写真の可能性を追求し続ける雄弁な語り手
今や世界的な写真家になった畠山直哉さんが、各地で行った11本の講演を一冊にまとめたのが本書である。1本はヒューストン美術館(テキサス州、アメリカ)での英語によるスピーチも含まれている。
正確には「写真について話す」ということは承知なことだろうが、擬人的に使っているのは、畠山さんが、徹底してカメラのメカニズムや、写真発明の起源にまで遡り、科学的に、時に哲学的に考察した上で、自身の作品との距離を測っているスタンスが、まるで写真と対話しているかのように思えるからでもあるだろう。本書を読むと、高度なレベルで知識、技術、表現が融合されている、畠山さんの作品に引き込まれる理由もおぼろげながら見えてくる。
勝又公仁彦さんも私も、大阪にあったIMIというアート・スクールで、畠山直哉さんと港千尋さんが担当していた写真講座を受講しており、その時に伺った話題も何度か出てくる。実際、本書の中にはそこでの講義も収録されている。それらが一冊の本にまとまっているといかに深い内容であったか再認識できる。
最初に講義を聞いたのは1996年のことで、畠山さんが木村伊兵衛賞を受賞する前年のことだった。港千尋さんも同じく1997年に『記憶―「創造」と「想起」の力』でサントリー学芸賞を受賞することになる。その後のお二人の活躍はここで書くまでもないだろう。
私の勉強不足もあり、当初は失礼ながらお二人ともあまり知らなかったのだが、対談形式の授業でお二人の知識の深さに面食らったことを鮮明に覚えている。写真でそれほど話すことがあるのかと驚き、その知的興奮は経験したことのないものだった。それは狭小な技術論でも表現論でもない、もっと深いレベルで写真が人類にもたらしたインパクトのような内容だった。
本書でも、フォックス・トルボット、ハーシェル、ニエプスなど、写真発明の頃の人々の話が繰り返し語られ、写真がいったい何なのか?と問うための鍵として使われている。
その射程は、建築写真、芸術写真、報道写真といった写真の中のジャンルのあり方から、カメラのメカニズムと発達史、写真とPhotography、Photographといった言語間の概念の違い、写真家とアーティスト、写真とアートといった写真と表現を巡る問題、そしてアナログとデジタルといった進行形の問題に至るまで幅広い。
読者は、授業を受けていた私たちのように、写真の黎明期と畠山さんの仕事を往復しながら、人々に影響を与えてきた写真の変遷やその奥に潜んでいる科学的、哲学的、歴史的な背景を知ることによって知的興奮を味わうことができるだろう。
本書に収録されている講演は、ほぼ2000年代のもので、発刊されたのが2010年のことである。それはデジタル写真が席巻し、フィルム写真を駆逐していく時期と重なり、また、畠山さん自身にとっても大きな災害となった東日本大震災の前年のことだ。
震災後、畠山さんは、出身地である岩手県陸前高田市を撮影した作品を含めた大規模な個展「ナチュラル・ストーリーズ」を2011年に開催し、2012年に震災前後の状況を写真とエッセイで綴った作品集『気仙川』を出版した。
それらは「世界を観察し深く認識する」という姿勢やモダニズム的な形式で写真を扱っていた震災以前とは少し異なった様相を帯びているのだが、それもまた写真の持つ可能性として引き受けていることがわかる。そして、震災後も畠山さんは様々なところで講演しており、写真との対話を継続して行っている。それらがいつかまとめられた時、本書が潜像している可能性もまたくっきりと浮かんでくるような気がしている。
今なお「見えないものに向かって」制作を進めている畠山さんの成果が見られることを幸福に思うが、本書は同じような思いで作品制作や批評を行っている人々にも開かれている巨大な「問い」でもある。それは読者によって様々な形で転写され、像を結んでいくことだろう。
初出『shadowtimesβ』2015年7月17日掲載