写真と絵画の差異の輪郭を描く
「Picture(s)」
会期:2023年 2月25日(土)~3月19日(日)
会場:Gallery PARC
2023年 2月25日(土)から 3月19日(日)まで、京都の堀川新文化ビルヂングに入居しているGallery PARCで田中和人の個展「Picture(s)」が開催された。田中は、写真を主にしたアーティストであるが、写真と絵画の関係性、それに伴うイメージの生成について探求を続けている。
今回の展覧会のタイトルとなっている「Picture(s)」は、新作シリーズのタイトルでもあるが、田中自身の探求そのものの名前といってもいいかもしれない。2021年、同名の展覧会が、4年ぶりの東京の個展としてKANA KAWANISHI GALLERYで開催されており、今回の展覧会はそれに引き続くものだが、過去作も併せて展示されており、田中の探求の軌跡を一望できるものとなった。
写真と絵画が別の表現として分岐したのは、肖像画のような画家の仕事が写真の発明によって奪われていき、絵画だけでしかできない表現を模索するようになったからだ。いっぽうで、デイヴィッド・ホックニーが指摘しているように、画家たちは写実的に描くために、初期においては凸面鏡、その後はカメラ・ルシーダのような光学的な道具を使って輪郭線を「トレース」してきた歴史がある。言わば最後の仕上げの着彩をしていたのが画家だったというわけである。カメラの発明以降も、ウジェーヌ・アジェのような写真家のプリントを素材にして画家は絵画を描いてきた。ルネサンス以降、遠近法を規範としたデッサンの上手さ、正確さが重視されていたが、そのように光学機器やカメラ、写真による「カンニング」が前提にあったのだ。
いっぽうで印象派から抽象画、カラーフィールド・ペインティングに至るまで、絵画の自律性、純粋性を目指して写真からできるだけ離れるように絵画は変化していった潮流はある。写真もまた写真でしかできないストレート・フォトグラフィのような表現に向かったこともある。ただし、次第に写真と絵画は融合していき、今日ではデジタル技術が進行し、写真なのか・絵画なのか、加工されているか・されていないか、平面か・立体かといった違いは、曖昧なものとなっている。
絵画、写真、映像(動画)は分けて記述されることもあるが、英語のPictureはそれらを総称したものである。ホックニーとマーティン・ゲイフォードの共著で話題となった『絵画の歴史』の英語タイトルは、『A History of Pictures』であり、洞窟壁画からiPadによるペイティングに至るまで、すべてPictureとして捉えたものだ。フランス語なら、imageになるかもしれないが、その場合、まだ表出されていない脳内まで包含するだろう。
今回、田中の作品は、カンヴァスの半分にアクリル絵具で描いた抽象的なPictureを元に、もう半分に自身でカラー現像した単色の印画紙(フォトグラム)を切り貼りして、アクリル絵具のPictureに近づける作業を繰り返している。印画紙は、単色であるために、その質感だけが写真の痕跡を残しているが、知らない人には光沢のある色紙にしか見えないかもしれない。印画紙は、アクリル絵具のマテリアルに近づけるために、破られ、折られ、丸められた状態で、半立体的な切り絵のようなコラージュのようなPictureがつくられている。
それは、レンズを使わない写真による「模写」といってもいいかもしれない。そのような変換を通じて、Pictureはどのように変化するのか?それは模写による同じ像だと認知されるのか?見るものは、その関係を把握することを強いられる。
田中の作品は一貫して、Pictureを生成するプロセスに、物理的に介入し、結合する像をズラしていくことを試みてきた。私たちは、結像した像だけを見せられるわけだが、デジタル加工やAIによる加工ではない、物理的で人為的な痕跡をそこに見て取る。その手品はどのようなものかはわからないが、「何か仕掛けられたこと」だけがわかる。
今回、展示されていた過去作に、「GOLD SEES BLUE」シリーズがあるが、それは青い色の森の作品であるが、どのように青い色がつけられているのかはわからない。実は、金箔をカメラの前にフィルターのように覆うと、青色の光だけが透過する。また、フィルターの金箔を反射し、金色と混じっていることもあるため、独特な雰囲気の青になる。
あるいは、「pLastic fLowers」は、机上の花瓶に活けられた花の写真であるが、カメラとの間に透明な板を立て、そこに様々な角度から見た花をドローイングしたり、ペインティングしたりして、板越しにカメラで撮影したものだ。言わば、被写体と被写体を見て描いた絵を、重ね合わせた作品といってよい。本来ならば、実物とドローイングは重なることはないが、透明な板とカメラを使うことで、その両方を捉えようとしている。
「Land」は、飛行機の窓から地表を撮影した写真をプリントアウトし、そこにカラーのライティングを当てることで、違った風景をつくりだしている。現在ならば、そのような加工はデジタル処理をすればいいだけなのかもしれないが、デジタルとは異なる質感、物質感が現れているのは、空間を介しているからであろう。
「PP」は、今回の「Picture(s)」に連なる作品と言ってもよいと思うが、カンヴァスに描いた抽象的な絵画に、カラーのフォトグラフを貼り付けることで、同一の平面にありながら、宙に浮いたようなマティエールが生まれる。この異質な感じこそが、写真と絵画を分かつものなのであろうが、両方がイリュージョンではなく、抽象的かつ物質の次元で、「Picture(s)」を成り立たせている。その違いを際立たすこと自体が、新たなPictureといってもいいかもしれない。今回の「Picture(s)」は、両方の領域を上下に分けながら、田中が模倣することで、別の形で両者をつなげようとしているが、そのことによって異なる違いが生成されている。
田中は、撮影時のフィルター、撮影後のライティング、ペインティング、印画紙によるコラージュなど、撮影前から撮影後に至るまで、さまざまな介入をすることで、写真や絵画の違いを明らかにしようとしてきた。それは「自然(光)の鉛筆」と、物質の絵具の違いといってもいかもしれないが、それがイメージの中でどのように分離あるいは結合するのか、モダニズム的な還元主義ではなく、かといってポストモダニズム的な並列なものではない、両者のメディウムの違いや自律性を探るための、還元的な並置方法といってもいいかもしれない。
抽象表現主義以降の写真は、おおむね絵画の中でコラージュのように扱われたり、ウォーホルのように加工してシルクスクリーンにされたり、リヒターのように写真を被写体にして、描かれたりしてきたが、田中は両者に主従をつけるのではなく、等価なものとして両方を還元的にするというアプローチをとっているように思える。さらに「PP」と「Picture(s)」シリーズとそれまで作品との違いは、前後のレイヤーで結合するわけではなく、両者を並置させてプロセス自体をより可視化させた、つまり種明かしをしているところだろう。それだけに、その違いの輪郭「Picture/s」は、強く太くなっているといえる。そして、その鮮やかな輪郭線だけが人々の記憶に残るのである。