近代化する女性を後押しした大正~昭和初期の先駆的デザイン『MOGA モダンガール』
大正時代~昭和初期、大阪にプラトン社という伝説的な出版社があった。伝説的と冠がつくのは、わずか6年で廃業したこと、その短い期間の間に、直木三十五や川口松太郎が編集部に在籍し、当時一流の作家が寄稿した『女性』『苦楽』などの雑誌を発刊したこと、山六郎、山名文夫をはじめとした図案家(グラフィックデザイナー)、和田邦坊、岩田専太郎ら漫画家・挿絵画家(イラストレーター)といった日本のデザイン史に燦然と輝くクリエイターが社員として集っていたことなどが挙げられる。
本書は、プラトン社に関わるデザイナー・イラストレーターと、その親会社にあたる化粧品会社、中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)に所属するデザイナーが広告やポスター、パッケージデザインなどに描いた「モダンガール」をテーマにしたデザイン書である。プラトン社は、近年、永美太郎の漫画『エコール・ド・プラトーン』で描かれたりしたので、ご存知の方もいるかもしれない。中山太陽堂堂(現・クラブコスメチックス)は、かつて「西のクラブ、東のレート」と言われ、当時「クラブ化粧品」のシリーズで一世を風靡した化粧品会社で、現在でも続く老舗である。創業者の中山太一は、飛行機や車、博覧会、雑誌など、現在でいうメディアミックスによる広告戦略で「広告王」とも言われた人物だ。
プラトン社の雑誌は、その名前を知っている方でも、中面のレイアウトやカット、挿絵がどのようなものだったのか知る人は少ないので、本書ではそのエッセンスがコンパクトにまとめられていて、イメージがつかみやすいだろう。『女性』や『苦楽』は、当時としたらかなり「ハイブロウ」で先端だったので、古びて見えないように配色やレイアウトも工夫されている。
また、親会社の中山太陽堂の戦前のデザインについてここまで紹介されたことはないだろう。本書は、クラブコスメチックスの全面協力を得ているので、パッケージデザインからポスター、チラシに至るまで一挙に掲載されている。在籍していたデザイナーも中山太陽堂とプラトン社と両方のデザインを手掛けるケースはあったため、見比べることで、共通点と差異が浮かび上がっている。
「モダンガール」(略称モガ・MOGA)は、大正末期から街に登場した、職業婦人や女学生などの、外に出た女性たちで、短髪で洋装を着こなし、帽子をかぶったイメージを見たことがある人もいるだろう。中山太陽堂やプラトン社のデザインでは、そのような「モダンガール」が積極的に描かれた。街に外出するには、ファッションや化粧品が重要であったことも無関係ではない。中山太陽堂は、そのようなビジュアルイメージを積極的に宣伝し、また内面を育む教養として雑誌や書籍を刊行していたともいえる。
本書には、一時期、中山太陽堂のデザイン顧問として、デザインを行った東郷青児の四コマ漫画や、岡本一平の漫画なども掲載されおり、漫画の要素があったことも指摘しておきたい。
なかでも、もっとも後に影響を与えたのは山名文夫だろう。山名文夫は、プラトン社が廃業した後、資生堂に席を移し、資生堂の初期のブランドイメージを確立させ、後に日本工房へ参加して雑誌『NIPPON』のエディトリアルデザインをしたり、戦後は多摩美術大学で教鞭をとったり、日本宣伝美術会(日宣美)を立ち上げるなど、山名自身の人生がモダンデザインを体現していたといえる。
これほど業績を残した山名であるが、実はデザインの専門教育を受けていない。現在のデザイン、図案の高等教育を受けた人もまだまだ少ない時代である。しかしプラトン社では、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)でデザイン教育を受けている山六郎が活躍していた。山六郎は、中山太陽堂に所属し、プラトン社には出向している状態であったが、後に移籍した。山六郎は、オーブリー・ビアズリーを彷彿させる繊細なペン画で、『女性』に洋風のセンスと品格を与えていた。また、『女性』というタイトルロゴのレタリングも手掛けており、漢字を欧文風にデザインする先駆例をつくった。さらにカットや装丁に至るまで、マルチなデザインの才能と技量をもっていたのだ。
山名は、山六郎と一緒に仕事をするなかで、実践的にデザインを習熟していった。プラトン社は山名や多くのデザイナーにとって、ひとつの実践的学校であったといえる。山名の成長の軌跡がみられることも本書の魅力だろう。アールヌーボーからアールデコにデザインの流行が変わる時期にあたり、専門教育を受けてないこともあり、簡素な線で仕上げる山名の描く女性は、逆に時代の気分にあった。洋風から和風の雰囲気を取り入れ、山名の「モダンガール」は、雑誌のアイコンとなり、女性の憧れとなっていくのだ。
プラトン社の刊行した雑誌には文芸雑誌『女性』と娯楽雑誌『苦楽』が対としてあり、今で言うところの純文学と大衆文学の両方をカバーしていた。劇作家・演出家の小山内薫がプラトン社の編集顧問につき、『女性』には芥川龍之介、泉鏡花、田山花袋、永井荷風、野口雨情、武者小路実篤、与謝野晶子など当時一流の作家が寄稿していく。
特に、小山内と谷崎潤一郎は、震災後に関西に移住した谷崎を小山内が支援するほどの関係であり、谷崎も『女性』に寄稿している。なかでも大阪朝日新聞社で連載していた『痴人の愛』は、当局の検閲により中断されたため、『女性』で連載継続された。『痴人の愛』に出てくるナオミは、「モダンガール」の先駆的イメージでもあった。また、「モダンガール」の命名者と言われる、北澤秀一もモダンガールについての論考を寄稿しており、『女性』は、まさに「モダンガール」の発信元だったといっても過言ではない。
直木三十五と川口松太郎もまた震災後関西に移り住み、プラトン社に入社する。そして震災の翌年に発行する大衆娯楽誌『苦楽』の編集を行った。直木は原稿の執筆も行い、大衆文学の礎を築いていった。直木の死後、友人の菊池寛がつくった大衆文学のための賞が「直木三十五賞」である。その記念すべき第1回目の受賞者は、川口松太郎であることからも、『苦楽』がいかに大衆文学に果たした役割が大きいかわかるだろう。『苦楽』においても、多くのイラストレーター、挿絵画家が「モダンガール」を描いた。
谷崎や直木、川口をはじめとして、関東大震災で東京の作家が、関西に避難したり、移住したことにより、プラトン社をプラットフォームとして関東と関西の文化が交わっていったことも見逃せない。「阪神間モダニズム」や1925年に市域を拡張したことで「大大阪」と言われた時代の文化は、そのような文化交流の中で育まれた。
大正末、現在の女性の原点ともいえる「モダンガール」が誕生する時期、中山太陽堂やプラトン社は外面と内面の両方から後押ししている。「女性」という言葉すら目新しかった時代に、多くの「モダンガール」を描いた中山太陽堂・プラトン社がいかに先駆的であったか、デザインを通して見えてくるだろう。このようなクリエイターにとって自由な創造の場が、大阪にあったことも改めて覚えておいた方がいいだろう。