言語学や人類学の徒ではなくてもエキサイティングな本だ。特に色彩学については大いに関係がある。原題は、「Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages」であり、「言語というレンズを通して:なぜ世界は他の言語において、違って見えるのか?」というものである。
つまり、言語が違うと世界は異なって認識しているのか?という言語学や人類学が誕生して以来、論争になり続けているテーマについて、19世紀から現在までの議論を整理し、最新の実験から著者の見解を述べたものである。
著者は、現在マンチェスター大学の言語学の主任研究員のガイ・ドイッチャーである。言語学や人類学において、このような力技をできる日本人の研究者はほぼいないといえるのではないか?また、この一連のミステリーの歴史を読ます筆力も圧倒的である。その証拠というわけではないが、2010年に発刊されたこの本は、数々の賞を撮っている。エコノミスト誌、フィナンシャルタイムズ誌、スペクテイター誌、ライブラリー・ジャーナル誌の年間ベストブックである。2011年には英国ロイヤル・ソサイエティによる年間ベスト科学本・最終選考賞にもなっている。
最終的な結論に至るまでの前ふりがやたら長く、そしていかにこの問題が現在まで振り子のように振れてきたかを膨大な知識を披歴しながら解説していくのだが、簡単に言えば、チョムスキーを代表とする言語は生得的であり普遍的なものであるとする生成文法派と、サピア=ウォーフに代表される言語は文化によって相対的なものであるという言語相対論派の両論がぶつかり合い、修正されていく過程を描いている。
振り子といったように時代背景によって優勢度合がどちらかに振れるのだが、どちらが正しいということはなく結局は程度問題である。著者は、母語によって思考は規定される、という相対言語論の行き過ぎた主張を修正し、知覚や思考に及ぼす影響について現時点で確かな点の例を挙げている。
「本書で紹介した三つの例-空間・ジェンダー・色彩-は私の見るところ、言語の影響がもっとも納得のいく形で実証された三つの領域だといえる」
これが結論である。
なかでも、「本章で紹介したさまざまな実験から考えて、言語はレンズだというたとえに現実世界でもっと近いのは、色の領域といえるかもしれない。もちろん言語は物理的レンズではないから、目に届く光子に影響を及ぼすことはない。しかし、色感が生じる場は目ではなく脳であり、脳は網膜から届く信号を額面どおりには受け取らない。~中略~これまでに集まった証拠から見て、言語が視覚感覚に影響するという説には説得力がある」と書いているように、言語が視覚に影響を与えるのはほぼ間違いないだろう。
その根拠は、色の識別の反応速度は、色名が分かれている色相においては速くなる、という実験結果である。本書に出てくる3つのグループは以下の方法で視覚と言語との関係について裏付けをとっていった。
1、言語的干渉(意味のない言語をしゃべらすことで視覚への影響を防ぐ)を設けて、干渉がない状態との差異を見る。
2、言語野がある左脳と右脳によって反応速度が変わるか調べる。脳と目は交差しているので、言語野にある左脳=右目と、言語野のない右脳=左目で違い見る。
3、2に加えて、判断過程においてfMRIで左脳が活性化したかどうか調べる。さらに、色名を読み上げる。
結果、色名がある色相は、色の識別は速くなるとともに、左脳の二つの部位が活性化し、色名検索をする言語回路の座になっていると結論づけられた。つまり、視覚的色情報の処理において、言語回路が介入しているという事実がわかったのである。
また、色彩学でも著名なバーリンとケイが1969年に報告し、「基本色彩語」として知られている普遍的な色名も今日では反証があることも書かれている。「基本色彩語」とは、98の言語を調査した結果、人類には言語に関わらず焦点色になるものが、白、黒、赤、緑、黄色、青、茶色、ピンク、オレンジ、灰色の11色あるということ、またそれらの色名は文化の発展に応じて同じ順序(段階)で獲得されていくこと(黒と白→赤→黄色→緑→青/黒と白→赤→緑→黄色→青の2ルート)の2点からなる理論である。
これは当時、サピア=ウォーフの仮説によって、言語相対論によっていた議論を普遍論に振り戻す革命的な説で、今日の色彩学にも定説のようになっているが、現在では白、黒、赤、緑、黄色、青に限定され、色名獲得の順序についても黒と白の次にくるのが赤という法則のみが普遍的という形に修正されている。現在の色彩学の教科書にも、概ね、バーリンとケイの基本色彩語はケイの改良版も含めて採用されているが、今後は少し改訂される可能性もあるだろう。
この本に出てくるように、言語学と人類学にとっても色彩は大きなモチーフである。色彩が異文化理解の鍵であることは間違いない。『フランスの色景』(三木学・港千尋共編著、青幻舎、2014年)において、写真から色名を抽出する手法を使ったが、これはあながち間違ってなかったかもしれない。なぜなら、たいていの写真家は、右目でファインダーをのぞき写真を撮る(今日のスマホやモニター型のコンパクトデジカメは除くが…)。ということは、左脳にある色名を検索する言語回路の影響を受けるからである。
風景のすべてとは言わないが、母語の色名の影響を受けて写真を撮影していることはありうるということである。そして、バイリンガルの場合はどうなるのかまた興味深い。色彩のバイリンガル、写真と色彩(色名と色空間)による風景の分析というテーマは大きくは外れてなかったようだ。
ただ、ガイ・ドイッチャーは、我々がわかったことはほんの少しに過ぎず独創的な実験と推論を必要とするほど無知なのだ、と述べている。しかし、膨大な闇を先人が探し続けたからこそ今日があるので、後世の読者は我々の無知を許したまえ、そして、我々が闇を手探りすることをやめたら、後世の読者が我々の無知を知ることもないだろう、と。
その言葉は、僕らにとっても、膨大な闇の前で手探りし続ける日々を励まされる思いである。
初出『shadowtimesβ』2015年4-月13日掲載