風景を受容する風景を描く
原田裕規「Unreal Ecology」展
会期:2022年1月29日(土)~2月27日(日)
会場:京都芸術センター
2022年1月29日(土)から2月27日(日)まで、京都芸術センターにおいて、原田裕規「Unreal Ecology」展が開催された。2017年度から開始された、京都芸術センターの連携事業「Co-program」の一環でもある。「Co-program」には、A「共同制作」、B「共同開催」、C「共同実験」、D「共催」と種類があり、「Unreal Ecology」展はBに相当する。
本展は、採択された原田の企画をもとに、京都芸術センターが企画や制作、展示に協力しながら、共同で開催されたものだ。実は、私は第一回目の「Co-program」のCに採択されて、私たちが開発した画像の色から音楽を生成するスライドショーシステムをもとに、14人16組のアーティストにスライドショー品をつくってもらい「ニュー・ファンタスマゴリア」という上映会を京都芸術センター・フリースペースで開催している。現代アートの作家によるスライドショー上映会は、ほとんど行われたことがないだろう。京都芸術センターのこの連携事業は、コマーシャル・ギャラリーや美術館、芸術祭では難しいタイプの実験的な展覧会やパフォーマンスを実施できる貴重なプログラムである。
原田裕規は、80年代後半~90年代初頭にかけてブームになったクリスチャン・ラッセンを分析した書物を編んだり、「心霊写真」をモチーフにした作品を制作するなど、様々な方法で「風景」とそのイメージの受容に関してメタレベルの批評的アプローチに取り組んでいる。
本展では、3点の映像作品が上映されており、つかみ難い原田の関心や美学が現われていたといえるだろう。2021年に金沢21世紀美術館で開催された個展で発表された《Waiting for》は、Epic Gamesより開発されたゲームエンジン「Unreal Engine」を使用した、人工的な風景が横3つの画面に延々と流されている。「Unreal Engine」は、『フォートナイト』など、著名なゲーム制作だけではなく、宇宙飛行訓練のためのシミュレーションやディズニーなどの映像制作、テーマパークなど様々な用途で使われており、多くの人が知らなくても恩恵を受けているに違いない。Epic Gamesは、2020年にApp Storeに登録していた『フォーナイト』において手数料を回避する独自の決済システムを採用したことで、Appleより利用規約違反を問われてApp Storeから削除され、訴訟に発展して大きなニュースになったので覚えている方もいるかもしれない。
本展のタイトル「Unreal Ecology」の名称は、現在に人工的な映像環境を生成する「Unreal Engine」からも借用されている。《Waiting for》は、デジタル上で生成された非物質、非物理的な映像環境であるが、「Unreal」とは一概に言えない。むしろそちらの方がリアルなこともある。絵画、写真、映像、CGなど、メディアが変化することで変わる意識、あるいは継承される美学などがある。本展のテーマは、そのようなイメージの生態系の在り方の探求といってよいだろう。
《Waiting for》は、3つの画面には、「100万年前、あるいは100万年後の地球をイメージした」というCGアニメーションによる映像が流れているが、まるで壮大な映画やゲーム、恐竜などが住んでいた太古の地球環境、火星などの地球以外の環境をシミュレーションする映像が想起させられる。左の画面には峻厳な山脈に川が流れ、中央の画面には草原の中に湖があり、右の画面はゴツゴツとした岩肌に水がたまっている。それぞれ俯瞰した視点が上空を移動しながら進んでいく。何かが起こる、何かが登場することを予感させるが、一向に何も起こらない。ただ同じような映像が流れるのみである。ただし、映像には音声がついていて、延々と地球上に存在する生物の名前が読み上げられているという。そのナレーションは原田自身によるもので、全部を読み上げるのになんと33時間19分かかっており、3つの映像 もその間流れ続ける。鑑賞者はおそらく二度と同じ生物の名前を聞くことはないだろう。
このナレーションは、生成される映像が「水辺」でありながら、生物がいない人工空間で、実際の「生態系」ではないことの暗示でもあるし、我々が今日において受容している「風景」の表象でもあるだろう。パンフレットには、「ドイツ・ロマン主義の風景画や1960年代のコンセプチュアリズムに通底する「水辺」への関心をモチーフに」したと記されているが、「水辺」は印象派の主題でもある。印象派の場合は、写実からは離れているが、マルセル・デュシャンの指摘する「網膜」、言い換えれば知覚のレベルの関心に留まり、それ以降の高次の精神性については描かれていない。ロマン主義との違いを挙げるとするならば、汎神論や「崇高」といった、精神性の投影であろう。一方、60年代にコンセプチュアルなランド・アートを創造したロバート・スミッソンは、ロマン主義的感性であるピクチャレスクを研究し、今日の芸術祭で多用されている「サイト・スペシフィック」の概念を提示している。
「風景」という概念は、ルネサンス期のヨーロッパに生まれたとされるが、エルヴィン・パノフスキーが近代的な空間概念や精神性の確立と遠近法との関連を指摘したように、遠近法の普及がその要因としてあるだろう。北方ルネサンスを生んだフランドルでは、風景画と並んで、landscape(風景)という用語が現われる。風景画は、プロテスタンティズムによる偶像破壊の影響と宗教画の没落、それに連動する絵画市場の勃興、カメラの前身となる光学機器の発達により、一つのジャンルとして確立されていった。
それ以前は、風景は宗教画の背景にはなってもそれ自体が主題にはならなかった。その後、19世紀のドイツ、ロマン主義の代表的画家であるカスパー・ダーヴィト・フリードリヒは、風景の中に宗教的な寓意や精神性を描くようになる。そのような寓意と精神性を含んだ風景画は、印象派の流行で廃れてしまったが、ドイツに留学経験のある東山魁夷などの日本画家に継承されている。その意味でも、日本画が、山水のような異なる視点や時間が同居した描写法ではなく、西洋的な線遠近法の延長線上にあることがわかるだろう。皮肉な事に日本画を通して、日本人が主体と内面を獲得していった痕跡がわかるのだ。
また、そのようなロマン主義的な風景画の表現は映画やゲーム、エンターテインメントなどで受け継がれているといえる。これは音楽についても同じことがいえるが、ロマン派の音楽は映画やゲームなどと相性が良い。現代音楽のシーンではそのような冗長な表現は消えいってしまうが、大衆的な分野では広く受容されている。
原田は、現代アートの中で展示される機会のなくなった風景画を、「風景画の受容」という観点から再解釈し、「映像」という形式をとりつつ壁面に現出することに成功したといってよいだろう。写真や映像、3DCG、AR、メタバース等が登場している現在、それらの登場以前と同じように絵画を見ることはできない。新しい技術による映像体験によって知覚そのものが変わってしまうし、マーシャル・マクルーハンが言うように、メディア自体が一つの記号であり、メッセージであるため、そこには別の意味が込められてしまうからだ。
観客は、コンピューターを起動した後に表示される「美しい風景」のように、次に何かが起こることを、代わり映えのしないループのような映像を見ながら待ち続けることになるが、実はそれ自体が風景画の鑑賞になっている。同時に今日、PCの起動時や映画の導入などに使用される「待ち時間」としての「風景画」の受容、消費のメタファーにもなっているのだ。
《One Million Seeings》は、「行き場のない写真」と名付けられた、原田によって集められた不要になった他者の写真を、24時間、見続ける映像作品である。直接関係のないそれらの写真に、関係性を見出すというレギュレーションを課し、結ばれたら次の写真がめくられていく。映像作品では、ビルの1室の窓際で、原田自身が大量の写真を1枚1枚眺めている。ビルの眼下には、線路が延びていて、電車が行き交っており、様々な人々の声やパトカーのサイレン音などの環境音が鳴っている。そのような窓の外の風景やサウンド・スケープ(音風景)も入るように、意図的にフレーミングされおり、複数の本来無関係な人々と関係が結ばれるようになっているといえる。
映像に写るプリントされた写真は、私的なもので、現在で言えば他人のスマートフォンの写真を見るような行為であり、元の撮影者と被写体との関係は近い。フィルム時代は、現像代がかかるため、撮影された写真はさらに意識的で親密な関係の可能性がある。しかし、それを見るのは撮影者ではなく、無関係な原田であり、その覗き見的状態を、さらに鑑賞者が覗き見するという、重構造になっている。そうなると、鑑賞している私たち観客の後ろにもカメラがあるのではないかと疑ってしまうが、そのような現在の偏在する監視の視線も意識化させられる。本作もまた写真を撮る、見る、共有するという受容の形態、イメージの生態系の批評となっているといえるだろう。
今回、京都芸術センターの協力を得て作られたという新作《湖に見せる絵(諏訪湖)》は、長野県の諏訪湖に向けて、「絵」を見せるパフォーマンスを記録した映像作品である。しかし、これもまたかなり引きの構図で撮影されており、一つの「風景画」となっている。映像の下には、水が溜められたプールがあり、鏡面反射している。私たちもまた鑑賞するために「水辺」に立たされる。そこには見るものの立ち位置を引かせることで、崇高な風景画を成立させたり、それとは逆に水面の映像に触れたり介入できるような意図が読み取れる。そのような壮大な風景との一体感によって、ロマン主義的風景が感得できるように設計されている。
原田の背後の遠目から撮影された映像には、原田が湖に「絵」を掲げる姿が写しだされている。しかし、その絵は印画紙であり、光に当たると感光して焼けてしまう。その印画紙は、パフォーマンスの後に梱包されて、現像され、会場に「黒い絵」となって展示されている。原田がいつ東西南北のどちらを向いて印画紙を掲げたかわからないが、太陽光と湖面を反射した光が混じって感光された記録といってよい。
このパフォーマンスは、長野県下諏訪を拠点に活動した日本を代表するコンセプチュアル・アーティスト、松澤宥の《湖に見せる根本絵画展》(1967)のオマージュでもあり、その指示書の実践ともいえるものだ。一方で、諏訪湖は冬季に全面凍結した後、氷の亀裂が走りせりあがる「御神渡り」でも知られ、御柱祭で有名な諏訪大社の神々の行き来する場所でもある。つまり、単なる物理的な湖ではなく、神々との対話のようなジェスチャーにも見えてくる。ただし、その映像は汎神論を表すロマン主義的な構図であり、諏訪大社の根底にある縄文や八百万の神々のような多神教的なものではないところが、日本人の内面の葛藤を表しているようでもある。
このように原田は、様々な方法で、風景とそれを表象し、受容されるピクチャー(絵画・写真・映像・CGなど)に介入しながら、イメージの生態系を明らかにし、観客をその渦中に誘っている。そこには近代以降の日本人の心性の生態系も重なり、複雑さが増している。そのような内面に折り重なるイメージの探索と観客へ橋渡しするプロトコル自体が原田による「風景画」の創造でもあるのだ。