歴史をどのように捉えるべきか?
小林道憲『歴史哲学への招待――生命パラダイムから考える』(ミネルヴァ書房・2013年)
秋丸 知貴
本書は、小林道憲氏が約20年間取り組まれている「生命論的世界観の構築」の一環として「歴史とは何か」を哲学的に考察した研究書である。
「生命論的世界観」とは、小林氏の主著の一つ『生命と宇宙――21世紀のパラダイム』(ミネルヴァ書房・1998年)によれば、近代西洋を支配した「機械論的世界観」に代わる新しい世界観である。その特徴は、パラダイムのモデルを「機械」から「生命」へ転換(シフト)する点にある。
つまり、いわゆる17世紀のデカルトに代表される機械論的世界観は、人間を自然よりも優越させ、人間と自然を截然と分け、主体と客体を区分し、心と体を区別し、精神と物質を分離する。そして、特権的な思惟主体は、生命無き「機械」としての自然の物質的側面だけを認識し、全体は部分の総和に過ぎないとして、全体を個々の部分要素に分解還元し、その物理化学的因果関係の規則的再現性を分析することで一般法則を発見して自然を利用していくものであった。この機械論的世界観は、現世利益的な合理主義と極めて相性が良く、貨幣経済や科学技術を急速に発達させて人類に未曽有の物質的繁栄をもたらしたが、次第に精神的価値を衰退させ、心身や自然環境にも様々な致命的悪影響を及ぼすことが20世紀後半には明らかになる。
これに対し、生命論的世界観は、「生命」を物質に内在する自ずから高次を求めて無限に生成発展する秩序形成力そのものと捉え、それは自然に遍在する根源的な原生命の意志の発現であるとする。つまり、「生きた自然」において、既に物質には精神が潜在しているのであり、物質の高次の秩序形態である生命体においても精神と物質は一体であり、生命体の高次の秩序形態である人間においても心と体は一如である。また、生命体は生命活動や環境適応のために、常に自己を維持しつつも内部と外部を循環させ相互変化させて螺旋的に絡み合いながら存続進化していくので、人間と自然は渾然一体であり、主体と客体は明確に分け隔てられない。さらに、自然は常に個々の部分要素同士が相互作用し、有機的に連関して創発的に新しい高次の秩序を形成し続けるので、全体は部分の総和以上であり、個々の部分要素だけを静的・限定的に取り出すことも本来できない。
小林氏の『生命と宇宙』は、こうした生命論的世界観を20世紀後半に飛躍的に発達した生物学や物理学等の自然科学の新知見に基づいてまとめ上げ、機械論的世界観からの脱却を目指すものであった。以後、小林氏は、このそれ自体新しい秩序原理の創出とも言うべき生命論的世界観の立場から、自然哲学、宗教哲学、実践哲学、文明論、存在論、認識論等を精力的に展開している。
それでは、こうした生命論的世界観に立つと、歴史はどのように捉えられるのだろうか?
まず、機械論的世界観に基づく歴史観は、歴史にもニュートンの古典力学における万有引力のような普遍的で絶対的な法則があり、初期条件により未来は必然的に決定されるとする。例えば、19世紀近代西洋の歴史観の代表である唯物史観のマルクスは、生産力と生産関係の矛盾を歴史を一貫して動かす唯一の発展法則とみなした。つまり、歴史の方向性はただ一つに限定されており、世界中どこでも機械的に同じ筋道を辿るとする。
これに対し、本書は生命論的世界観の立場から、歴史もまた「生きた自然」であるとし、そうした必然的な決定論を否定する。
まず、一つの出来事は無数の原因を持つので、その発生を時間的・空間的に限定された一つあるいは少数の原因に還元することはできない。例えば、明治維新が薩長藩閥政府によって推進されたことには、幕末明治当時の政治的諸原因のみならず、遥か250年以上昔の関ヶ原の戦いの後の徳川幕府の西国政策において、薩摩の島津氏や長州の毛利氏が国替えを免れたために実力を蓄積できたこと等も無数に関わっている。
また、一つの出来事は他の出来事と無限に連鎖反応を引き起こし、相乗効果により膨大な影響を及ぼすと共に、他の出来事との連関の中で絶えず意味を更新し続けるので、その結果も狭く限定することはできない。例えば、フランス革命を、ナポレオン登場の直前までと見れば単なる旧体制の破壊の物語になり、ナポレオンの活躍を含めれば近代的国民国家の形成の物語になり、ナポレオン追放後のウィーン体制成立まで含めればフランス革命が推進した自由主義や国民主義運動の挫折の物語になる。
さらに、一つの出来事において、一つの因果系列自体には必然的な原因と結果があるが、因果系列同士の邂逅は予期せぬ偶然の範疇である。例えば、いわゆる新大陸発見については、インドを目指して大西洋を西進したコロンブスと、長年独自の生活を営んでいたネイティヴ・アメリカンの出会いは、両者にとって思いがけない偶然の遭遇であった。
そして、一つの出来事に対する主体の行為にも無数の選択肢が存在し、個性や自由意志による偶然性が介入する。例えば、坂本龍馬が薩長同盟を思いつくかどうかや、西郷隆盛と桂小五郎が薩長同盟を結ぶかどうか等は、必ずしも機械的な必然性を持たない自由な創造行為である。
つまり、出来事は一因一果ではなく多因多果であり、出来事同士は無限に相互作用し続けるので、歴史は単純化することができない。また、主体は自己保存という点では必然的目的性を持つが、外的環境の変動やそれへの対応には偶然性が介在するので、歴史は合理化することもできない。従って、歴史を機械的に決定付ける唯一絶対の普遍法則はなく、あるのはただ個々の主体がそれぞれの瞬間ごとに、内外の偶然の諸条件に基づいて臨機応変に、生存のためにより望ましい秩序を形成しようと努める自由で多様な実践だけである。
それでは、こうした生命論的世界観に立つ歴史観は、人生においてどのような示唆を与えてくれるのだろうか?
まず、19世紀近代西洋の歴史観の別の代表が、実証史学のランケである。つまりランケは、歴史家は歴史を外部から完全に客観的に観察し記述することが可能であると考えていた。
しかし、本書は、主体と客体の不可分の相関を説く量子力学の不確定性原理を歴史観に適用したと言えるE・H・カーの『歴史とは何か』を引用しつつ、歴史記述には必ず主観性が混入するので純粋に客観的な観察や記述はありえないとする。そして、歴史家のより重要な役割は、客観性を大切にしつつも瑣末主義に陥ることなく、現在的関心に基づき、過去の人々が一寸先は闇の中で試行錯誤しつつ最善を尽くした努力の成果を例示することで、現代人に未知の未来へ果敢に挑む勇気と行動指針を与えることではないかと示唆している。
本書において特筆すべきは、こうした生命論的歴史観が、2011年3月11日の東日本大震災や福島第一原子力発電所事故以後の現実に対する時宜性(アクチュアリティ)を具えていることであろう。すなわち、原発問題について言えば、既に私達はただ一つの選択の差異が偶然の環境変動により文明の存続さえ不可能にする深甚な結果に繋がることを学んでいる。正に、今この瞬間にも私達は日本史や人類史の決定的な分岐点に差し掛かっているかもしれないのであり、私達一人一人の選択行為が――一つ一つは小さくても連鎖的な相乗効果を発揮することで――未来を大きく左右する重要性を持つことを、本書は改めて認識させてくれる。
歴史において、自然は――物質も、生命体も、人間も、社会も――常に秩序を形成し維持しようとするが、やがて内外の変動に対応できなくなると崩壊を始め、同時に混沌の中から自由な創発により一層高度な秩序を形成し始める、非連続的な能動的飛躍を含む不断の生成発展過程である。本書は、激動する21世紀の私達により願わしい未来を切り拓くことを力強く促す「生きた」歴史哲学書と言えるだろう。
※初出 秋丸知貴「小林道憲著『歴史哲学への招待』ミネルヴァ書房・2013年」『比較文明』第30号、比較文明学会、2014年。