誰がアートとその価値を決めるのか?
グレイソン・ぺリー『みんなの現代アート』ミヤギフトシ訳(フィルムアート社・2021年)
本書は、イギリスでもっとも著名なアーティストの一人であるグレイソン・ペリーによる、現代アートの入門書といったところだが、アート界の内部から見た暴露本のようなものでもある。イギリス人特有ともいえる皮肉とユーモア、ウイットに富んだ口調で、ペリーが「不可解で意地悪なサブカルチャー」(p.14)と呼ぶその奇妙な生態系が紹介されている。邦訳では『みんなの現代アート』となっているが、原タイトルは『Playing to the Gallery』であり、「大衆に媚びを売る」といった意味で、Galleryはもちろん観客やギャラリー(画廊)にもかけられている。
本書は、2003年にイギリス現代アート界でもっとも著名な賞、ターナー賞を受賞したペリーが、BBCラジオ「リース・レクチャー」で行った講義が元になっており、同番組始まって以来の人気となったという。ペリーは、陶芸やタペストリーなどによる風刺の効いた作品の他に、異性装者(トランスヴェスタイト)としても知られている。近年では、男性性に疑問を呈した『男らしさの終焉』小磯洋光訳(フィルムアート社、2019年)も話題となった。2015年からはロンドン芸術大学の総学長に就任している教育者でもある。
タイトルからして強烈な皮肉であるが、中身も少しでもアート界を知る人間からしたら、思わず笑ってしまう話が延々と書かれている。しかしその問いはいちいち本質的だ。しかし、ユーモアと皮肉に混じる鋭い指摘を拾い出す前に、煙に巻かれていると思って、この本を放り出してしまう初学者もいるかもしれない。そうならないために少し解説したい。
タイトルをなぜ「大衆に媚びを売る」としているのかが問題で、そもそもアートは、かつては王侯貴族のものであり、近代以降は新興の富裕層のものであった。現代においては、アート作品の価値を左右するのは、キュレーター、コレクター、ディーラー、批評家などのアート内部の人間であったが、美術館の観光化などに伴い、そこに大衆も加わっている。この最後の価値を担う人々に対して「媚びを売る」というわけである。
ペリーは、現在、アーティストにとって最大の称賛は、「ミュージアムクオリティである」(p.40)とする。美術館に作品を収蔵したり、展覧会を開催できる権限のあるのはキュレーターになる。だから、「認定に関わる者たちの相関図のトップに君臨しているのはキュレーター」(p.40)とし、「ドイツ人美術批評家ウィリー・ボンドガルドは彼らを「アートの法王たち」と呼ぶ」(p.40)と紹介している。コレクターやディーラーも市場価値を生み出すことでは権限があるが、参加型アートは商品化されることを拒否しており、市場の判断基準に収まらない。だからそれらは、批評家や「コレクションする美術機関の評価にかてないほど依存している」(p.54)と指摘する。ただし、美術館での動員や大衆の人気は、公的機関である限り免れない。
しかし、大衆の人気が良い作品とは限らない。ペリーは「民主主義は本当に悪趣味だ」(p.54)と述べる。本書は、「大衆に媚びを売る」と言いながらも、回りくどいキュレーターへの媚びでもあるし、アートの認定の権限が大衆に移ることへ疑問でもあるのだ。そもそも大衆の評価によって価値を決定するのなら、映画や音楽、アニメーションなどのポップカルチャーで十分だ。たいていのアート界の人間は、アートを総合的に評価するには、美術史や社会との関係など文脈の理解が不可欠だと信じている。
なぜ大衆の理解が不能な難解なジャンルになっていったのか?第一は、「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」(p.62)であるマルセル・デュシャンが、レディメイドを発明し、アートから「美」「美学」という根本的な評価基準を切り離したことである。例えば、工業製品の男性用小便器を切り離して、台座に横に置き、《泉》とタイトルを付け、別名の署名だけして展覧会に出品した。小便器は象徴的過ぎるにせよ、瓶掛けや車輪と椅子をつないだ作品などもある。
それらを「美しい」と感じる人もいるかもしれないが、デュシャンの意図は、美しさや醜さといった美意識や美学から、アートを切り離し、さらに工業製品を使うことによって、「手作り」である要素も切り離すことだ。否定するというよりも、むしろ、必要条件としないとすることに意味がある。美と個人の創作が必ずしも、アートに不可欠な要素ではないと実証されたことで、アートは、その概念と表現を絶え間なく拡張する宿命を負うことになった。哲学的で難解になる原因もここにある。つまり、何でもアートとなる可能性を秘めており、「アートとは何か」を問うこと自体がアートになったのだ。
2章では、美学や個人の創作から切り離されたアートが、どのように拡張していくかが語られている。アンディー・ウォホールやキース・タイソン、クリスチャン・マークレーなどの試みと、同時に、ハンス・ベルティング(美術史家)、アーサー・C・ダントー(哲学者)、レフ・トルストイ(文学者)、エルンスト・ゴンブリッチ(美術史家)などのアートの定義が並行的に紹介され、ペリーの博識さにうならされる。
その他に、90年代に隆盛した写真については、アートかどうか見分ける方法は巨大さだと指摘する。アンドレアス・グルスキーやジェフ・ウォールのような写真はその典型だろう。マーティン・パーは「高さ2メートル以上、価格が5桁以上であること」(p.86)と定義したという。ただし、それにはエディションという複製可能な写真のプリントを制限することも付け加えられている。
次に、著者は「ハンドバック&ヒップスター」テストと呼ぶ、出で立ちのよいヒップスターと、大きなハンドバックを持った妻、つまり「ふさわしい教育を受けた金銭的に余裕のある、恵まれた地位にいる人びと」(p.89)が凝視するものがアートである可能性が高いとする。さらに、参加型のアートの場合は、行列であるという。著者は「テーマパーク+数独」と称し、「非日常的かつ刺激的な経験の影響と、それが何を意味するのかを問う難しすぎない謎かけ」(p.89)と言う。これほど言いえて妙な表現もないだろう。ここでは人々を不安にさせるような交流の場をつくり、作品の写真や記録すら認めないティノ・セガールや、相互関係をもたらす可能性のある構造体をつくるリアム・ギリックを紹介する。
このように、「何をもってアートとするか?」「どのようなアートが良いのか?」という疑問に対して、アートサークルの承認、民主主義、人気、あるいは写真、参加型アート、コンピューターなどなど様々な外側の要素を一つひとつ上げながら、まわりくどく解説していく。しかし、「何でもあり」な時代において、いずれも決定的要因はない。
3章では、アートがもっていた革命や反抗、目新しさが現在において有効か検証していく。デュシャンは決定的パラダイム変換を行ったが、その前からアートはそれ以前の体制や価値観に対抗するなかで新しくなってきた。しかし、もうすでに「最終形態」になったアートから新しいフォームは見出しづらい。
今はアート自体にそれを求めることができないため、社会や政治の中に求めるようになってきているという。それは最近、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)と言われるものだが、ペリーは「作品の驚きは形式ではなく、政治性や社会性に宿る」(p.124)と指摘する。「アーティストが政治好きなのは、現実的かつ大真面目な話題の力を借りれば、その重大で大真面目な問題を笑われることはないかと考えるからではないか」(p.124)とここでまた強烈な皮肉をいう。さらに「政治性の高い作品が増える中、西洋人であることが信頼獲得において不利であるという考え方が、アート界には確実に存在する」(p.126)と指摘する。
いっぽうで「本物であるとうことー一貫性と誠意、真正さを宿していることーは作品をつくるため、すべてのアーティストに必要な素質だ」(p.126)とするが、それは都市において高い経済効果を持つとし、ジェントリフィケーションにも使われると釘を差す。さらに、革新的で破壊的な効果はもう現代アートには起きないとする。
しかし、最期の章は、自身の自伝を語りながら、いかにアートが素晴らしいのかナイーブな側面を見せる。ペリーは、子供時代、「自分のテディベアを王とする精巧なファンタジー世界をつくり上げ、いざとなったら逃げ込める場所にした」(p.144)という。そして、「The Art Room」という、困難な暮らしを強いられた生徒たちの居場所を提供し、作品づくりのセラピー的効用を具現化している慈善プロジェクトについて紹介する。
そして、「アートの最も重要な役割はその資産価値がもたらすものでも、都市の再開発を促すことでもない。その最も重要な役割は意義を生み出すことに他ならない」(p.146)と説く。併せて、自分の家族や周辺の社会にうまく馴染めない若者にとって、美大がいかにそれを受け入れてくれる存在か強調する。本書では、ペリーは、現代アートを取り巻く状況をちゃかしているが、それが自身の世界を守るための防衛的なものであったことがわかるだろう。最後に、「この本は、アート界のラブレター」(p.172)であり、からかってもアート界がそれを受け止めてくれ、後押ししてくれるとする。「最良のアートは声を失うほどに美しい」「自分には美しいものを探求する義務がある」(p.172)と締めくくる。
ペリーが、「美しさ」から離れて拡張した現代アートを解説する本書で、最期にアートを「美しい」ものとして賛辞を贈るのは倒錯的だが本音だろう。美しさが前提条件でなくなったにせよ、多くのアーティストは美しさと創作の魅力に魅せられて創造を始めたのは間違いない。
日本でも近年勃興するアート市場に比例して、今まで無関心であった企業や富裕層がアートをコレクションしたり、新しい事業を始めようとしているが、どのようなアートが良いのか戸惑うことも多いだろう。ほとんど悲喜劇ともいえるその状況は、日本という脆弱な市場の国だけではなく、本場であるイギリスでも似たような現象があるということが確認できる。わからないことは恥ではない。難解になった理由を知らないだけなのだ。
ただし、ペリーは、アート界とは、「西洋型のファインアート、つまり美学に関連した、あるいはそれが欠如した物品を取り巻く文化のことだ」(p.13—14)と述べているように、日本の価値観とは異なるところも多い。ペリーの精神的な避難所という位置づけも、西洋文化、キリスト教文化と無関係ではないかもしれない。
アート界とは、グローバルに開かれているようであるが、大衆の価値観や民主主義を否定している部分があり、また、西洋以外の国の価値観とは相容れないところもある。完全に開かれた世界ではないことは間違いない。彼らが下手に西洋以外の文化を模倣すると、昨今では文化盗用と指摘される。アートと言っても普遍性があるかは疑わしいのだ。日本でアート市場が大きくなることは大変結構なことだし、ペリーが言うように、アーティストとして生きていける人々が増えることは望ましい。その上で、本書は、コロナ禍で国外との交流が遮断されるなか、私たちの社会にとってのアートとは何か、真剣に考える時期が来ていることを改めて感じさせる。