人はなぜ「聖母」を求めるのか? そのイメージの成立と展開
宮下規久朗『聖母の美術全史――信仰を育んだイメージ』(ちくま新書・2021年)
今、なぜ「聖母」なのか? それは、苦難の時代には癒しをもたらす普遍的な「母なるもの」のイメージが人々に求められるからである。「聖母」は、コロナ禍の今こそ求心的なテーマである。
著者の宮下氏は、バロック美術研究の第一人者として知られる西洋美術史家である。バロック美術の特徴の一つは、カトリック改革と海外布教のために美しく親しみやすい聖母マリアが盛んに描かれたことである。その点で、本書はこの分野の専門家による聖母像を巡る非常に手堅い研究書であるが、単なる学界向けではなく時代と切り結び多くの人達の心を豊かにしたいと願う強い意志が感じられる。
まず、新書なのに474頁と分厚い。一見して、本格的な学術研究を広く一般読者へ届けようという意欲が鮮明である。また、ほとんど毎ページごとに珍しい写真図版が豊富に掲載されている。平明な語り口と併せて論じられている内容が直感的に分かりやすく、純粋に見て楽しめる書物になっている。
本書が興味深いのは、最新の研究動向を受けて、従来美術史が扱っていた純粋な鑑賞対象としての美術作品だけではなく日常生活上の信仰対象としての聖像画にも注目している点である。そこでは、聖母像の有名な傑作はもちろん素朴で庶民的な護符等が人々に持つ意味合いも深く考察されている。その上で、美術として評価が高まると霊験も強まるという繊細な機制も見逃していない。
書名に「聖母マリア」ではなく「聖母」だけを用いていることは、本書が歴史上の人物であるイエスの母マリアではなく、「聖なる母性」という元型的イメージこそを問題にしていることを示している。元々、聖書にはマリアについての記述は少ない。だからこそ、聖母は大衆的な理想や願望が投影されやすく、常に具体的なイメージで扱われやすく、神ではない存在として偶像崇拝の禁止から逃れやすい上に広く他の土着の女神達とも習合しやすかったといえる。
この観点から本書は、歴史的には最初期のイコンから、中世、ルネサンス、宗教改革、バロック、近代、現代に到る聖母像の変遷を辿る。「受胎告知」「ピエタ」「聖母被昇天」等を始め、聖母に関するあらゆる美術史上の主題の成立過程と大衆心理の両面が詳細に読み解かれている。また、地理的には西洋から中南米や東洋(インド・中国・日本)への伝播と変容までを極めて目配り良く網羅的に調査している。
一読後、聖母像を抜きにして西洋美術史を語ることは不可能であり、正に聖母像こそがあらゆる時代や地域の精神文化の特徴を顕わにする触媒であると感受される。狭義のキリスト教を超えて、「聖母」のイメージがどのように広く現代社会に浸透しているかを分析する手腕も水際立っている。壮大なテーマにもかかわらず、「全史」と銘打たれて全く違和感を覚えさせないことには凄味さえ感じられる。
ここで注目すべきは、聖書では亡くなった故人の状況や安否についての説明が少ないことである。そのため、遺族の悲しみや不安は抽象的で深遠な教義よりもむしろ具体的で身近な存在である聖母像により和らげられ癒されるところが多かったと著者は洞察している。
こうした聖母像によるグリーフケアの効果は、死別の深い悲哀を実体験した人にしか上手く言語化できないはずである。本書がそれを成し得ている理由が、あとがきを読んで感得された。本書は、「精神ある専門家」である著者だからこそ著し得た「喪の仕事」による社会貢献の書である。
※初出 秋丸知貴「宮下規久朗著『聖母の美術全史』ちくま新書・2021年」『週刊読書人』2021年8月20日号。