世界を結び維持する色の人類史
港千尋『現代色彩論講義 本当の色を求めて』(インスクリプト・2021年)
本書は、2020年に著者の港千尋が教鞭をとっている多摩美術大学で開講された「現代色彩論講義」をまとめて一冊に編んだものだ。もとももと美文と言われる港だが、今回は、口語体をベースにしているので、さらに読みやすい。かといって中身がわかりやすいかと言えば別だ。これほど広範囲に色彩について語った本はなかなかない。現在の色彩をとりまく様々な事象について、自然や環境、景観に加えて、アート、映画などの芸術文化そして今まで色彩について言及されてきた古今東西の「色彩論」を参照しながら縦横無尽に語っている。
本書、というよりも港の著作に特徴的な視点を挙げれば、人類史的な長尺の時間意識と地球規模の視野だろう。我々は色彩と言った場合、どうしても近代以降の色彩科学の尺度で考えてしまうが、色彩は人類の誕生以来、重要なコミュニケーションの道具であり、色彩学者だけではなく、画家や科学者、哲学者などによって語られ続けてきた。現代でも色彩学会は基礎から応用まで多分野の人が集っており、アート&サイエンスを考える格好のテーマとなっている。色彩はそのような多分野をまたがる面白さがあり、時間や地理、分野をできるだけワイドにできるだけ並列に語る港に向いたテーマでもあるだろう。
科学的色彩論ということで言えば、本書でも触れられているニュートンの『光学』[1]、ゲーテの『色彩論』[2]、印象派に多大な影響を与えたシュヴルールの『色彩の同時対比の法則』[3]、色彩の客観的な表記方法をつくったマンセルの『色彩の表記』[4]などが続く。さらにアート&デザインの分野ではアルバースの『配色の設計(Interaction of Color)』[5]などもすてに古典である。これらの「色彩論」に共通するのは、特定の物質から色彩を切り離し、混色技術と知覚現象として独立させ、人工的な配色の効果を論じているところである。
しかし、そもそもヨーロッパにおいても中世においては、色彩と色材は不可分なものであり、そこには象徴的な意味があった。それらを混色して別の色をつくるということがタブーな時代もあったのである。また、色の組み合わせにも象徴体系があり、紋章と併せて一つの意味を表していた。そのことについては、本書でも紹介されている紋章学者、ミシェル・パストゥローの『青の歴史』[6]を含む一連の著作に詳しい。
本書の副題を「本当の色彩を求めて」としている理由の一因として、今日のデジタル環境がある。デジタル上ではどのようにも改変が可能であり、「本当の色」がわからないからである。色が自然や意味から剥奪される始まりは18世紀である。17世紀末のニュートンの分光実験で、光の中に色が含まれることが証明され、同時に、爆発的に新しい顔料や染料が発明されるようになる。ニュートンの『光学』がプリズムというガラス研磨の技術の産物としたら、シュヴルールの『色彩の同時対比の法則』も化学の進化の産物である。さらに、ヤング=ヘルムホルツによって、3色説が唱えられ、3原色によってどのような色でも作れるようになっていく。しかし、その結果、自然や物質と色との関係は弱くなり、意味から「雰囲気」を重視する記号の体系になっていく。本書では、そのことについてボードリヤールが『物の体系』[7]で詳しく明らかにしていることを紹介している。
さらに21世紀になって、デジタル化が進み、インターネットで世界が網羅され、スマートフォンによって風景を見ている我々は、すでに風景との関係も記号的になっているといってよい。風景自体も、「映える」ものに変えられてしまう。コンピュータの発展により、あらゆる色はRGBの組み合わせで変更可能だからだ。現在のコンピュータの色域は人間の可視領域よりも狭いが、4K、8Kになるとかなり大きくなっており、そのうち全面的にカバーする色域も近い将来出てくるだろう。デジタル環境が浸食する現在、「本当の色」を定義するのは極めて難しいのだ。
そのような近代以降の科学史観には収まらない、太古の人類の知覚や多様な人種や民族、言語の知覚はどうだろうか?むしろ、本書の狙いはそちらにある。本書が、言語と色と認識の関係について、古代ギリシアの色彩語彙から最新の脳科学の関係まで広範囲に論じたガイ・ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』[8] や人類学と言語学の視点で、人類の普遍的な色彩語を調べた金字塔、バーリン&ケイの『基本の色彩語』[9]からはじまっていることがそれを物語っている。次に人類最古の色材であるオーカーや洞窟壁画などに遡り、日本やアメリカ、フランスなどの異なる文化を比較し、最終章ではブラックホールにまで至る。デイヴィッド・ホックニーの『絵画の歴史』[10]のような広がりを見せるのだ。あるいは、共感覚やノイズの話にも派生していき、色彩の知覚が物体や光の色だけではなく、感覚器官を横断していることも示されている。
また、港が撮影したフランス全土の風景を、私が色彩分析する形で共編著した『フランスの色景』[11]も言及されている。そこでは港が撮影した写真に含む日仏の色名を比較したり、色空間への色分布の傾向を見ることで、風景に潜む配色の法則や色彩感覚を明らかにしている。港はその方法をアルバースの「インタクション・オブ・カラー」に倣い、「風景という経験と撮影という行動を通した、インタラクションの人類学」[12]と形容している。
風景の色彩を分析する先行例として、フランスのカラリスト、ジャン・フィリップ・ランクロの「色彩の地理学」と命名した方法論が挙げられている。ランクロはフランス全土の土を集めて、カラーパレットのように並べて、大地の色がカラフルであることを提示した。そして、外壁などの建材、色票、写真、スケッチという物質から光、手描きというあらゆる方法をつなげ、各地の色の特徴を捉えて、カラーデザインにフィードバックしていったのだ。その調査は、『フランスの色』『ヨーロッパの色』『世界の色』[13]などまとめられている。ランクは、戦後に誕生したプラスチックなどの新素材によって、急速に色が地域性を失っていくことに危機感を抱き、もう一度風土と人工物の関係を修復するために、これらの方法を考えたのだ。ランクロが抱いたは懸念は、デジタル化が進んだ現在、より一層深刻さを増しているといえよう。
最後に本書では、オーストラリアの先住民、アボリジニーの「ドリーミング」につなげている。港は、アボリジニーの言葉を解釈し「色が採れる土や石に見えるかもしれないが、オーカーもまた人である。材料に見えるものは、実はすべて人間なのである。したがって、オーカーのドリーミングが世界を正しく維持しているかどうかは、わたしたちがオーカーにどのような態度でのぞむべきかにかかっている。(中略)それが本当の色かどうか判断できなければ、大地からやってきた人として、務めを果たすことはできないであろう」[14]と述べる。
世界の意味や物質から離れて、自由に色をつくれるようになったのは、人類の明らかな可能性であろう。しかしそれは、自然環境との関係も切り離し、ひいては「見映え」という観点のみを重視し風景を利己的に変更してしまうことにもなりかねない。利他的になるためにはもっと風景の側に立つ必要がある。
現在、人類は自然環境をあまりに無視したために、気候変動による自然災害や新型コロナウィルスのパンデミックのような、悲劇的なフィードバック、インタラクションを受けている。本書が示唆するように、人類が地球という「土」の一員としてこの環境を維持するためには、今一度、「本当の色」とは何か、考える時期に来ているのではないだろうか。
[1] アイザック・ニュートン『光学』島尾永康訳、岩波文庫、1983年
[2] J.W.V. ゲーテ 『色彩論』木村直司訳、筑摩書房、2001年
[3] M.E. シュブルール『シュブルール 色彩の調和と配色のすべて』佐藤邦夫訳、青娥書房、2009年
[4] アルバート・H・マンセル『色彩の表記』日髙杏子訳、みすず書房、2009年
[5] ジョセフ・アルバース『配色の設計:色の知覚と相互作用 Interaction of Color』永原康史監訳、2016年
[6] ミシェル・パストゥロー『青の歴史』松村恵理訳、松村剛訳、筑摩書房、2005年
[7] ジャン・ボードリヤール『物の体系: 記号の消費』宇波彰訳、法政大学出版局、2008年
[8] ガイ・ドイッチャー 『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』椋田直子訳、2012年
[9] ブレント・バーリン、ポール・ケイ『基本の色彩語:普遍性と進化について』日髙杏子訳、2016年
[10] デイヴィッド・ホックニー 、マーティン・ゲイフォード『絵画の歴史 洞窟壁画からiPadまで』木下哲夫訳、青幻舎、2017年
[11] 港千尋、三木学『フランスの色景:写真と色彩を巡る旅』青幻舎、2014年
[12] 港千尋『現代色彩論講座 本当の色を求めて』インスクリプト、2021年、p.182
[13] 『フランスの色(Couleurs de la France)』(Moniteur、1982年)、『ヨーロッパの色(Couleurs de l’Europe)』(Moniteur、1995年)、『世界の色(Couleurs du Monde)』(Moniteur、1999年)、2004年、『世界の色』の英語版、Colors of the World, W.W.Norton & cy, New York, London, 2004.が刊行された。
[14] 港前掲書、p.237