世界と美的=根源的に向き合う映像論
三浦均著『映像のフュシス』(武蔵野美術大学出版局・2020年)
秋丸 知貴
分類の難しい本である。強いて言えば、理系と文系を架橋する「美系」の本である。
周知の通り、学問の二大体系としては理系と文系がある。基本的に、前者が客観的であるのに対し後者は主観的という相違がある。1959年に、C・P・スノーは『二つの文化と科学革命』で近代的学問における理系と文系の断絶を嘆いた。さらに、今や理系の中でも細分化が進み、各専門の相互交流は極めて困難である。
しかし、そもそも理系/文系の区別や専門分化は、人間が自然を利用する際の目先の都合に過ぎず、本来あるがままの自然はもっと豊穣で神秘的ではないだろうか。そうした理系と文系の分裂以前の自然の「センス・オブ・ワンダー」(R・カーソン)を丸ごと美的に描き出したのがレオナルド・ダ・ヴィンチの映像世界だったといえる。本書の目指す道も、ここにある。
思弁の恣意性を避けるために、出発点は自然科学で良いだろう。例えば、夕陽に対する感傷は人さまざまだが、傾いた太陽光のうち最も波長の長い赤い光が最も大気による散乱が少なく目に届くと説明されれば夕焼けという現象は普遍的に理解できる。そこで闡明されるのは、主観的心理の投影を超えた客観的実在の秩序である。そこでは、私達は外的自然(フュシス)としての宇宙の構造に美的な感動を覚えるだろう。
しかし、それだけならよくある啓蒙的な科学解説書と同じである。本書が独特なのは、その一方でG・バシュラールを引いて「知覚によって提供されたイメージを歪曲する能力」としての「想像力」の働きにも目を配ることである。例えば、自分が生まれ育った町並みは時代と共に移り変わり失われていく。客観的な自然科学の用語で言えば、それはただ単に時間が経過し物質的構造が変化しただけである。しかし、そこで生活した人間にとっては、主観的な記憶の中の暮れなずむ町並みはかけがえのない意味合いと輝きを有している。そこでは、私達は内的自然(フュシス)としての人間の心情に美的な感動を覚えるだろう。
興味深いことは、自然科学の技術的応用である電算映像(コンピュータ・グラフィックス)は世界をデジタル状に分解するにもかかわらず、その純粋な演算処理が外的自然の内在的秩序を垣間見させることである。そこに、内的自然としての生命を持つ作家の情感が結合するとき、動画の中に人為を超えた美が自ずから生成することがある。本書の表紙・帯や扉の挿絵に用いられている映像作家としての著者の代表作《SnowⅡ.》は、正にそうした「映像のフュシス(フュシス・イン・イメージズ)」の典型例と言えるだろう。
帯文に書かれているように、本書は自然科学者でありながら人文学的感受性を発揮した寺田寅彦や中谷宇吉郎の科学エッセイの系譜に属している。さらに筆者は、科学的世界観がいつの間にか童話的に変容(イマジネーション)していく宮沢賢治の詩集も連想した。本書は、理系と文系を往還する科学的詩人の国境旅行記であり、より根源的かつ瑞々しい目で世界と向き合うための古くて新しい認識論の書である。
※初出 秋丸知貴「三浦均『映像のフュシス』武蔵野美術大学出版局・2020年」2020年5月22日号。