日本の「質感」で勝負した「アート思考」の先駆者「フジター色彩への旅展 オンライントークイベント」三木学×内呂 博之(ポーラ美術館館学芸員)
ポーラ美術館で開催されていた「フジタ 色彩への旅」展の色彩分析を担当し、先日、オンライントークイベントのために収録のために展覧会会場にうかがった。本当は会場でトークイベントを開催する予定だったのだが、緊急事態宣言が発出され、関東の感染者数も今までにない勢いで急増していたため、急遽オンラインで収録し、YouTubeで配信することになったのだ。それはこちらのアドレスから1年間限定で見ることができるので関心のある方は是非ご覧いただきたい。
色彩分析については昨年依頼され、1回目の打ち合わせの時に、ポーラ美術館所蔵の作品を拝見させていたのだが、特に展覧会のテーマとなる、1930年代の色彩豊かな作品は、コレクションになく、開催されてからではないと見ることができなかった。だから、提供された絵画の複製画像からデジタル化したマンセル表色系にプロットして、色彩分析を行ってカタログに寄稿し、展覧会ではその詳細な分析について映像にして上映した。会期中の早い段階でトークイベントをする予定で、その際、現物を見て確認するつもりだったが、緊急事態宣言が続いてなかなか行くことができず、ギリギリになって、オンライントークイベントの映像収録のため会場まで行くことになったのだ。そもそも藤田の作品は、肌を錯覚を使って表現しているのではなく、肌の質感を物理的に再現する方法を採用しているので、行かないとその細かな技法や狙いがわかりにくい。今回、生で見ることで、いろいろと発見もあったので、その点もふまえて補足したい。
藤田嗣治ことレオナール・フジタは、一般的に色彩の画家とは思われていない。ではなぜ「色彩への旅」というタイトルがついているのか。それがこの展覧会の肝である。「色彩の画家」「色彩の魔術師」と称されるのはたいていマティスである。フォーヴィスムと言われ、色彩と装飾模様を自在に使いこなしたマティスは、今日に至るまで画家に影響を与えている。50年代以降の「カラー・フィールド・ペインティング」もマティスの色彩表現の開拓の成果の上にのっている。個人的な経験から言ってもマティスを嫌いだったり、認めていない画家・評論家を聞いたことがない。マティスは藤田よりも年上だが、同時代のフランスを生き、マティスの色彩に勝つにはどうしたらいいかと藤田は考えたに違いない。
藤田は「私は彼地の作家の画を一通り眺めてみた。でその時分は絵具をコテコテに盛り上げるセゴンザックという大家の流儀も流行っていた。それじゃ俺はつるつるの絵を画いてみよう。また、外の者がバン・ドンゲンというような画を大刷毛で描くなら、俺は小さな面相、真書(シンカキ)の様な筆で画いてみよう。また複雑な綺麗な色をマチスの様に附けて画とするなら、自分だけは白黒だけで油画でも作り上げてみせようという風に、すべての画家の成す仕事の反対反対と狙って着手実行したのである」[i]と記している。つまり、マティスを含めて、当時流行していたすべての画家とは反対の方法で活路を見いだそうとしていた。
「闘う」「勝つ」という意識は藤田にとって極めて重要である。藤田は「何故に我々の先輩がパリに渡り本舞台で飽くまで西洋人と闘ってこなかったのであろうか、何故に大敵を相手にせず唯々日本に再び帰朝しての日の自分の地位だけを考慮しておったのだろうかということも考えられるのである。すべてを棄てて自分だけは少なくとも本場所の土俵の上で大相撲をとろうという覚悟であった」[ii]と述べている。つまり、この時代の画家はヨーロッパに留学して、最先端の画法を学び、それを日本に輸入をして、飯を食うくらいの志しかなかったということである。藤田一人、その中で「闘い」「勝つ」ことを考えていた。
そして、「吾等東洋人日本人、志那人が黒色の味わいを熟知している生命ともいうべき黒色を何故油画に取り入れないのか、黒色こそどしどし日本人の油絵に入るるべきものだろうと決心した」[iii]とし、「ある日ふと考えた。裸体画は日本に極めて少なく、春信・歌麿などの画に現わる、僅かに脚部の一部分とか膝の辺りの小部分をのぞかせて、飽くまでも膚の実感を画いているのだという点に思い当り、始めて肌というもっとも美しきマチエールを表現してみんと決意」[iv]した述べている。
そこで藤田は「皮膚という質の軟らかさ、滑らかさ、しかしてカンバスその物が既に皮膚の味を与える様なカンバスを考案することに着手した」「輪囲を面相筆を以て日本の墨汁で油画の上に細線を以て画いてみた、皮膚の実現肌その物の質をかいたのは全く私を以て最初として、私の裸体画が他の人の裸体画と全く別扱された事は世間の大注目を引いた」[v]というように、「「乳白色の下地」とその上に筆で細い輪郭線を描くことで、肌を「再現」することを試み、勝つことができたのだ。
つまり、「乳白色の肌」や「乳白色の下地」と言われる肌の「質感」を再現するような下地の制作と、油画に水性の墨がのることを実現したのである。近年の組成分析で、乳白色は鉛白に炭酸カルシムを混ぜることで実現し、油分はタルクが入ったベビーパウダー(シッカロール)でとっていたことがわかっている。そこに遠近法のような陰影を描かず、物そのものとして提示している。藤田が編み出した下地の層構造は、皮膚の層構造に類似しており、ダ・ヴィンチとは違うが、結果的に解剖学的なアプローチになっていたのかもしれない(このような「質感」に対する独特な感性は、日本の絵画の技法だけではなく、日本の気候によって育まれたたものだと筆者は推測している)。
そのような戦略と戦術を駆使し、西洋画壇の中で、エコール・ド・パリの中心的作家として確固たる地位を得たのだ。現在、「アート思考」やアートからビジネスのヒントを得るような言説が広がっているが、モダンアートの世界でそれをもっとも体現したのは、藤田に他ならない。私は、そのようなアートと市場やビジネスに関心のあるビジネスパーソンこそ、藤田をもっと注目すべきではないかと考えている。
しかし、1929年の世界恐慌のあおりを受け、パリも不況に陥り、多くの作家が帰郷し、藤田も中南米へ旅に出ることになる。「色彩への旅」は主にこの時代をテーマにしている。藤田は、旅に出て手の込んだ画材を手に入れることができなくなったこと、自然環境が大きく変わったことによって、画風を大きく変えている。端的に照度が高い風景の中で、色数が増え、鮮やかさが増している。ただそれだけではない。一つは補色や対照色相を利用した対比的な配色を駆使している。詳細はビデオを拝見していただければわかるが、シュブルール以降の色彩調和論に沿ったものであり、藤田が西洋的な色彩調和論を熟知していることがわかる。
印象派からポスト印象派への色彩の変化は、北フランスから南フランス、北アフリカ、南島のような照度の高い地域への移動と比例しており、マティスやゴッホの色彩への目覚めは自然環境の変化と連動している。藤田にもそのような移動による色彩への目覚めは見て取れるだろう。とはいえ、やはり陰影はほとんど描かず、対比的な色彩の効果と、キャンバス地が見えるほど、明るい部分は最低限の薄塗りにしている。場合によっては、キャンバス地もモチーフの陰影や質感に組み込んでおり、20年代に開発した独特な「質感」の感覚や技法は別の形で継承されているように思える。
今回、30年代の油画の作品を見て、色彩が豊かになると同時に、「質感」へのこだわりを改めて感じることができた。現地人や黒人、アジア人の肌、現地の衣装などを描くために、上手くアップデートしていると思う。30年代後半になると、色彩の対比に加え、形や模様、構図の対比を組み合わせ、極めて完成度の高い画面を作り上げている。色彩の獲得だけに留まらない、藤田の30年代の到達を確認する上でも、本展覧会は重要であったように思う。
そして、40年代の戦争画で駆使された群像表現にもすでに着手している。近年、藤田の戦争記録画いわゆる「戦争画」は、芸術表現で国威発揚に積極的に寄与したということで、その画業の影のような扱いを受けているが、はたしてそうだろうか。藤田は最初から西洋人と伍して戦うことを念頭に置いていたし、西洋の戦争画に挑もうとしていたと思う。そこには断絶はなく、むしろ一貫していたのではないだろうか。
藤田は少なくとも絵画の世界では勝利を修め、一定の地位を得たが、同年代でそれを成し遂げた日本人の画家が藤田だけだったためにスケープゴートにあってしまったのは皮肉なことである。この展覧会が、20年代の「乳白色の肌」と40年代の「戦争画」の間で忘れられていた藤田の色彩と旅、そして「質感」の表現という視点から、見直されることを期待したい。
[i] 藤田嗣治著、近藤史人編『腕一本、巴里の横顔』講談社文芸文庫、2005年、p.193—194
[ii] 同書、p.193
[iii] 同書、p.194
[iv] 同書、p.191
[v] 同書、同頁