無縁社会(ハートレス・ソサエティ)から有縁社会(ハートフル・ソサエティ)へ
一条真也『心ゆたかな社会』(現代書林・2020年)
今では一般に定着した「ハートフル」概念の創始者にして、稀代の実業的哲学者である一条真也の記念すべき100冊目の著作である。
著者は2005年に、ピーター・ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』に呼応して『ハートフル・ソサエティ』を上梓した。これは、農業革命、産業革命、情報革命と入れ子状に発達する人類社会の次の段階として、人間の心こそが問題となる社会の到来を予見し、その構想を示す思想書であった。15年後の改訂版である本書は、コロナ禍という想定外の危機も視野に入れつつ、古今東西の人文・社会・自然科学の知見を多彩に取り込んで、改めて来たるべき実現可能な「心ゆたかな社会(ハートフル・ソサエティ)」の総合見取図(グランド・デザイン)を提示するものである。
議論の前提は、テクノロジーの発展である。産業革命は、都市型大衆消費社会を実現し、「なんとなく、クリスタル」な個々人の欲望の追求を奨励した。その結果、私達は物質的には十分満たされたが、個人主義の瀰漫は共同体を解体させ、その帰結が無縁社会である。人々の絆の喪失は、逆に心の貧困を招来し、鬱や依存症や自殺や孤独死を増加させている。
その一方で、それに続く情報革命は、仮想と現実の二重世界を常態化し、超能力的に万能感を高めてさらに個人主義を助長している。遺伝子操作やAIは、人間を神に近づけようとすらしている。しかし、ZOOM浸りの自粛生活の中で、私達は現在の生活基盤がいかに歪(いびつ)で脆弱で過負荷(ストレスフル)であるかに気付いたはずである。
テクノロジーの進歩は、それだけでは心の不調を増産するに過ぎない。高度で強力な科学技術は、ユートピアもディストピアも導きうる。私達には、何かが欠けているのだ。一体、私達は望ましい生き方の基盤をどこに置くべきだろうか?
死と向き合うべきである、と著者は喝破する。近代において、死は隠蔽されてきた。しかし、「死を想え(メメント・モリ)」は人類普遍の叡智である。今こそ、改めて価値観の大再編を本書は提唱する。
死は、必ずしも忌むべきものではない。死があるからこそ、生の充実と真の感動がある。若さを礼讃する近代化の中では忘れられてきたが、古来人間は老いや病いや死にさえも人生を豊かにする意味を見い出してきた。古代エジプトや古代中国や江戸のような「好老社会」「尊老社会」に学ぶことは、超高齢社会の喫緊の希望的課題である。
それでも避けられない死別の悲嘆を癒し合う中で、人々の絆は作られる。その基本単位は家族であり、その連帯から確固とした社会が形成される。近年不要とされ簡略化が進む葬儀や法要は、実際には残された人々の孤独を分け合い悲嘆を和らげることで心身の不調を防止する有益な社会資本であった。時代の趨勢で解体した共同体を再生する核として、互助会が新たな地域拠点(コミュニティ・センター)となり、遺族のグリーフケアや日常的な隣人祭りや緊急時の防災活動に取り組むべきとする著者の提言は慧眼である。
近代は利己心を称揚してきたが、生来人間は利他心も兼ね備えている。他人の役に立つことは、失われることのない確かな生きがいと喜びをもたらす。また、たとえ物に溢れていなくても、古来風流と呼ばれる大自然に素朴に親しむ瞬間に尽きせぬ活力を得た経験は誰にでもあるはずである。死や自然に畏敬の念(センス・オブ・ワンダー)を感受することが、哲学・芸術・宗教の新たな主題となるだろう。それらを統合する人間の根源的営みとしての冠婚葬祭を、著者は「宗遊」と呼ぶ。
会話し、社交し、思いやり(ホスピタリティ)を持って訪問したり歓待したりすることは、ローカルにもグローバルにも人々の心を縁と共感で結び付ける。当たり前でつい忘却しがちであるが、私達はそのためにこそテクノロジーを利用すべきであると思い出させてくれる一本筋の通った希哲の書である。
※初出 秋丸知貴「一条真也著『心ゆたかな社会』現代書林・2020年」『週刊読書人』2020年10月2日号。