言語は思考にどこまで影響を与えるのかー。
ガイ・ドイッチャーは『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』において、「言語はレンズである」という観点から、言語学、人類学の今までの論争を膨大な知識で整理した。今井みつみの『ことばと思考』も同じ2010年に発刊されておりその趣旨も近い。
「言語は思考を決定する」という、ウォーフの仮説に沿いながら、異言語間の話者がどのように理解が異なるのかを解説している。ただ、それは翻訳不可能なほど決定的な差とは言えないというのが筆者の立場だ。それだけに、読んでいて歯がゆくなるのだが、この問題はどちらかに断定できるとは言えない問題であるとして、異言語間の認識の違いと共通点を丁寧に解説していく。
この本においても色彩の知覚や色名は主な題材である。ここではカテゴリー知覚と書いているが、色を含めて物などをカテゴリーに分けて言語化することをいう。色彩用語では、カテゴリカル色知覚と呼ばれる。通常、物体ならば、物理的に分節化されているため、カテゴリーの分け方は言語によって極端な差異は生まれない。
しかし、色の場合は、連続性をもっているため、必然的に言語によって恣意的にならざるをえない。そのため、かつては2色しか色名のない民族は、2色以外は「見えていない」と誤解されてきた。それが世界的な調査によって、色名は少なくとも、世界中のどの民族、人種であれ見える色の範囲は変わらないということがわかってきた。つまり、色の切り分けは、知覚の問題ではなく、言語の問題であるのだ。
ただ、同じ対象でもカテゴリーの細かい言語と、カテゴリーが広い言語では、後者は細かい言語のカテゴリーを認識できないことがある。翻訳においても、カテゴリーが広い言語から、細かい言語に翻訳するのは難しい。カテゴリーが重ならない領域も翻訳が難しいところだろう。
特に音と色のような知覚に関わる言語はさらに影響がある。赤ちゃんは言語を覚える際、初期においてはすべての言語を聞き取れるが、母語の音に脳が最適化される過程において、それ以外の言語の音は聞かなくてよいという判断をしてしまう。日本人にとってのLとRの識別が難しいのもその例だろう。それが大人になってから、異言語を習得する知覚的な難しさになっている。翻訳の問題は、知覚できているけど、切り分けられないという問題と、知覚すらできないという、両方の問題がある。
色に関しては、カテゴリーを知覚するのはかなり遅いが、それでも文化によって知覚しなくてよいと判断する色はあるだろう。その結果、知覚の強度が変わってくる。そして言語があるかないかによって、色を判断する反応速度や識別に影響が出てくる。その意味では、言語が思考を決定するという見方は正しいといえる。ガイ・ドイッチャーの言語が知覚に影響を与えるという意味で、「言語はレンズである」と形容している。
著者は、それらを提示した上で、異言語間の認識の違いよりも、人間が言語を獲得することによって、認識に革命的な変化が起きるという、発達心理学の成果を重視している。同様に、多言語を使うバイリンガルについても、並行的に思考をしているというわけではなく、母語の影響を受けるが、母語だけの思考よりも、世界について異なる認識をもてるという意味で意義を見出している。カテゴリー知覚の違いを知ることは、異言語習得においてもヒントになるだろう。
また、バイリンガルの実験では、「多くの類義語の中から語を状況に応じて使い分ける場合に、バイリンガルの使い分けは、どちらの語においても、その言語のモノリンガルと同じにならないことが分かった。彼らのそれぞれの言語の使い分けの仕方は、二つの言語のそれぞれから影響を受けたような、どちらの言語の母語話者とも完全に一致しないものだったそうである」と述べている。
つまり優勢な母語が第二言語に影響を与えるということなのだが、色のカテゴリー知覚において、バイリンガルがどのように、モノリンガルと違うかの実験については書かれていない。例として、言語学者の鈴木孝夫氏が、『日本語と外国語』のなかで、レンタカーを借りる際、orange carと来ると言われ、日本語の「オレンジ色」と思い込んでいたら、茶色の車が来たというエピソードを挙げ、比較言語の達人でさえ、対応すると思われる異言語のカテゴリーの領域が同じだと思い込んでしまうと述べている。
対応する色名がある場合でも、色域の差を視覚的に把握しておくことは重要だろう。特に海外へ色の発注を行う際によく色の誤解が問題になることである。私はその問題について、日本の車メーカーが海外工場とのやりとりにおいて生じる事例を聞いたことがある。
拙書『フランスの色景』は、まさに色名と色知覚や色彩感覚の差異を知るための一つの試みであるといえる。鈴木氏は言語学者であったとしても、色彩を専門としているわけではない。バイリンガルで幼少期から二カ国を行き来している場合はどうだろうか?色域の違いも知覚しているように思う。その際、色相は、二つの言語で細かく分節化され、知覚に影響を与えるだろう。
この本では、カテゴリー知覚の例を多数だしながら、異言語においてカテゴリーの分節化の違いが、互いの理解に障害を与えることを例にだし、部分的にウォーフの仮説を支持している。その上で、違いを知ることで理解が深まることも示唆している。
そこまではよくわかるし納得できる。ウォーフの仮説は行き過ぎたとしても異言語間で理解しづらい部分があるのは確かだし、違いを知ることがそれを埋める術だろうと思う。その差異が、『言語を生み出す本能』の著者、スティーヴン・ピンカーのように、取るに足らないものだとも思わない。共通性の方が多いとしても、取るに足らないとしてしまえば、細かい差異がそのまま放置されてしまうからだ。
私が知りたいのはその先で、色知覚において、両方の色名と色域を知り、色彩感覚を磨いたならば、色彩のバイリンガルになることは可能かどうか、である。もちろん、程度の問題はあるし、幼少期からの経験も重要だろう。では、もっと後天的にそれが可能なのだろうか?私はある程度可能だと考えている。そのような実験が進むこと願っているし、同時に私自身もさまざまなトライアルをしてみたい。
初出『shadowtimesβ』2015年4月22日掲載