一人で日本の戦後史を撮影した写真家 報道写真家・浜口タカシ「ドキュメントアングル」入江泰吉記念奈良市写真美術館 三木学評

入江泰吉記念奈良市写真美術館

報道写真家・浜口タカシ「ドキュメントアングル」
会期:2025年4月12日(土)~6月15日(日)
会場:入江泰吉記念奈良市写真美術館 

 4月12日、入江泰吉記念奈良市写真美術館で開催されている浜口タカシ展のトークイベントに招聘され、館長の大西洋さんとご息女の浜口隆子さんと鼎談する機会を得た。

浜口タカシ(1931-2018)に関してそこまで詳しくなかったため、急遽、写真集を買い集め改めてその足跡をたどることにした。浜口は「報道写真家」として知られている。日本はアマチュアカメラマンの層が厚く、プロと連続性があるのが特徴といえる。それらはかつてカメラ雑誌や全国の写真クラブを通して人的にも交流があり、全国的に裾野を広げていたといえるだろう。

会場展示風景

浜口もその豊かな裾野の一角にいたといえるが、「報道写真家」として、たった一人で戦後日本の社会的事件・事故を網羅するほどの大仕事をなした。しかし、浜口の基盤はジャーナリズムにあるわけではない。関西で写真材料店に勤務した後、1955年に横浜で写真機店を開業して以来、写真機店を経営しながら、個人的な表現として「報道写真」を撮り続けてきた。「マグナム・フォト」のような報道写真家のエージェンシーに属して、メディアに写真を売ることを主な糧にしてきたわけではない。

ただし、日本の写真文化は、カメラメーカーと新聞社と各地の写真愛好家が緩やかにつながっており、なかでも「報道」という分野は、プロのカメラマンが補えない部分を補完する役割を、アマチュアカメラマンが担っていたといってもよい。実際、1951年に設立された日本報道写真家連盟(2021年解散)は、1951年の桜井駅構内で起きた大規模な列車火災事故(死者106人、負傷者92人)、「桜木町事故」を居合わせたアマチュアカメラマンが撮影し、「特ダネ」が毎日新聞に掲載されたことをきっかけに設立されている。浜口もそのような機運の中、1956年に日本報道写真連盟に加入し、報道写真家として活動を始めた。

1963年には、全日本毎日写真コンテスト総理大臣賞(『新潟大地震』)、1964年にはアサヒペンタックス国際写真コンテンスト特選、1965年にはアサヒカメラ「日本の姿」第一位(『基地周辺きょうもまた』)、1968年には二科展推薦賞(『基地‘68』)を受賞している。1968年には、日本報道写真連盟から、1959年から1968年までの報道写真をまとめた写真集『記録と瞬間』を刊行している。その時点で、すでにサハリンからの引揚者、新潟地震、新幹線開通、オリンピック、青函トンネル、吉田首相の国葬、成田新国際空港問題、全学連、新宿デモ、原爆の傷跡といった、戦後史の事件・事故・災害を一人で撮影している。

ただし、浜口の場合、もともと「報道写真」をはじめた動機は、自身の写真機店のウィンドーに「見本」として記念写真や結婚式写真のようなものではなく、自身が撮影したちょっとした「事件」を飾ったところから始まっている。それが評判となった。つまり店舗のウィンドーが浜口個人の報道メディアとなっていたといえるだろう。それは今日でいえば、SNSやブログといった感覚に近いのかもしれない。

そのようなことで報道写真を撮りはじめ、たまたま1959年に皇太子成婚パレードの投石事件を撮影し、雑誌に掲載されたことから報道写真家として本格的に活動を開始することになる。それも偶然に立ち会って撮影されたものだが、写真家の、特に報道写真家の力の多くの部分が、偶然を引き寄せる力といっても過言ではなく、その意味では浜口は天賦の才を持っていたといえる。

《学生運動 小休止》1970年

今回、「三里塚 成田闘争」、「70年代学生闘争」、「宝石の海」(九十九里浜のイワシ漁の光景)の3部を中心に展示された。特に1970年に日比谷公園で撮影した学生運動の写真《学生運動 小休止》は、機動隊に盾越しからタバコを差し出している瞬間を捉えており、1967年10月21日、ベトナム反戦運動のデモに参加した若者が、兵士のライフルの銃身にカーネーションを差しているシーンを捉えた、バニー・ボストンの《フラワーパワー(Flower Power)》との類似性が指摘されている。近年の大西らによる海外への紹介によってプロテストをテーマにした写真の中で大きな話題となった。

1965年、ビート・ジェネレーションの作家アレン・ギンズバーグが政治家や警察などに花を手渡すことで、暴力に対して平和で抵抗することを提唱しており、1967年の夏に起きた「サマー・オブ・ラブ」では花柄を着たヒッピーたちが、全米各地で集合していた。それらは、「フラワー・ムーブメント」と呼ばれるようになる。1968年5月には、パリで大規模な学生運動が起り、日本にも波及し、全共闘運動にも大きな影響を与えた。浜田は同時代的な学生の動きを捉えていたといってよい。

学生闘争シリーズ 展示風景

成田闘争や学生運動といった体制批判、社会批判的な運動を捉えたシリーズも多いので、浜田自身がそのような体制批判や強い社会正義の思想を持っていたと思われるかもしれないが、写真をつぶさに見ていくと必ずしもそうではないことがわかる。社会の縮図として人々が集まっていることに対しての関心であり、人々への共感があると感じる。しかしそのいわゆる「反体制」の人たちの想いだけに寄り添っているということではないように思える。例えば機動隊の方にも人格や生活があることを理解している。敵味方という発想ではないのだ。もし予め何かを訴えるためだけに撮影していたならば撮れないタイプの写真が多いのだ。

三里塚 成田闘争シリーズ 展示風景

浜口は、小学校などの記念撮影の仕事も引き受けていたようだが、むしろ記念写真を撮るような感覚で、社会的な事件も捉えているといった感じだろうか。そのような姿勢によって、思想や使命、あるいは仕事として撮影した写真から見られないような、互いの人格や日常性が垣間見られるのだ。それが浜口の写真を、社会的事件や事故を取り扱った「報道写真」からズレたユニークなものにしているように思える。

宝石の海シリーズ 展示風景

写真評論家の田中雅夫は、「浜口タカシは社会のアマチュアカメラマンとして活発な活動をはじめるわけであるが、なによりも特長的なことは、社会のなかに生起する各種の事件や出来ごとを知覚する触覚の鋭さであり、それを直ちにカメラワーク化する行動性のたくましさである。感じで、考えて、撮影にかかるのではなく、感じて、撮ってしまうのである。しかし、考えるというプロセスの省略が彼の場合は内容の密度をそこなうのではなく、逆にますという結果に結びつく。このあたりの一種の天性のようなものを感じられるのだ。」[i]と指摘している。使用していたカメラも基本的に35ミリカメラ2台であり、1台を広角、1台を標準と望遠にして、機動性を重視していた。

そもそもなぜ即お金にならない報道写真を撮り続けていたのか?ちょうど奥様も来られていて、事件が起きると何日も出かけて、写真機の販売やプリントの仕事をかなり負担していたエピソードを教えてくれた。

浜口は実は戦災孤児で、両親や家族とのつながりがわからないという。そのような大きな歴史的、社会的な事件に巻き込まれ失ったものを、自身が社会的事件に立ち会い写真を撮ることで埋めようとしていたのではないか。そんなふうにも思えてくる。

撮影した大量のネガフィルム

浜口が使用していたカメラと制作した写真集など

浜口は、成田闘争を12年間撮り続けて、農民支援からイデオロギー対立に発展し、日本人同士が憎み合い死傷者が出るという醜い状況を見て、一時人間が嫌になり、広大な自然のある北海道に撮影に行く。それが『北海賛歌』(くもん出版、1985年)である。しかし北海道でも雄大な景色だけを撮るというわけではなく、漁や極寒の厳しい生活を撮影しており、あくまで関心が人間にあることがわかる。富士山の写真も撮影しているが、それは撮影のモチーフとなった中国残留孤児の人達に無償であげるために撮影を始めている『富士山天地』(日本カメラ社、1997年)中国残留孤児には、戦災児であった自分を投影するものもあっただろう。今回富士山のシリーズや、残された資料群も展示された。浜口の仕事で一貫しているのは、社会的事件を通した人間の本質への関心と、深い所にある人間愛といえるかもしれない。

誰もがスマートフォンを持ち、写真があふれている現在、浜口のような報道写真家はもう現れないかもしれない。しかし、いくら誰もがカメラを持ったとしても、撮れない対象との関係性がある。浜口のような報道写真家しか、引き寄せられない出来事というのは確実にあるのだ。浜口という写真家がいるからこそ、戦後の日本の歴史が見えてくることがある。一人の著者が歴史書を書くように、一人で戦後史を撮った写真家ということもできるだろう。そこにはわたしたちが失ったことでさえ気づいていなかった、様々な人や街や風景が克明に写されているのだ。

[i] 浜口タカシ『記録と瞬間』日本報道写真連盟、1968年、p.126。

 

 

 

三木 学

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。 独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。 共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹─色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。 美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員、大阪府万博記念公園運営審議委員。 Manabu Miki is a writer, editor, researcher, and software planner. Through his unique research into image and colour, he has worked in writing and editing within and across genres such as contemporary art, architecture, photography and music, while creating exhibitions and developing software. His co-edited books include ”Dai-Osaka Modern Architecture ”(2007, Seigensha), ”Colorscape de France”(2014, Seigensha), ”Modern Architecture in Osaka 1945-1973” (2019, Seigensha) and ”Reimaging Curation” (2020, Showado). His recent exhibitions and curatorial projects include “A Rainbow of Artists: The Aichi Triennale Colorscape”, Aichi Triennale 2016 (Aichi Prefectural Museum of Art, 2016) and “New Phantasmagoria” (Kyoto Art Center, 2017). His software projects include ”Feelimage Analyzer ”(VIVA Computer Inc., Microsoft Innovation Award 2008, IPA Software Product of the Year 2009), ”PhotoMusic ”(Cloud10 Corporation), and ”mupic” (DIVA Co., Ltd.). http://geishikiken.info/