文学者と画家の協働の歴史 昭和を代表する挿絵画家に公私で分け入るユニークな評伝
本書は戦後文学において数多くの挿絵を描いた挿絵画家、風間完の評伝である。戦後文学を代表する松本清張、司馬遼太郎、五木寛之、池波正太郎、向田邦子、瀬戸内寂聴など名だたる作家の挿絵を描いており、作家や小説によって作風を変えていたが、抒情溢れる風景画や憂いを帯びた独特な美人画は、「風間完」という名前を知らなくても、多くの人々の記憶に残っているだろう。
ただし、1919(大正8)年生まれの風間完が亡くなったのは2003(平成15)年。すでに20年の時を経ており、風間が活躍した新聞は大幅に部数が減り、雑誌も休刊や廃刊、発行部数も減少の一途をたどっている。風間が活躍した時代も遠くなりつつある。
評伝が出るのがやや遅かったのではないかと思わないではないが、それには理由がある。評伝の体裁はとっているが、この本は風間の長男であるフランス文学研究者(法政大学名誉教授)、風間研が大学の退任後に書いたものだ。その点では、岡本太郎が両親である漫画家、岡本一平と小説家・歌人の岡本かの子を評した『一平 かの子』に近いともいえる。
ただし、著者が研究者だけあって、私的な思い出に加えて、風間の置かれていた状況を、さまざまな同時代の文学者の記述を丹念に調べ、風間の心境に分け入っている。その点では、メディアの外と中に分離していた風間のイメージを紡ぎ直したものだといえる。
もちろん、生前の風間を知る編集者や小説家、画家仲間をインタビューし言質を取るのが一番とは思うが、同世代となるとすでに100歳を超えてしまい、存命の人々はほとんどいない。1932(昭和7)年生まれの五木寛之ですらすでに90歳を超えている。
だからメディアから調べるしか方法はなかったという面はある。それが逆に、風間だけではなく、当時の日本人や、挿絵画家が置かれていた状況が詳しく記載されており、風間を中心とした近現代の「挿絵画家論」にもなっているのがユニークな点だろう。
日本では絵巻や写本、版本などで多くの挿絵が描かれてきた。しかし、今日における挿絵は、新聞や雑誌といった近代的なメディアが登場して以降のことであり、それに伴い多くの挿絵画家が誕生した。しかし、東京美術学校(現・東京藝術大学)などのアカデミックな高等教育を受けた画家たちは、官展やそれを継承した日展などの団体展に入選することが第一義であり、挿絵は低いものとして見られていた。一世代前の挿絵画家、岩田専太郎は「挿絵画家には椅子がない」と嘆いていたし、挿絵を手掛けた一流の画家たちにとっても副業の位置付けであった。
挿絵が純粋芸術ではなく、文学に付属した商業美術とみなされたことも大きいだろう。しかし風間は挿絵とは作家との勝負であり、そこに緊張関係があり、小説家に働きかけなければいけないと考えていたという。それは本阿弥光悦と俵屋宗達の関係を思わせる。
風間は東京高等工芸学校卒(後の千葉大学工学部)であるが、生活するために家具職人になる訓練を受けたという。一時、岩手の美術教師となり、その時、後に妻となる啓子と出会い著者が生まれる。戦後、新制作派協会展作家賞を受賞。当時、趣のある風景画に対して瀧口修造による批評もされている。その後、邦枝完二の『恋あやめ』で新聞の挿絵にデビューし洋画風の洗練された絵が評判となる。また、挿絵画家のかたわら、パリに留学して画業の研鑽を積み、野見山暁治らと交流する。ただし、戦後になると写生をもとにした絵画が主流じゃなくなるので、むしろ風間の画風は挿絵画家だからこそ発揮されたかもしれない。
最後の章では1981年、飛行機事故で亡くなった向田邦子にシンパシーを覚え、片思いをしていたのではないかと推測している。そして向田が亡くなってから試行錯誤を繰り返し、「美人画」が向上したのではないかと指摘する。たしかに、風間が描く、髪を上げた凛とした美人画の魅力は向田に通じるものがあるかもしれない。同時に髪を上げるからこそ、和装でも洋装でも同じように描くことができるという工夫でもあっただろう。
戦後、文字と絵による読み物は漫画が発展し、挿絵の存在感は薄くなっていたが、今日のライトノベルは物語にとって挿絵が欠かせないことを改めて証明した。その意味でも、風間の画業は、日本の文学者と画家の協働の歴史としてもう一度見直されるべきだろう。