光による壮大な「生」の織物「石内都展 見える見えない、写真のゆくえ」
2021年4月3日から7月25日まで、西宮市大谷記念美術館で、石内都の大規模な個展「見える見えない、写真のゆくえ」が開催されていた。第一展示室から第四展示室まで、石内の代表作が170点以上展示され、回顧展といっても過言ではないボリュームであった。関西において石内の作品が、これだけの規模で公開されることは今までなかったので、石内都という作家の総体を見る貴重な機会となった。
石内は、1968年に創刊された写真同人誌『プロヴォーグ』に参加した「アレ、ブレ、ボケ」と称された中平卓馬や森山大道らの後続として、粒子を浮かび上がらせる独自のモノクロ写真によって、1977年に自身が育った横須賀のストリートを撮影した「絶唱、横須賀ストーリー」でデビューした。1979年には「APARTMENT」で木村伊兵衛賞を受賞し、新しい時代の女性写真家として注目される。しかし、石内の表現は留まることなく、ここから本領を発揮していく。
本展では、デビューから現在までの創作活動を、クロニクル的に展示するのではなく、表現のスタイルや関心の近い作品を集めて4つの部屋に展示されていた。
傷みや痛みの中に見る「生」
第一展示室は、広島原爆資料館(広島平和記念資料館)に寄贈され、被爆者の遺品を撮影したシリーズ「ひろしま」、メキシコを代表する女性画家、フリーダ・カーロの博物館からの依頼を受け、フリーダの遺品を撮影したシリーズ「Frida Love and Pain Frida by Ishiuchi」である。これらの遺品を撮影するシリーズは、石内の母親の下着や口紅などの遺品を撮影した「Mother’s」のシリーズに連なるものだろう。
「ひろしま」は、未だかつてない原子力爆弾を受けた被爆者が着用していた衣服、靴、鞄などが撮影されおり、ところどころ爆風や熱波のせいか破けていたり、血の痕跡のようなもの見受けられる。その実態を少なからず知っている日本人の我々からしたら、悲惨な状況を連想してしまうが、石内の狙いはそのような「絶後」のイメージではないことも伝わってくる。それらの写真が表しているのは「痛み」や「死」ではなく、むしろ「生」の痕跡である。遺品からそれをまとっていた個々人、被爆者という類によるレッテルではなく、固有の「生」を浮かび上がらせているように思える。
本質的に写真は「死のメディア」である。肖像写真の写っている人物がこの世にすでにいないことは多い。それは過去の光が遅延して現在に到達する、遠く離れた星の光に似ている。届いた頃にはすでにその恒星がない、ということがありえるのだ。その写真の奇妙さについては、ロラン・バルトを含めて数々の写真論で指摘されている通りである。しかし、石内は「死のメディア」を逆行し、すでにいない人物の遺品を撮影することで、「生」を想像させる「生のメディア」に変えてしまっている。そのような石内の方法は、フリーダの遺品を撮影したシリーズにもみられる。フリーダは、旺盛な創作活動をしたことで知られるが、生涯病気と事故の後遺症に悩まされ、晩年は足を切断するなど、数々の「痛み」を抱えていた。遺品にも義足を含めてその「痛み」の痕跡がみられるが、石内はそこにも「生の証」を見出し再生させているように思える。それは石内が大型カメラを使ったいわゆる「物撮り」の方法ではなく、一眼レフのフィルムカメラを使い、自然光で撮影しているということも大きいだろう。
匂いを感じる街の跡と織物
そのような石内の特に女性の傷みや痛みの「生」を見出そうという視線は、初期の頃から一貫してみられる。第二展示室に展示された「連夜の街」は、1978年から80年にかけて、全国の赤線跡を撮影したシリーズである。撮影地は、横須賀、東京、大阪、京都、奈良、名古屋、仙台などまさに全国各地に点在していることがわかる。赤線というのは、戦前の公娼制度が廃止された後、風俗営業が継続されていた地域で、警察が地図に赤線で区切っていたことが語源であるという。1956年に売春防止法が制定され、1958年に完全施行される際、赤線内の多くの店舗が廃業し、実質的に赤線が廃止された。
石内に撮影された赤線跡の建物は、すでに廃墟のようになっているものが多いが、戦前に建てられた赤線内の建築は、タイルやステンドガラスなど豪華な装飾が施されているものも多く、魅力的な意匠が残っている。これらもまた、不遇な環境で働かされた女性の「痛み」の跡ともいえるが、そこに「性」よりも「生」を見出しているように思える。すでにいないはずの女性たちの生きた「匂い」のようなものを写真から生々しく感じることができる。このシリーズは、現在でも撮影されており、その一部がスライド映写機で投影されていた。スライド映写機はまさに「再生機」であり石内の表現に相応しい。18世紀末から「ファンタスマゴリア」と言われた亡霊ショーに使われていた系譜にも連なる。
また、同じ展示室には、「銘仙」の着物と絹織物工場の風景を撮影した「絹の夢」が展示されている。「銘仙」とは、クズ繭と化学染料を使用した安価な着物だが、鮮やかな色彩と幾何学的で大胆な図柄で大正から昭和初期にかけて大流行した。この時期、明治時代から輸入してきた化学染料を、国産で開発できるようになり、明治以前の天然染料では不可能であった、鮮やかな色彩の着色が可能になった。洋服が普及する前の和風のアールデコといえるだろう。当時のモダンガールが着用した、若い女性の気軽なお洒落着であったことだろう。群馬県の桐生はその産地として有名であり、実は石内は桐生の出身である。その「銘仙」の着物を、「ひろしま」のシリーズを撮影していた際、遺品の中に多数あることを発見する。時期的には、まさに戦争前に「銘仙」が流行していたので符合する。それらの「銘仙」は、爆風と熱波によって傷ついたのにも関わらず、絹の風合いや鮮やかさが保たれていたという。それを機に、生まれ故郷である桐生に赴き、「銘仙」を撮影した。まさに、離れていたと思っていた点と点が結びついて面となり、重層的な織物を成していくのが、石内の創作の「光跡」であるといってもよい。
皮膚と植物の肌理
第三展示室は、40歳を迎えたことを機に、同年生まれの女性の手足を撮った「1・9・4・7」以降、風景から身体に目を向け、身体の傷を撮影した「Scras」や「INNOCENCE」のシリーズを展示している。特に「INNOCENCE」は女性に限定された作品だ。皮膚は、最大の臓器と言われ、その様々な機能について研究が進んでいるが、皮膚についた傷も様々な情報を持っている。新陳代謝を繰り返し、細胞は入れ替わっているが、傷は病気や怪我の記憶とともに残っている。それもまた「生」の歴史である。「日焼け」が残るように、皮膚と印画紙は似たところがある。
さらに、サボテンを撮影した「sa・bo・ten」や朽ちた薔薇の花弁を撮影した「Naked Rose」を組み合わせて、一つの空間と形成していた。皮膚への視線とサボテンや薔薇などの植物へ同じような視線が向けられている。特に枯れかけた薔薇には、花が開いた瞬間の華やかさはないが、何とも言えない生々しさ、色っぽさを感じざるを得ない。撮影された季節や時間帯が、曇り空が多いためか、あまり陰影がついておらず、表面の質感が浮き上がっているように見えることも影響しているだろう。特に薔薇の作品は、映像作品《Nakked Rose》(2006)としても制作されており、石内の対象との距離の取り方がうかがえる。
光で編む「生」の織物
第四展示室では、日常風景を撮影した「One Days」や「Yokohama Days」、40年以上活動の拠点にしてきた横浜から、生まれ故郷の群馬県桐生市に移転する時期に撮影された「Moving Away」のシリーズが展示されている。石内には、母親の遺品のような作品はあれども、プライヴェートな日常風景を撮影する作風ではなかったため、逆に新鮮に見える。「Moving Away」は、もともとはセルフ・ポートレートの依頼を受け、それに応える形で生まれたシリーズという。自身のアトリエの周囲や暗室、自身の手足を被写体にしており、それまでの被写体に寄った作品から自身に寄った写真によって、作家の息遣いが聴こえるようである。
そして、この第四展示室でもっとも衝撃的なのは、2019年10月の台風19号による河川の氾濫で被災した神奈川県川崎市民ミュージアムに収蔵された自身の作品を再撮影して展示していることである。川崎市民ミュージアムは、長年、木村伊兵衛賞作品の展覧会が開催されており、写真作品も多数収蔵されていた。その中に、木村伊兵衛賞を受賞している石内の作品も含まれていた。受賞作「APARTMENT」と祖母を写した「1899」も大きな損傷を受けており、展覧会では何が写っているか判別の難しい写真が再撮影されて展示されていた。残酷な現実と、傷ついた写真も石内によって新たな「生」を与えられているようで複雑な気分になる作品であった。
最後に、石内が桐生に転居する前に、最後に横浜のアトリエの暗室の作業の記録映像が流される。石内の大きな作品が、木造2階建ての部屋に所狭しと置かれた暗室のセットの中で作業が行われている様子が映しだされている。石内が淡々と作業をし、天井高いっぱいに現像したロール紙を吊るして、乾かしている様子は、写真というよりも、染め物を干しているように思える。現像した写真が、おそらく「ひろしま」のシリーズであろう衣服をアップしたものであるというのもあるが、桐生に生まれ、染織学科を卒業した石内にとって、写真は最初から織物のようなものだったのではないかと思えてくる。衣服や皮膚に関心を持ち、それらに「生」を見出してきたのもごく自然なことだったのかもしれない。
石内の創作の足跡をたどっていくと、光による壮大な「生」の織物を成しているように思える。それは「生」の証に光を当てる作業によって編まれたものだ。写真がデジタル化し、像が不確かなものになり、コロナ禍において、手触りが不確かになっている現在だからこそ、石内の作品はいっそう生々しく、力強く「生」の輝きを放っているように思えた。