キュレーションするアーティストの実践と時代の転換点
三木順子監修・編、三木学共編『キュラトリアル・ターン』(昭和堂・2020年)
本書は、2017年、京都工芸繊維大学で開催された国際ラウンドテーブル「批判力のあるキュレーション―アーティストによるその実践」、ナイトセッション「[映像×建築]解釈行為としての創造―アーティストによる実践」をまとめ書籍化したものだ。これらは、同大学の三木順子准教授らによって企画され、建築学とデザイン学の視点から社会的課題と発見と解決に取り組む京都工芸繊維大学のインキュベーション機関KYOTO Design Lab[D-Lab]が主催となり実施された。
国際ラウンドテーブルでは、川俣正、椿昇、藤浩志、日比野克彦といった80年代から広範囲な創作活動を行ってきたアーティストと、哲学者、小林康夫を招いて、三木准教授がモデレーターとなり、なんと5時間にも及ぶ討議が行われたという。本題は、アーティストによるキュレーションとそれがアートや社会にもたらす影響だ。三木准教授は「いまや、アートにおける「創造」のキュレーション的な性格を強め、アートとは何かという問いが、キュレーションとは何かという問いへと必然的に差し向けられていく。「キュラトリアル・ターン(=キュレーション的転回)の時代が到来している」(ⅱ)と述べている。
さらに、その日の晩には、1930年に竣工された、京都工芸繊維大学3号館において、ベルリン在住のニカ・ラディッチによって、建築の外部と内部に映像投影によるインスタレーションが発表された。京都工芸繊維大学3号館は、大学内で最も古く、京都工芸繊維大学の前身である京都高等工芸学校の本館として、日本におけるモダニズム建築の先駆者であり、図案科教授であった本野精吾によって設計された。その建設過程を当時助手であった山崎實が16ミリフィルムで撮影しており、美術工芸資料館に所蔵されている。ニカは、ちょうど京都でレジデンスしており、三木准教授は、建築や記録映像を見てもらった上で、建築を使ったサイト・スペシフィックな映像インスタレーションの制作を依頼したのだ。
それらの企画や調整、実施を牽引した三木准教授のバイタリティには驚くしかないが、実はそれは彼女が企てた企画の第一弾で、第二弾はそれらを元に一冊の書籍にまとめることだった(さらに第三弾として、2020年、アーツ千代田3331で記録を元にした展覧会が実施された)。私はその第二弾のプロジェクトを実施するための、ゲスト編集者ということで、三木准教授に声をかけられた。そして、2018年度、学内外から参加者を集い、[D-Lab]においてワークショップを1年間行いながら、まとめあげていったのだ。
ここでも「キュレーション的転回」に倣い「編集的転回」を試みている。5時間にも及ぶ膨大なテープ起こしを本の構造に組み替えるには、大胆な編集が必要となる。それらの編集の方針は、通常、編集長が示すわけだが、今回はワークショップということもあり、参加者が関心をもった箇所にアンダーラインを引いてもらい、その部分を「京大式カード」で抜き出したりして、電子書籍にある機能をアナログで実施し、「ソーシャル・リーディング」の要素を取り入れて、編集方針を考えるというボトムアップ式の方法を試みたのだ。そして、アート系、建築デザイン系の学生、実務者などのワークショップ参加者を想定読者と重ねながら、彼・彼女らの関心や理解度を把握し、どこを重視し、どこをカットするか編集方針を決めていった。いわば「ソーシャル・エディティング」を部分的に採用している。また、登壇者たちが挙げるキーワードにも膨大な註釈がいるので、それは参加者に案を書いてもらい、後で私が全部、リライトしていくという方法をとった。
国際ラウンドテーブルが開催された2017年当時、2000年に第1回目が開催された「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」以降、日本全国で無数の「芸術祭」が行われるようになり、飽和状態になっていた。そこにおいて、今までのような美術館の学芸員ではなく、地域でワークショップなどの実践を続けてきた、アーティストに白羽の矢が立っていた。そもそも「ホワイト・キューブ」を前提としない空間であり、特徴のある場所や地域の人々を巻き込んでいくようなプログラムのノウハウは、アーティストにしかなかったからだ。そして、芸術監督やキュレーター、さらには美術館の館長などになるケースが増えていた。そのもっとも先端にいたのが、川俣正、椿昇、藤浩志、日比野克彦といった面々であった。
ただし、その隆盛は、地方が一層衰退したことによって、ハコモノすら作れず、安価なアートによる町おこしが求められていたという背景があることを忘れてはならないだろう。彼らも、芸術祭が無限に増殖を続ける状況を、全面的に肯定しているわけではない。椿は、日本の芸術祭はデモクラシーや住民自治がなく、批評性が欠如していると指摘している。また、登壇したアーティストたちは、美術館やギャラリーしか表現の場がない時代から、クリストらのオフ・ミュージアムやプロジェクト型のアートの動向を受け、自身で事を起こす、場を開拓する、ということを貫いているにすぎない。彼らがオルタナティブな活動として80年代からやっていたことの上澄みを得ようとして、全体が追いかけ始めてきたというのが実態だろう。それと日本におけるインディペンデント・キュレーターの台頭が重なり、彼らの今までの活動も「キュレーション」として捉え直されるようになったといえる。
しかし、そのようなことは何時までも続かないと、彼らも感じていた。何かが大きく変わると、研ぎ澄まされた嗅覚でつかみとっていたに違いない。藤や椿が、国際ラウンドテーブルの1年後に追加でわれたインタビューでそれぞれ「サバイバル」を強調していることにその予兆が見て取れる。藤は「文化や芸術は、人々を精神的に豊かにしてくれといわれていますよね。でも、僕は、精神的な豊かさを求める時代はもう終わっていると考えているんです。いまは、どう生き延びていくのかが問題の、サバイバルの時代に入っていると思っています」(p.108)と述べている。
私もまた寄稿した評論の中で、そのような非日常で集中型の「祭り」の時代が近い将来終わり、日常と非日常の間に位置する分散型の「遊び」が重要なになることを示唆していた。その「予言」は完全でないながらも、当たってしまった。2020年の新型コロナウイルスのパンデミックによって、大量に動員を図るいわゆる「ブロックバスター」と言われる展覧会や、観光客を誘致するための芸術祭は軒並み中止となったからだ。今や海外からのアーティストだけではなく、美術品を運搬することもままならない。そして、1年半経ってもその終息は程遠く、今までで一番感染が広まっている状態である。変異株はワクチンをすり抜けることもわかっており、この状態は大なり小なり続いていくだろう。必然的によりオンラインを活用した分散型に形を変えざるを得ないのではないか。
結果的に見れば、芸術祭の最盛期に行われたこのラウンドテーブルをまとめた本書は、その最後の記録になったように思う。「キュラトリアル・ターン」とは、図らずも、新型コロナウイルス感染拡大の以前以後で変わる芸術の転回を予知していたかもしれない。その時、アーティストはどのような形で表現やキュレーションを変更し、実践していくのか。今だからこそ読まれるべき書籍になったのではないか。