アップデートされた21世紀の美学事典「美学会編『美学の事典』丸善出版・2020年」秋丸知貴評

美的諸事象をめぐる論理的考察の最前線

美学会編『美学の事典』(丸善出版・2020年)

秋丸 知貴

美学とは何か。古代ギリシャ以来の価値の三領域を真・善・美とした場合に、真を扱うのが哲学、善を扱うのが倫理学、美を扱うのが美学である。従って、基本的に西洋の哲学者は、哲学と倫理学だけではなく自らの思想体系を完成させるために美学も著している。カント、ヘーゲル、マルクス、ハイデガー等は、いずれも優れた「美学者」である。その意味では、美学こそ一流の哲学者の証ともいえる。

興味深いことに、世界で最初に大学に美学を独立した一部門として設立したのは、「古(いにしえ)より今にいたるまで哲学なし」(中江兆民)の日本である。実際に、最も早いのは1899(明治32)年の東京帝国大学の美学講座である。このことは、やはり古来日本が論理よりも感性を大切にする精神風土であり、思索の対象にも美を率先して選ぶからではないかと想像させる。そうした特権的な日本的美意識の称揚が政治的に利用されやすい危険性(本書でも随所で指摘されている)には十分に留意した上で、それでもやはり日本の哲学的コアは美学にこそあるのではないかと考える由縁である(なお、兆民が翻訳した『維氏美学』が訳語「美学」のルーツである)。

既に、日本では1974年に『増補版 美学事典』が出版されており、この学問の基礎研究として極めて高水準で完成されているので類書はもう出ないだろうと思われていた。しかし、約半世紀の時代の推移を受け、様々な社会的要求に応えるために、専門学会である美学会が吉岡洋現会長を中心に総力を結集し満を持して上梓したのが本書である。その最大の特徴と魅力は、美に関する古典的理論を十全に消化した上で、全章において最先端の今日的なトピックを網羅している点にある。それぞれの項目の執筆者は当代の第一人者であり、各自が最新の研究成果を濃密に凝縮した豪華研究論文集の趣がある。

元々「美学」は、18世紀半ばに西洋で成立した特殊歴史的な学問である。従って、まだ300年も経ていない若い学問であり、しかも現実の変化に合わせて現在もその対象領域は変容し続けている。つまり、ヴァルター・ベンヤミンのいう「礼拝価値」から「展示価値」への重心移行は、美学の考察対象の発展拡大――聖から美へ、さらにイメージへ――とも連動している。本書の斬新で練り込まれた章構成も、この事情を反映している。

第1章から第8章まで、「美学理論」「美術史」「現代芸術」「音楽」「映画」「写真・映像」「ポピュラーカルチャー」「社会と美学」と並ぶ。一見して分かるように、講壇だけに留まらずに現代社会の生きた動向と直に切り結ぼうとする意欲が鮮明である。各章とも編集担当者の知的センスの良さが隅々にまで感じられ、どの項目も同時代の美的事象に関心を持った時に最初に手に取るべき最適な導入になっている。付録は後続の学徒のための優れた研究案内であり、学問的発展のための配慮も行き届いている。

個々の記述の基調としては、21世紀における芸術文化の拡散と再編成への対応が如実に感じられる。つまり、IT技術と資本主義とグローバリズムの急進展を受けて、各分野で古典的な規範や権威に対する日常性や現代性からの批判的再解釈が進んでいる。顕著なのは、近代西洋的一元化に対するポストモダン的な脱構築や非西洋的・東アジア的な多様性への注目である。特に、近代西洋的「芸術」概念に回収されない伝統日本的「芸能・芸道」の再評価の気運は、主体的な国際的文化交流の可能性を秘めるものとして極めて興味深い。そもそも、美学事典を古典から新たにアップデートしようとする本書の出版自体がこの流れに掉さすものといえる。

本書の内容について、2つ補足しておきたい。

1つは、本書に記されている近代西洋的「芸術」概念の成立を纏めると次のようになるのではないかということである。つまり、古代ギリシャにおいては、何かを人為的に達成する「術」は「知」も含んでいた。この「術知」は、古代ギリシャでは「テクネー」、古代ローマでは「アルス」と呼ばれていた。この「術知」から、ルネサンス以後の合理的精神の発達を受けて、17世紀の科学革命で「知」が数量性に基づく「科学(サイエンス)」として再編されて独立し、これに結合可能な合理的に反復可能な術が「技術(テクニック)」として分離した時に、残った術が次第に「芸術(アート)」と概念化されるようになったのではないだろうか?

もう1つは、紙数の都合だと思われるが、残念ながら現在のメディア論の最重要の美学概念であるベンヤミンの「アウラ」の内容が具体的に解読されていないことである。個人的には、筆者が2010年に美学会の全国大会で発表した「主体と客体の相互作用により相互に生じる変化、及び相互に宿るその時間的全蓄積」という読解や、移動機械や視聴機械による「アウラの凋落」が近代絵画における抽象化に反映していること(「セザンヌと蒸気鉄道」等)をぜひ取り上げて欲しかった。

※初出 秋丸知貴「美学会編『美学の事典』丸善出版・2020年」『週刊読書人』2021年4月2日号。

評者: (AKIMARU Tomoki)

博士(学術)/美学・美術史・死生学・メディア論
1997年 多摩美術大学美術学部芸術学科卒業
1998年 インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了
2001年 大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了
2009年 京都造形芸術大学大学院芸術研究科美術史専修博士課程単位取得満期退学(2011年度学術博士)
2009年4月~2010年9月 日図デザイン博物館学芸員
2010年4月~2012年3月 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月~2013年3月 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月~2016年3月 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月~ 滋賀医科大学非常勤講師
2017年9月~ 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月~ 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月~ 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
博士論文を基にした主著『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房・2013年)で、2014年度の比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)を受賞。

(『週刊読書人』WEBでも書評を掲載中 https://dokushojin.com/)

http://tomokiakimaru.web.fc2.com/

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