他者の感覚を映す万華鏡 大阪府20世紀美術コレクション展「彼我の絵鑑」野原万里絵
2021年3月30日ー4月24日、6月22日ー7月3日
大阪府立江之子島文化芸術創造センター[enoco]
「造形言語」としての画具を使って、協働制作する画家
2021年3月、大阪市住之江区にある、おおさか創造千島財団の依頼を受け、共同スタジオSSK(Super Studio Kitakagaya)のスタジオビジットの取材を行った。その際、入居アーティストの一人である野原万里絵は、3月30日から開催される展覧会のために、大阪府立江之子島文化芸術創造センター[enoco]で制作中とのことで、取材ができなかった。会期中うかがうつもりでいたが、緊急事態宣言が発出され、enocoも府の要請に従い、4月24日(土)に、5月1日(土)の会期末を待たずに閉会してしまった。その後、緊急事態宣言が解除され、特別に6月22日(火)から7月3日(土)まで、会期が延長されることになり、鑑賞することが可能となったので改めて取材を行った。
大阪府は、20世紀後半に制作された約7900点に及ぶ作品を収蔵しており、enocoでは、その活用と展示の可能性を探るため、若手アーティストを招聘して、共同で展示を行う試みを行ってきた。野原はその第三弾のアーティストとして選ばれ、「彼我の絵鑑」というタイトルが名付けられた。「彼我」とは、彼(他者)と我のことであり、「絵鑑」とは鑑定用に画家の特徴を集めた古画帖のことである。
画家である野原は、定規と型紙など自作の画具をつくり、非言語的で抽象的なユニークな形を描く。同時に、各地でワークショップを行い、定規や型紙などの共通の画具を「造形言語」とし、協働して絵をつくり上げていくという独自の方法を採用している。もともと定規は、自身の描いた線を反復させる道具として、アクリル板をカットしてつくられている。それは漫画家の使う雲形定規に似た曲線的なものである。型紙とは、紙や板などから定規部分が抜けた後の鋳型部分を使っている。
ある時、自身の定規や型紙を、他者が使うことで、他者の感覚が混じり、絵の可能性が広がることを発見した。いうなれば、同じ文字でも人によって千差万別の個性が現れるようなものだろう。最初は、自身の家族、友人に使ってもらい、次第に大人数での協働作業を行うようになったという。それらは、多様な感覚を取り込み、あくまで絵の可能性を広げるために行われてきたのだ。言わば同一平面に異なる感覚を並べるようなものであり、「感覚のキュビスム」といえるだろう。ピカソは、視点の異なる多視点的な絵画を発明したが、野原は感覚の違いを、自身の絵に他者が介入してもらう形で絵画にしている。
地域の人々と協働作業をする際、どこまでを参加者の独自性を受け入れるか、そのコントロールが難しい。ワークショップの参加者が楽しむことができたとしても、結果的に完成度が下がれば、後に見る鑑賞者の満足度は得られない。その点、野原は、自身の感覚と身体性を宿す「造形言語」を媒介とし、画具の範囲で感覚の多様性を取り入れ、絵画のクオリティを上げている。そのバランスは、長年の試行錯誤と経験によるものだという。
共感覚と音楽的展示
今回、出展されていた野原の作品の中で、一番大きい壁面をとっていた、《石の肖像‐埋没する継承03-》(2020-2021)は、2020年9月~12月、国際美術センター青森(ACAC)で滞在制作されたものだ。青森県内で集めた石をモチーフに、ワークショップを開催、絵の下地を協働制作したという。つまり、220枚あるパネルの下地の一部を参加者がつくり、図については野原が描くことで、うまく分業されているのだ。このような方法ならば、参加者が多ければ多いほど、多様性が生まれ絵の魅力が上がる。しかも、それらは幾つかのタイプの小さなパネルに独立して描かれており、空間に合わせて再構成することが可能だ。ただし、定規や型紙を使う場合は、下地を野原が描くということもあり、その役割は、テーマによって入れ替わる。
青森では完成した約220枚のパネルを並べて、幅約9メートル、高さ約3メートルに密着して組み合わせて展示された。enocoでは、その中の一部である約30枚を選び、パネルとパネルの間を少し開けて展示されていた。石をモチーフにして描いたパネルを組み合わせて、一つの構築物のように展示する方法は、インドのデリーにある石積みのモスク、「クトゥブ・ミナール」から着想を得たものであるという。クトゥブ・ミナールには、もともとヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院があり、後に偶像崇拝を否定するイスラム教が入ってきたため、それらは破壊され、石材を転用してモスクがつくられたという。そこに感覚の異なる大人数が参加して、高い完成度の構築物をつくるモデルを見出したのだ。
野原の展示を見たとき、色と形が合奏しているように見えた。図の形と地の色が、ある種の個性として独立はしているが、それらが上手くハーモニーとして成立するように配置されているからだ。聞けば、野原はピアノとブラスバンドをやっていたとのことで、多数が参加して、一つの音楽をつくりあげる音楽的感性が展示に反映されていると思えた。自身と他者をつなぐ「楽譜」のような造形言語の採用も、音楽の構造に似ている。協働で創作するためのコミュニケーションのツールとルールを作り、一つの作品にまで昇華する能力に長けている。野原は協働制作を作曲、展示においては、コンダクターとしてふるまっているのではないか。
さらに、野原は、実は絶対音感があるだけではなく、共感覚もあると思われる。共感覚は、人によってタイプは違うが、文字や音などに色が見える場合が多い。野原も文字や音階に色が見えるという。野原のつくる非言語的な形は、実は文字になる以前の未分化な形であり、そこから何か色や音を感じていているのかもしれない。我々はすでに文字を見ると脳の中で発声を想起するようになっているが、文字以前の形にも潜在的な音を感じていてもおかしくはない。神経科学者、V.S.ラマチャンドランが命名した「ブーバ/キキ効果」というものがある。星のような棘のある図形と、棘が丸い図形のどちらが「ブーバ」でどちらが「キキ」か質問したら、母語に関係なく、ほとんどキキを棘の図形、ブーバを丸い図形と回答するという効果のことだ。ラマチャンドランは、それは脳の側頭葉の上端付近に位置する角回に関係し、隠喩の理解を担っていると推測している。
野原のドローイングは、そのような文字以前の形が持つ潜在的な音や色を感覚的に探りながら描かれているのではないか。下地の色や質感は、その形に感覚的に合うかどうかで判断されているように思える。その形(図)と色(地)が、共感覚的な感覚の交差や隠喩をつかさどる脳にタッチするからこそ、意味をなさない形と色に、音やゾワゾワとする感覚を覚えるのではないだろうか。
コレクションとの対話・協働制作
この展覧会では、そのような野原の文字以前の形の探求、他者を入れた多面的な感覚による協働制作を拡張し、コレクションを観察し、さらにコレクションから自身の作品に展開するなどある種の「対話」を繰り返して制作された。
野原は、本展のために特別につくられたブックレットに、「私はいつからか、人の習慣を本で読んだり、ルールやルーティーンにしていることを(特に好きな作家の)メモすることが好きで書いて残している。何か思いついたり、まとまらない考えは、こんな風に手描きでノートに描く習慣がある」と記している。
このノートとは野原が携帯しているもので、2019年にモレスキン製のノートを、黒いカバーから鮮やかな水色のカバーのものに変えて、描いているという。ここに様々なメモやドローイングを描き続けている。そして、「このノートを描きはじめて、制作を続ける手法、もっといえばやめない方法を手に入れた気がしている。描けない時も、このノートに何でもいいから描いてみようと思えば気持ちも楽になるし、何だか安心する。制作するしんどさよりも、描けなくなる方が苦しい」と述べている。
本来、人に見せるものではなかった、野原のノートを、学芸員の河崎由香子が見たことからこの展覧会が展開されている。河崎はコレクションの中にある伊藤継郎のスケッチブックやドローイングを想起し、野原に見せた。そこで、野原はコレクションの背景のある創作のプロセスや背景に関心を持ち、展覧会の2か月前から滞在して、コレクションに対するコメントや模写、ドローイングなどを続けて、滞在制作をしたという。配布されているブックレットは、そのノートを複写し、同色、同サイズにして編集されている。そこには様々な観察の記述が、手描きで描かれており、着目した作品の背景がわかるようになっている。
例えば、上前智祐の《無題》(2001)には、「思わず触りたくなるような、インクの盛りが心地良い温かい質感」と感想を書いており、それに着想を受けて、自身が明日香村で制作した作品と同じ型紙を使って、enocoに行く道中にある剥がれかけの道路標示の「質感」を真似て制作をしている。これらは《計測のペインティング01》、《計測のペインティング02》、《計測のペインティング03》《計測のペインティング04》((いずれも2021)という作品となった。
選ばれたコレクション作品は、野原の作品や関心と重なるところがあり、それが故に展覧会全体を野原がつくりあげ、指揮をした空間として、ハーモニーを奏でている。野原の作品も合わせた多面的な感覚の集合体といってよいだろう。
今回、収蔵品約7900点の中から選ばれた作家は、上前智祐、津高和一、柄澤齊、一原有徳、野村耕、伊藤継郎、須田剋太、金光松美、ニール・ロバーツ、泉茂、李禹煥、井田照一の12名、44点である。20世紀の作品という以外の共通点を挙げれば、野原は「具体的なイメージ、固定化されたイメージがあるものではないところ。作品自体に広がりがあり、四角の外にも遠く空間が広がるような、そんな作品が多い」と記している。それは、そのまま野原の作品の特徴でもあるだろう。
20世紀美術コレクションの活用と展示の可能性という、本展の趣旨は、感覚の多様性を引き出す野原によって、今までにない有機性と生命力を帯びたものとして実現されたのではないか。
観念的にならない自己生成的な描き方
最初に、野原の作品を見て想起したことは、マックス・エルンストや、オートマティスム的なイメージだった。言語化する前の、無意識的な形を、素早く取り出し、固定して、再構成しているように見える。それは今日でいえば、AI(人工知能)のニューラル・ネットワークが作りだすジェネラティブなイメージ、あるいは、生物や細菌との協働によるバイオアートのようなイメージに通じる。すべて自分の意識以外の要素を取り込む方法である。そのことを野原に伝えると、いずれとも違うのは、自分の協働作業は、対話を要し、一人ひとりに異なる感覚があり、個性があることだ、という。あくまで関心のあるのは、異なる人間の感覚ということだろう。その感覚の違いを取り込むことが作品を豊かにしている。
また、先にコンセプトがあって作品を作るのではなく、日々のドローイングで描く形から協働制作や展示へと拡張している。そこには日常の中でドローイングを描き続け、「作品を創る」という意識以前、意味が発生する以前の状態で、形と戯れ、形に導かれながら、発展していくのを楽しむ、描くことの原初的な喜びがある。このノートは観念的にならず、描き続けることを維持するために必要不可欠なものだろう。とかくコンセプチュアルになりがちな現代アートにおいて、この精神を維持していることに驚かされた。神経生理学者のセミール・ゼキは『脳は美をいかに感じるか』(日本経済新聞社、2002年)で、神経生理学的な観点から、モダンアートの画家の脳の使い方を分析しているが、野原も描くことに対して抑圧がかからない脳の使い方を開発しているのではないか。
おそらく、それが可能なのは、すでに自由度を失った形ではなく、意味以前の未分化な形を求める感覚、我彼を分けずに取り込んでいく姿勢、あるいは分けながらも、統合して合奏を楽しむ感性にあるのではないかと思える。ブックレットは鑑賞者が野原の視点を知り、自身の視点に気付く、よきナビゲーションになっている。
コンセプチュアルな方法だけでは息詰まることがある。まったく逆のアプローチで、自分と他者の感覚をクロスオーバーさせ、「自然体」で描く野原の方法が、どう変遷を続けるのか、今後の展開を期待したい。
※本展の野原万里絵作品以外は全て「大阪府20世紀美術コレクション」である。