エドワード・マイブリッジが開いたハリウッドとシリコンバレー
神代からの「災難教育」が日本人を日本人たらしめたと書いたのは寺田寅彦であったが、そのような災害の多い所謂「悪い場所」であることに加え、covid-19及びその変異株という病原体、さらにはこの季節に増えていく気象災害に連年見舞われている日本で、地域的な災害においてテンポラリーに生起する相互扶助の共同体の通常ではあり得ない優しさや献身の非日常的な高まりと実践を描いた『災害ユートピア』が幅広い層に受容されたレベッカ・ソルニット。Metoo運動の魁と先鞭となり、トランプ退陣へと繋がる一連の気運に寄与した『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』『説教したがる男たち』『それを,真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力』『シンデレラ: 自由をよぶひと』といったフェミニズムに根差したアクティビストとしての一連の著作でも知られる彼女の多面的な思想の核の一つに邦訳された『暗闇のなかの希望:非暴力からはじまる新しい時代』や『ウォークス 歩くことの精神史』に見ることのできる歴史家としての顔がある。しかし、彼女の主著にして2004年の全米批評家協会賞とマーク・リントン歴史賞を受賞した”River of Shadows: Eadweard Muybridge and the Technological Wild West”は未だに邦訳されていない。本書は写真や映像の歴史に触れた者なら誰もが知っている写真家エドワード・マイブリッジの物語を通して、カリフォルニアが19世紀後半に始まる技術的および文化的革新の中心となることを可能にした理由を探っている。南北戦争後の重苦しい空気の中で、カリフォルニアの独特の自由と機会に満ちた場が、現代社会を最も強力に定義している2つの産業である、映画産業のハリウッドとITを中心としたテック企業の集積地であるシリコンバレーに直接つながったことを示し、その原点にある技術と文化の起点としてのマイブリッジと鉄道王リーランド・スタンフォードらの営みを通して日常生活の加速と工業化の物語が語られる。
私は本書を読んではいなかったが、2013年にパロアルトに滞在した際に、上と同じ直感に従って、以下に転載する記事を書いた。単なる通りすがりの旅行者の感想にしか過ぎない拙い紀行文を本書と比す気はもとより無い。しかしながら、奇妙な偶然と一抹の共通性を感じるにつき、本稿を転載するにあたり、不遜ではあれど本書を関連図書として挙げさせていただこうと思う。しかしながら、これだけ翻訳も多く広く知られた作家の主著と目されている本作に翻訳がないのは、写真史の重要性やアクチュアリティが日本の言論界や出版界では全く蔑ろにされている現状を示しているだろう。”暗闇のなかに希望”が灯る日を信じて、1日も早い邦訳を待ちたいと思う。
River of Shadows: Eadweard Muybridge and the Technological Wild West (English Edition)
初出2013年10月【shadowtimes】Vol.49 《Days and Lights》Post.24
「スタンフォードの馬」
モンゴルから日本に帰り、その余韻も覚めぬ内に、私はサンフランシスコへと飛んだ。空港には昼過ぎに着いた。光の強さはモンゴルによく似ている。空気が乾燥しているのだ。お世話になるシリコンバレーのNさんのお宅への途中、スタンフォード大学を見学した。
サンフランシスコは元々移民の街だ。東洋系の顔立ちをした人も多い。新学期が始まったばかりのスタンフォード大学の中もアジア系らしき人が目立つ。全てが学生や職員というわけではなく、屋外にいる人の多くは観光客だ。サンフランシスコから1時間ほど離れた大学にわざわざ観光に来るのだから大したものである。やはり世界的な名門校だな、と感心していた。後日知り合ったシリコンバレーの人たちからは、ヒューレットさんとパッカードさんが成功するまでは誰も行きたがらない田舎の学校だったと聞かされて、意外な思いがした。
このあたりの昔からの名門校はサンフランシスコの東にある、カリフォルニア大学のバークレイ校のようだ。しかし、様々な世界企業の本社が周辺に立ち並ぶ現在のスタンフォード大学は、他の主要大学と同様に世界中からの留学生であふれている。そのような大学のダイバーシティ化が生む競争力については日本の大学も注目し、改革に着手しているところもある。
正面から真っ直ぐに延びた道を進む。芝生にはロダンの彫刻が置かれている。
進行方向にはスペインやイタリアの町並みを思わせるレンガ作りの屋根付きの回廊がある。
回廊の向こうには、教会がある。正面からの直線の道を遮るように中央に鎮座する。この教会は大学の創設者でありカリフォルニア州知事を務めた鉄道王、リーランド・スタンフォードの息子のためのものだ。
スタンフォードは一人息子の長男に後継者に相応しい教育を受けさせるための資金を用意していた。しかし息子は旅行中にチフスにかかり15歳で急逝。悲嘆にくれたスタンフォードはその資金を基に大学を設立した。息子の名前を永遠に残すため、リーランド・スタンフォード・ジュニア大学というのが正式名称だ。そしてリーランドJr.を悼むために家族によって作られたのがこの教会である。ここを目印にいくつかの施設を見学し、フーバータワーから追い出されたところでその日は時間切れとなった。
学内を巡る内に思い出されることがあった。スタンフォード大学の敷地は元々、競走馬を育てるための場所で、地名をとってパロ・アルトの牧場と呼ばれていた。実はそこは、写真と映像の歴史とは切っても切れない場所だったのだ。
ご存知の方は申し訳ないが、しばらく説明にお付き合い願いたい。
西洋では長らく、馬が走っているときの四本の脚の位置はどこにあるか?という論争が行われていた。ジェリコーの絵画などをみると、馬の脚は揃った形で延ばされ、あたかも馬が脚を前後に広げて空を飛んでいるかのようである。しかし、実際には疾走する馬の脚の位置を人間の肉眼がはっきりと認識することは出来なかった。特に四本の脚が地上から完全に離れる瞬間があるのかどうかが問題で、スタンフォードは友人とそれについて賭けをしていた。そのため、馬の走る様子を写真に捉えるように依頼されたのが、イギリス出身の写真家エドワード・マイブリッジだった。
1873年に実験は開始された。高速シャッターを切れるだけの感材の開発などの試行錯誤の後に、1878年には30台ほどの木製カメラを等間隔に並べ、走路に張ったワイヤーに馬が触れる度にそれぞれのカメラのシャッターが切れることで連続的な写真をとることに成功。
写真を元に描いた絵はゾーエトロープやゾープラシスコープといった映像装置に使わた。サンフランシスコでの上映を始め、マイブリッジのパリやロンドンでの講演旅行も好評であった。1886年には発明王エジソンと会っており、エジソンがその連続写真を見たことが、キネトスコープの発明とその後のシネマトグラフ、つまりは映画の誕生につながったと言われている。
1887年には様々な動物や人間の動きを連続的に捉えた写真集『アニマル・ロコモーション』を出版。この写真集は欧米で非常な評判となり、人間の眼を超えた、写真の科学的な記録と計測能力が実証されたのと同時に、それまでの知覚では得られなかった連続画像による生物学・医学・生理学など様々な分野への影響、さらには新たな時間感覚と動態認識を人類全体に開くこととなった。
そのような実験と撮影が最初に行われた場所であるスタンフォードに来た以上、その痕跡を求めないわけにはいかなかった。
後日、大学にお勤めの方に聞くと、確かに馬はいるとのことでご案内頂いた。
それは教会や校舎の集まるエリアからは離れた奥まった場所にあった。広めの厩舎が一棟、その奥に競馬場を少し小さくしたくらいの馬術場がある。周囲に馬を一頭ずつ入れておく柵に囲まれた馬場があり、のんびりと数頭が干し草を食べたり、歩き回ったりしている。北海道などの競走馬のファームよりは狭いが、大学では贅沢すぎるくらいの大きさだ。
さらに奥には屋根付きの馬術場があり、数人の学生が練習中であった。馬は敏感で繊細な動物である。馬術の邪魔をしないように柵の方に戻り、再び休んでいる馬たちを眺めて廻った。
しばらくして外の路に面した木陰に何やらモニュメントのようなものがあるのを見つけた。近づいてみると、それはまさにマイブリッジの捉えた馬の全ての脚が地面から離れた瞬間を記録した写真から作られた銅像だった。しっぽの部分がやけに長くて、うっかりぶつかりそうになる。プレートにはもちろんマイブリッジによる連続撮影の成功や世界初のモーションピクチャーの撮られた場所であることなどが刻まれている。
私はある種の写真と映像の起源の場所に触れたという感慨にふけりながら、静かに何枚もシャッターを切った。木陰に涼やかな風が吹く。以前撮影した北海道のサラブレッドや木曽や東北の馬たち、そしてまだ記憶に新しいモンゴルの草原を走る馬たちのことが脳裏に浮かんでは消えた。
映画の誕生に繋がった撮影の成功にはスタンフォードの科学者の協力が必要だった。それは今から考えれば非常に素朴な技術であり、単純な発明だったかもしれない。だがそれが世界を変えるような装置と現在の我々の日常にあふれる様々な映像や映画の原点となっている。
多くのITベンチャーを生み出し続ける現在のスタンフォード大学やその周辺のシリコンバレーには、マイブリッジが実験を行ったパロ・アルトの牧場からのイノベーションと産業化の磁場が今も強く鳴り響いているように感じられた。