名乗っている)、太極拳
好きな言葉:神は細部に宿り給う
好きな食べ物:桃と早生みかんとパンケーキ

https://note.com/tsuao/m/m930b2db68962

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